残念ながら、家族を養うためしばらく研究とは違った仕事に就くことになりました。このblogもお休みします。

また再開できる日が来れば。

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因果関係は主観的ではない

釘を刺してみる。

http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50846818.html
http://d.hatena.ne.jp/Kow/20070109

詳しくは、拙著「本当の科学ガイド」に書いているので、其方をご覧いただきたい。

ここでは、かいつまんでだけおくと、

現代科学の基本的な存在論としては、因果関係は事実の範疇とされている(実在論)。
それを否定することは、確立されている科学理論の多くを否定することになる。あなたの日常生活を日々助けているそれら(食糧生産とか医療とか建築とか電気機器とかありとあらゆる諸々)も含めて。
否定してはいけないとは言わないが、代償が大きすぎることを踏まえてほしい。

混乱のポイント

・事実としての因果関係と、因果関係の認識を、混同している。科学的枠組みの中でも、ヒュームの議論を因果関係の認識の話題で持ち出すのはよい。因果関係の認識において何が難しいか、何に注意しなければならないかなど、示唆が得られる。しかしそれだけでは、因果関係の存在を否定するには足りない。

・因果関係の概念を分析しようとするのはよいことだ。しかし結論づけるのが早計である。日常的な(そして科学的な)因果概念を最もよく特徴付けている分析のひとつは、いわゆる INUS condition である。そこで捉えられていることすら満足に考慮できていない。


初学者のために。
INUS condition とは insufficient but non-redundant parts of unnecessary but sufficient condition である。
このくらいのことは Wikipedia にも書いてある時代なので、興味がある方は各自で調べていただければ色々得られると思う。学校でもこれくらいのこと教えればいいのに。

つまり、私たちが日々語る意味での因果とは単純な十分性や必要性ではないことは、その道の人なら百も承知であるというか、常識である。この常識が早く一般市民にも広まってほしい。

また、同様に私がしばしば忠告していることの一つは:
あなたがたの関心のある状況では、ほぼすべての場合、原因はひとつではなく複数ある。なので、あなたが打てる手も複数ある。
これも早く一般市民にも広まってほしい。

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将棋の盤面数

米長永世棋聖がボンクラーズに敗れたというニュースがきたので、将棋ネタでも書いておこうと思う。

将棋(本将棋)の盤面の正確な通り数については私は知らない。そもそも厳密にルールを理解してすらいない。
でも、以前、大まかな通り数を計算してみたことはある。一応専門的にゲーム理論も勉強したし、いろんなきっかけでいろんなゲームの解析をしていた。その一部の痕跡は私のサイトにも顕れているから知る人ぞ知るところ。

だいたい、二歩を考慮して、2.75 × 10 70 通りより少ない程度だ。
連盟公式のはもっと色々ルールがあるようなので(行き所のない駒は禁止とか)、もうすこし小さくなるだろう。

1つの盤面は単純に考えて45バイトあれば十分表現できるが、もっと小さくできる。
2.75 × 10 70 < 2 234
ということで高々234ビットにはできるはず。

検索すると 10 220 みたいな記載をみかけるが、それはおそらく指し手の通り数(しかもかなりアバウトな概算)であって、盤面の通り数ではない。

しかし、着手の通り数を考えるのは、連盟のルールに文脈(ヒストリー)に関するものが含まれているからだと思われる。そういうルールだと、手順を考慮しないと必勝プログラムは作れない。2 234でも十分大変だが、このことがさらに難度を高くしている。


これまでゲームやロボットやいろいろな「俗に言う人工知能」を作ってきた私だが、将棋のは単純に数理的な問題なので、いまのところあまり興味がない。でも将棋は好きなので、いつかやる日が来るのかな。

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良い問いと悪い問い: 一方そのころ

先の記事から削った余談。


二、外の世界のほんとうの有り様とか法則とかは、我々の能力ではすべて思い浮かべられないかもしれない。

これは、これまでにも書いた感覚の性質にもとづく論(例えばこれなど)とはちょっと違って、悟性の限界の意味です。
たぶん過去に同じように思った人がたくさんいたことでしょう。

先の記事では、図の B に含まれない A の話でしたが、こちらは A に含まれない B (以下これを I と呼ぶことにします)の話です。


そういう I があったとしたら、我々にはどう見えるのか。
端的に言って、まったく無関係でいられるかもしれません。あるいは、「この世界ってよくわかんない世界だな」となるかもしれません。しかしそのよくわかんなさの原因を知ることはできません。
すなわち、I があるのかどうかは当然認識できず、よくわかんないのが A の内側のせいなのか A の外側に何かあるからなのかを区別できないのです。

