« モデリング | トップページ | 心理学の基礎づけ »

自律的情報制限

アニメやビデオゲームや特撮や・・・
私はこのような文化の中で育てられ、このようなものが好きである。私の育った環境からして、メディアとは第一に遊び道具であった。
私は映画を見たりゲーム(ストーリーを付けているもの)をやったりするまえに、できるだけそれらについての事前情報を得ないようにする習慣がある。自分のPCとネットワーク環境を持ち、内容に"深く"関係する情報に事前に自由にアクセスできるようになってしまった最近は特にそうである。要するに、「ネタばれ」と呼ばれるものを意図的に避けているのであるが、ストーリーのネタだけでなく、感想や論評の類も避けている。たとえそれが抽象的な形容概念や具体性を持たない誉め言葉だけで構成されていたとしてもである。
もちろん、自分にとってそうするほうがよい、と思っているからそのようにしているのであるが、考えてみるとこれは、情報制限ではないか。しかも自律的な。
そして、それがよいと思っている私のこの感覚は、何なのであろうか。というのも、自分でうまく説明できないのである。それはなぜだか直観的なものなのだ。メモとしてここに書いておくと、この直観の内容は、「それがその作品に対して最も"純粋"で"誠実"な視点をとる方法である」、あるいは、「そうしなければ評価が歪む」、「そうしていれば見出せたはずの何かを見失う」というものである。
これは一体どういうことであろうか。もちろん私の中に埋め込まれた(共有的な)認識観を端的に表したものと考えることもできる。しかしそのようなものは"構成"されるのか。逆説的に思えてしまう。なぜって、その論評こそがまさに構成の過程を例示する際の代表選手であると思われたからだ。コントラストでこちらが見えるようになった。直接伝導されるものはこちらであろう。そこから方法論を帰納するのだというのであれば、その帰納のためのルールはどう決めるのか?それは構成されるものではないのか?どれが構成物でどれはそうでないのか?間に関数関係を挟んでしまうと、「すべてが」は主張しにくくなる。だから、どこかで普遍性に訴えて止めなければならないのでは。そしてそれがどの次元であるのかが関心となるはずだ。

|

« モデリング | トップページ | 心理学の基礎づけ »

Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/479012

この記事へのトラックバック一覧です: 自律的情報制限:

« モデリング | トップページ | 心理学の基礎づけ »