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2004年5月

論理はどこまで社会文化的に還元できるか?

私は論理自体の証明ができない。ルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」と同様である。またこれはゲーデルの不完全性定理が言っていることと同じなのかもしれない。
私は社会文化的に共有されるものとしてlogicを考える。つまり、絶対的根拠を疑おうというのである。
論理的法則は、一部の学者にすれば「宇宙の法則」とまで言いまわされるものである。
相対主義的な観点からすれば、logicもまた我々にとって真であるだけなのかもしれない。
しかし、証明ができずともそれが真であると信じていることから考えて、それが社会文化的なものですべて説明できるかというと、そう断言するのは少々早すぎるように思う。
どこまで還元できるのか、還元できない部分はあるのか、それが宇宙の真理なのか、はたまた好都合な作り物か?
この問題は私が取り組んでいることの重要な柱の一つである。

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比較と認識

「すべての認識は比較である。」
これは私が14、5のころから持っていた考えであり、私の数多くの"主義"の中でも最も古いものの一つである。

「認識する」は必ず「比較する」を(その過程として)伴わなければならない。逆に言うと、比較を避けて認識することはできない。この比較というのはわれわれが一般的に比較だと思っているような比較ではないかもしれない。しかし確実にそこに比較は存在する。そして、もう一つ重要な注意あるいは焦点とわれわれが呼んでいる機能が人間にはあるがために、この比較はしばしば対照と呼ばれる。認識はこのような比較によってはじめて成立するのであり、われわれが何かをその何かだと同定しているときには常にそれが比較である。すなわちあるものはそれ自体ではそれだと認識されるものではない。それでないものが存在してはじめてそれはそれであるのだ。量的なものだろうが質的なものだろうが、時間だろうが距離だろうが、われわれが「知る」ものすべてにこの原理は当てはまる。認識が比較だということは相対的だということである。すなわち認識に絶対的なものなどない。例えば赤い色は赤でない色がわかるから赤い色だと認識できるのである。1mの長さは、それが単なる幅でなく1mであるのは単位と(モノサシと)比較するからである。客観的絶対的物質空間が存在しないと言っているのではない。認識が相対的なのである。そしてこれは物理的認識だけでなく社会的、文化的、言語的なものにも当てはまる。やさしい人がやさしい人であるのはやさしくない人がわかるからであるし、この「やさしい」という言葉の役割は前者の人と後者の人をなんらかの次元において比較し(区別し)前者を指すようにするものである。そろそろお気づきかもしれないが、これは表裏、二分法、二面性、両性、陰陽、分類、区分、線引き、否定、図と地、などというキータームに本質的に関わっているものである。このようなタームを使って何かを説明したようなことになっているものはたいていこの比較にもとづく認識の原理を根底に抱えてそれにあやかっているにすぎないだろう。いや、私の説も含めて、どれも同じことを言っている、と言いなおしても良い。しかし最もシンプルに言えば「比較」である。それはこの世に客観的に備わっている法則(たとえば宇宙の法則)なのではなく、われわれ人の側の認識の原理なのである。比較とは、と説明したいところだが、「比べる」という行いはそれ以上分析できないように(現時点の考察では)思われる。

このような考え方をしている人が他にもいるだろうか。哲学者の歴史を振り返ると一人くらいいてもよさそうに思うが、何しろ私が不勉強なため知識がない。ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。

ここに私はあらためて比較主義を唱える。
いやこの言い方はおかしい。
比較主義を思い出し、ここに書き留める。

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