二次元に落とした影からは元が何次元だったのかはわからない、のと同様です。


これは、我々によるこの世界の理解の限界点を言っているわけですが、しかし、
認識能力が誰しも、未来の誰もかも、同じであるとは限りません。
つまり、我々とは根本的に違う能力を持ち、違う仕方でこの世界について考える人がいるかもしれません。それこそが進化というものを支える要素なのですが。

よって、世界の把握をあきらめる必要はない。

でもなー、どうしてそれが人だということがあろうか。

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日本の教育は閉鎖的

まあ、その筋の職場にいる私が言うのも変だが(だからこそではないのだよ、だからこそでは)、


教育も、医療や法律家と同様に、大きく分ければ第三次産業にあたる。

でも、(現状の)教育業界では、消費者によるサービスの質の比較、検討ができない。
なので、基本的な原理が働かず、より良いサービスが残っていくという力動性は期待できない。
ゆえに日本の教育は進歩してないのである。

日本の学校教育の場合、途中で他へいくのは難しいので、事前の情報収集が非常に重要なのだが、いかんせん、手に入らない。学校側もつまびらかにしていない。

実のところ、つまびらかにできない、のだろう。
本当に良いものを提供しているなら、完全にオープンにしても何の問題もなく、むしろ入学希望は増える一方のはずだが、たぶん中身が相当ヘボいので、できない。大人の事情。

ということで閉鎖的。

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本を読む理由

私も日々、山ほど本を読んでいるが、身内からすら怪訝な目をされることもある。
私を含めた一群の人たちが、何のためにそんなに本を読んでいるか。理由は大きく2つ。

ひとつは、新しいことを知るため。
こっちの理由で読んでいるときははワクワクする。たのしい。

もうひとつは、批判するため。
こっちは楽しくない。

楽しくないのになぜ読んでるのかって、仕事だからですよ。

我々の仕事では、批判する側がここここでしょって根拠を提示しなければならないルールになっている(これは当然)。
なので、全部読まなければ批判できない。
たまに、その後に筆者が意見を変えた場合とかもあって、それに気づかずにいると現在としては的外れな批判になってしまう。だから、更新を全部チェックしなければならない。
これを怠っている人は結構多い。なにしろ大変な作業だからね。
それどころか、ひとつもその人の作品を読まずに批判している人もいる。これはひどい。
さらにもっとひどいのは、読んだと言っているのに(典型的には引用文献に挙げているのに)それを実際は読んでおらず批評しているケース。学界の実情としてはこれも結構ある。ほんとひどい。

大変だけどやらずに済ませる方法はないのだから、少しでも効率化するシステムができれば、悪行も減ることでしょう。
たとえば、ある人の主張や理論や執筆物の更新を常にトレース・メンテし誰でも簡単に最新にアクセスできるようなシステムがあれば、かなり楽になる。

私一人が作って自分だけ使っていても仕方ないので、大きな改革を要する。

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simplist's cleaver

fam です。
いろいろなところで、オッカムの剃刀 Occam's razor がよく引かれますが、それについての説明が間違っていることがときどきあります。しかし、次に挙げる場合に比すれば頻度はさほどでもないです。

これは私の研究の一部なのですが、人はどうやら単純なものを好むようです。非常に荒っぽい一般論として。

余談ですが、その理由について。
大量な文脈を調べないといけないのでまだ途上ですが、一つの有力候補として、認知能力が限られている、というのが挙げられます。(c.f. 行為する有限の人間
さらには、認知システムの作り方として、ある特定の複雑性レベルを中心とするよう最適化されてて、こうなっている、という理由も有力です。

それはともかく、わき出てくるこの単純さへの希求に素直に従ってはいけません。

オッカムの剃刀が、まともだと評価されるのは、次の条件が付いているからです:
歴史的な事は私も詳しくないですが、古くからの表現の1つとして

Plurality must never be posited without necessity.

より現代的な表現としては
other things being equal, a simpler explanation is better than a more complex one.

