メタ教科

昔、K先生のゼミで聞いて依頼の封印ネタなのだが、

自由と教育

何を教えるかを教える側が決めている時点で、自由が阻害される。
よってリバタリアンがもし追求するなら、結局、偏りのないメタ教科が必要となるのではないかと私は思っている。
メタ百科事典でもいいけど。

しかしそのようなものは、いったい発育のどの時点で導入可能なのか?
小学1年生に、この世の中にどういう学問や思想があるか全部理解してもらえるよう説明し、選択してもらうのは無理でしょう。
法律的にも、判断能力はないとされているわけだし。
現状では成人に対してすら無理だと思われるが・・・。

結局、developmental systems theory みたいな話になってくる。

するってーと、不可能な理想ではないか。

それなら近似、という話になるかと思うが、どの種の近似であればよいのか。
初等中等教育で偏りを薄めればよいのか?
じゃあ偏り具合はどうやって判定するのか?人口比率か?そんなばかな。

メタ教科むずかしいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誤った怒り

正しい怒り、間違った怒り、というと、2つの意味に取れる。
1つは、倫理なり、法律なり、何か規範があって、それに従っている場合を正しい、外れている場合を誤り、とするもの。
これは置いておいて、ここではもう一方の意味について書く。
つまり、真、偽の意味で、正しい、誤りという場合のこと。

誤った憎しみ、悲しみ、喜び、怒り、等々、何でもよいが、こういう感情について正しいとか間違いとか言うことは錯誤である(「価値判断と事実判断と帰納」も参考に)。
それは、それ自体ではない他の何かと照らして一致しているとかしていないとか、そういうものではないのだから、真であるとか偽であるとかは(対応説の意味では)該当しない。
例えば怒りというのは、その「感じ」が怒りなのであり、きっかけはあろうとも、内容はない。欲求と区別しなければならない。(しかし自分や他者の感情についての「言明」には真とか偽とか言うことができる事に注意。)

ところが、正しい怒り、誤った怒りと私が表現するときは、適切な表現ではないかも知れないが、これを超えた先の意味があって、それはつまり、この怒りのきっかけが正しいかどうか、という意味である。
だから、正確に表現するなら、「正しい認識にもとづく怒り」、「誤った認識にもとづく怒り」となるのかもしれない。

ピンときた方、good.
怒りや憎しみや憤りは否定できないが、そのきっかけは否定できる。そして修正できる。
これは法に心理学的にアプローチする場合の最も重要な概念の1つだと思われる。

self-regulation研究の観点からも重要であるが、基礎研究と臨床研究と実践がまだまだ足りない。重要性を早く理解して、沢山税金を投入してほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生きることは

生きることは目的ではなく手段です。

しかしほとんどの場合、それは必要不可欠な手段です。

該当する皆さん、がんばっていきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NHSTの立ち位置

今回は非常に消極的なやり方でしか是認できなかった。
この結果はANOVAのそれを思い起こさせるなあ。

p rep は bayesian。
しかしbayesianismが文句なくコミットできるわけではない。でもきれいな切り方がまとまっていない。

今進めている仕事でそのうち、この懐かしい研究テーマである確率のところにもう一度帰ってこなければならないだろうけど、そのころにはおそらくまとまる予感がしている。何かかゆい感じ。

NHSTはもう半世紀ももたないと予想する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベクトル量

今月の研究会で興味深いネタを拾ったが、Tさんの研究に差し支えるかもしれないのであんまり詳しくは書かない。

単位に依存しないどころか、座標系に依存しない理論って、心理学では私は知らない。不勉強なだけかも知れないが。
というか、ベクトル量(あるいはもっと一般的にテンソル量?)の心理量もたぶんほとんどない。
ベクトルっぽいのは沢山使われていて論文に沢山登場するのに、それは目下の所、個々のスカラーの単なるcollectionと強引に解釈に持って行かれるようだ。

というか、心理学以外でも、物理学以外に理論的措定者に多次元を当てるようなものはほとんど無いのではないか?発展が足らないだけか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学問と共有

先日の研究会にて、古くから保留していたネタが出てきた。予想外だった。

学問たるには「共有性」は必須か?

簡単に言うと、得た(と認識している)知見を、他の人と共有しなければ、学問ではないのか?例えば、心理実験をして新しい現象を発見をしたとしても、それを誰にも言わずに研究を進めていると、それは心理学ではないのか?というようなことだ。

研究会では意見はまっぷたつ(?)に別れたわけだが・・・。

出た例を挙げてみよう。
地球から遠くの星で心理学研究をやっている人がいて、自分を被験者に実験をして、いろいろおもしろい現象やその説明を見つけた。その星には他に人がいないので、その人は誰にもそのことを伝えていない。しかし、彼の持っている心理学的知識は、地球の人々のそれよりもだいぶ進んでいるとしよう。この場合、彼のやっていることは心理学ではなくなるのか?