(c.f. ceteris paribus)

複数の理論やモデルを比較する場合、この without necessity あるいは other things being equal には、同じ説明力を持つ、というのが中心的部分として含まれます。
よって、この剃刀によってエンティティを削るとしたら、それによって少々説明力が落ちてはならないのです。
なのに、この点を誤って剃刀を引いている例が多いのです。

例えば、回帰分析で、説明変数の数を減らすと、全体での分散説明率が落ちます。しかしモデルは単純になります。
こういう場合に、オッカムの剃刀を引用して変数を減らすことを正当化しようとします。これが間違いです。
オッカムの剃刀はそういうことを勧めているのではありません。

誤解の無いようにしてほしいのは、ここで指摘しているのは「オッカムの剃刀の内容を正確に理解して使っていない」事であって、上記の例のように、回帰分析で変数を減らす行い自体をダメだと言っているのではない、ということです。

こういう場合に変数を減らすことの正当化に使えるのはオッカムの剃刀ではありません。他の何らかの正当化が要るでしょう。(そして実のところその正当化はかなり難題でしょう。これが私が研究してきた内容でもあるし、何百年も前から学者が格闘している問題でもあります。)

「多少説明力は落ちるけど、がっつり単純になるから、こっちのほうがいいや」というのは、単純主義です。(上で正当化が難しいと書いたとおり、単純主義が真実に近づくことは保証されていません)
大なたを振るって、食べれる部分もごっそり切り落として、綺麗な角形のサーロインだけ残しているのです。
それは繊細な剃刀の技ではありません。

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形式体系とカラッポの構造

述語論理に関する以前の記事がけっこう反響があるようなので、続編めいたものを。

前は量化子をネタにしたのだが、そのような記号を含んでいる公理や推論規則を入れた形式体系(formal system)は、それによって解釈(interpretation)を制限している。これはフツーのことであり、記号論理学において推論規則や論理公理(logical axioms)は論理記号の意味を絞る役割を担っている(これをどのようにして成すかがまさに形式化の仕方の違いである)。
全称例化の公理図式を組み入れるということは、モデルのユニバースを空にすることを禁じる。WikipediaでStructureについての記事にて

This is similar to the definition of a prime number in elementary number theory, which has been carefully chosen so that the irreducible number 1 is not considered prime. The convention that structures may not be empty is particularly important in logic, because several common inference rules are not sound when empty structures are permitted. (retrieved 2011-08-17)

とあるように、確かにこれは広く用いられている慣例である。しかし、慣例であって、体系を作るのに必須ではない。もちろん、これを抜いてしまうと体系としては 貧弱貧弱ゥ!! なことになる。数学者はそんなものにまったく興味を持たないかもしれない。
ただ、その場合でも述語記号はいくら用意しても問題ない、というのがひとつポイントである。つまり、見た目広辞苑を全部カバーするくらいリッチな述語記号セットを張りぼてすることもできる。

論理学者や数学基礎論者は、まず formal な系を与えてその性質について調べる、という方向での仕事に興味があるかもしれないが、数理論理学の成果を応用したい人たち、例えば自分の分野の理論を形式化したい科学者などは逆だ。(多くの数学者もそうかもしれない。)すなわち、まず構造ありきである。そしてその構造をモデルにしてくれるような理論体系を後から作る。もっと日常的に喩えれば、言いたいことがまずあって、それからその記号的表現を考える。この順序がフツーだ。
加えて重要な特徴は、科学者はユニバースをコロコロと変えて考える。つまり、ユニバースは静的なのがドンと1つあるのではなく、文脈によって相手にする範囲は動的に変化するのがフツーである。
このようにユニバースが(従って構造が)文脈によって変わってしまうのを避けるために、すべてを含むユニバースを用意しておいて ∀x∈D. P(x) とか∃x∈D. P(x) とか、条件をつけて話したい範囲を限定した定式化を行うという事例もよくある。
ここで ∀x∈D. P(x) と ∃x∈D. P(x) はこの形だと似ているが、きちんと書き直すと似ていない形になるというのが、前の記事での要点と関連する。

現場の応用者は対象範囲の条件をコロコロ変えて話をするので、話の流れでいつのまにか対象範囲が空になっていたりいなかったりする(もちろん自然言語で対話しているときも)。よって、 ∀x∈D. P(x) は D が空でも成立する(一方 ∃x∈D. P(x) は成立しない)というのを理解し注意しておくのは、科学者がロジックでこけないために不可欠である。
先に指摘したように、対象領域が空であっても(科学者の話に該当するものは1つも存在しなくても)その分野の理論における述語はどんどん着飾ることができる。だから、なんか専門用語がたくさん入った理論を提唱して世界を記述した気になっていても、実は何も記述していない、というのは極端な例としてありうる話だ(そんなマヌケなプロはいないと期待したい)。

まあ、そもそも意味不明な用語が多いのをなんとかしなければスタート地点にも立てないのだが。

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