興味深い意見としてTさんが出したのは、「確かに地球の人が知らないことを彼は知っているが、それを地球の我々は心理学とは「呼ばない」」。

他の例。遠くの星でなくても、どっか地下にこもって他の人との連絡を絶って1人で怪しげな研究している人っていう設定は、小説とか映画とかでよくある話だ。普通の人々の間では倫理的に許されないような実験とかをしてて、そういう人を呼ぶのに「マッドサイエンティスト」という言葉をあてたりされている。これを額面どおりとるなら、その人はたしかに科学者ということになるが・・・。

まあ、現場の我々としてはどうでもいい話だが、「学問」とか「科学」とかを定義したい人には気になる話でしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

分析結果はデータの関数

当然すぎて、言うとバカにされるようなことかと思ってましたが、意外とそうでないっぽいので。

タイトル通り。
そう、統計解析の結果はデータの関数です。

だから、ローデータが内在させている情報以外は出てきません。
そんなものが出てくるとしたら、根拠のない主張をしているか、そのローデータ以外のものが混ざっているか、どちらかでしょう。

以前どなたかが、「データ自体が十分統計量だから」みたいなことを言ってましたね。

だから何だということですが、
分析にかけて得た結果というのは、最初からデータに含まれているのです。
そしてそれはローデータを眺めるだけで見つけられる類の知見かもしれません。
データ分析というのは、「データ眺め」では見つけにくい「データが内在させている情報」を見つけやすくするための補助道具なのです。メガネです。
だから、メガネかけなくても見えるものについては、分析なんて要らんのです。

ぱっと見て明らかなところに、わざとらしく統計分析を適用するのは、やめましょう。
それは冗長なばかりか、「この人はわかっていないで使っているのでは」という疑いを差し挟まれかねません。
もちろん、明らかでないときは必要ですよ。

複雑な計算を自動的にやってくれる統計ソフトを起動する前に、ぱっと見て明らかかどうかを確認するためにぱっと見ましょう。
図も書きましょう。
それでも不明であれば、ソフトさんお願いします、と手を合わせましょう。

エコですか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

truthとvalidity

先日の研究会で久々に取り上げた。

真理の概念。哲学的には主要な説が6種類ほどある。これは、おさらい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Truth
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

そして、妥当性の概念。論理学的には、シンプルな定義。
http://en.wikipedia.org/wiki/Validity
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%A5%E5%BD%93%E6%80%A7

で、科学的研究においての「妥当性」概念は、論理学のそれとは(派生するとは思うが)異なる意味である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Validity_(statistics)

暗黙の主流であるキャンベリアンな方法論では、次のように言われている。

We use the term validity to refer to the approximate truth of an incefece.
Shadish, Cook, & Campbell (2001) p.34

また、
Validity is a property of inferences. It is not a property of designs or methods, for the same design may contribute to more or less valid inferences under different circumstances.
ibid.

truthに関しても、科学者にとっては、哲学者のどれなのか的な議論はどうでもよい。

we need not endorse any one of these as the single correct definition of truth in order to endorse each of them as part of a complete description of the practical strategies scientists actually use to construct, revise, and justify knowledge claims.
ibid. p.35

しかしながら、科学者も、暗黙的にせよ、truthに関する何らかの説たちにコミットしていることには変わりない。
それならば、それを明示し、妥当性概念との関係も曖昧でなくするのがbetterであることは言うまでもない。

妥当性というのは、素人向けに言えば、研究のよしあしそのもののことである。その研究報告を信じてよいかどうかのことである。

こんな、研究を行う上で根本的な概念であるのに、それに曖昧な部分を残すのはいかがなものかと誰もが思うだろう。しかし実状は、この概念は、多くの科学者にとって少なくとも明示的ではない。

深刻な問題につながるのは、truthに関してコミットしている内容が研究者によって異なる場合があって(特に近年そのようなケースが増えてきて)、そうするとまったくと言っていいほど研究者同士で話が噛み合わないことになるのである。しかしながら、このようなtruthやvalidityの概念も明示的でない場合には、当人が噛み合わないことにすら気づいていないこともある。
そしてさらに私の横っ腹を痛くしてくれるのは、そのような「気づいていない」対話にて「成功裏に終わった」とか総括された場合である。

昔からふれていることだが、そういう暗黙の前提を明示的にして、各分野で何がrequireされるのか、何はoptionalなのか、について多くの人が精力的に議論し、公表すべきだと思う。研究の評価というのは、本来それも込みでないと行えないことのはずだし。

私が知る限りでは、我々の分野の投稿規定・投稿の手びきには、体裁に関する言及しかない。内容に関しては、明文化されておらず、refereeの主観に任せられている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«resolution, 有効桁数, 弁別力