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2004年9月

不可知均等分布の原理

the principle of the equidistribution of ignorance(不可知均等分布の原理)を知っているだろうか。Bayes' postulateとも言われている。これは実のところpostulateなんだからprincipleと言ってしまっていいものかと思うが、ものによってはこう紹介されているのでここではとりあえず原理というふうに書いておこう。んー、不可知という訳もおかしくないかなぁ・・。
ま、簡単に言うと(そのものが簡単なのだが)、複数の仮説の事前確率がすべて未知の場合に、それらをすべて等しいとみなすことである。これはBayesの定理(条件付確率、事前確率と事後確率の関係式、それを利用した事後確率の導出)が絡む場面ではどこでも重要になってくる問題である。論争も多いらしい。
もっと平易な言葉で表現してみよう。「知らないんだからとりあえず全部おなじように起こると考えよう。」 もっと簡単に。 「わからんものはみんな一緒にしとけ。」
ここで素人でもやるだろうツッコミ。「わからんかったら一緒でええんかい!」
で、最尤推定法が仲良くなっちゃって、学生にこいつを説明せにゃならんようになるわけだ。

余談は置いておいて、この原理だが、非常に人の認知システムの核心を突いているように私には思われる。この原理をそのような目で見ている人、どれくらいいるかなぁ。
わからないなら、点数の付けようがないんだから、五分五分でいいじゃん。しかし一方で、そりゃおかしいよなあ、という直観。

わからんものは五分でいいという人、この世の出来事のうちあなたが知らないものすべては全部同じ確率で起こることになってます、今のところ。。
この原理はおかしいよなあと思う人、おかしい理由をきちんと筋道立てて述べてください。だってそう感じるもの、みたいな直観を参照せずに。その際、この原理の但し書き、「事前確率がすべて未知の場合」をお忘れなく。

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この原理は、
・理由不十分の原理
・不充足理由律
・無差別の原理
と呼ばれているものと同じもののようです。

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OCW

ちょっと前のネタだけど。。
オープンコースウェア
http://ocw.mit.edu/
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20021009209.html
これぐらいやってよい。というか当然。
でも、やっぱり日本だけでなくアメリカでもそうなのね。大学で実際に何やってるかというのは外部の人にはわからないようになってるもんだ。んで、大学ってだけでなんだか偉そうに市民が思ってしまうし、高校生たちも、どの大学に行くのがいいんだか判断材料がとっても少ない、なんてことになってしまう。「先輩からのメッセージ」や「オープンキャンパス」なんかでは何もわからんよ。
しかし、おそらく、一般に資料が出ないのは、それまでwebという誰でも容易にそのままの形で授業情報を入手できるツールがなかったから、という理由はけっこう大きいはず。それが可能になった現在は、どんどんこういうのが出てきておかしくない。
とはいうものの、今の様子を見ると日本の大学は腰を上げるのが比較的遅いな。websiteはどこもきれいなトップをかざるようになってきたけど、講義資料を公開するのは気が引けるのか? 政府の許可をおろす(=資金がもらえる)役人の見識が狭いのか??<このプロジェクトにあんまり金は必要ないと思うが。 それとも大学人が単にサボってるだけか???

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mitochondria-assembly hypothesis

私はここ以外にもいろんなところで文章をかいてますが、当初は私なりに区別というか、「ここではこんなジャンルのことを書こう」みたいな決まりをつくっておりました。
がしかし、んー、方向転換。というか幅を広げよう、ここで書くことの。
と思って、これは今までとはちょっと異色かもしれませんが、全体的なネタ幅が拡大されたと思ってください。
飛んだ話も書きましょう。(といっても意外と本人はまじだったりするんだけど。)

先日、某さん(複数)と一杯やっているときに話題に挙げたのをきっかけに、しばらくの間、昔のモノを掘り出していた。ここではオリジナルの説と、その後今回確認して「やっぱりそうだったよな」とうなずいた事柄について書く。

私の mitochondria-assembly hypothesis とは、なんと!ミトコンドリアがわれわれの心の正体ではないか、という二流SF級のとんでもない説である。
んで、「それってパラサイト・イヴみたいだね」という某さんの発言を受けて、「そういえばパラサイト・イヴはミトコンドリアが話の核心だったのは覚えてるけど、あれって細かく言えばどう考えてたんだっけ?」と、棚をゴソゴソ探すことになったわけだ。
で、(もしかすると理解がまちがってるかもしれないが) あれは、長年潜伏していた(核のためにせっせと働いていた)ミトコンドリアが意志を持って逆に人間を支配する、というスジみたい。
というわけで、私の説とはちがーう。
私の説は、ミトコンドリアそのものが「われわれ」だ、というものだ。われわれの体の中に主体としての「わたし」と「ミトコンドリア」の2者が存在して・・・みたいな話ではない。いまこうしてしゃべって、ここに字を書いて、笑っているコイツの正体がミトコンドリア(群)だというのが、この説である。
まあ、だれもまともには取りあってくれんがね・・・。
しかも私自身もこれを激しく信奉しているわけでもないし。。
まさにネタだな。

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複数の説明レベルとそのつながり

続いた日心ネタもこれでおわるかな?

戸田山さんの発言から。(正確に同じではない。私の補足解釈が多分に入っている。)
「心理学ではいろんなレベルのことが調べられている。社会心理学者が調べているような複雑なことだったり、認知心理学者がやっているような知覚や記憶などもっと低次のことだったり、あるいは脳・神経機構であったり。そしてもちろん高次なシステムは低次なシステムから何らかの制約なり影響を受けるはず。でも、心理学者の発表を見ている限り、それらの個々に調べられていることの間のつながりがどうなっているのかについて議論されていないように思える。もちろん、このような分野の細別化と分業は、心理学だけでなく成熟した科学的学問にはどこにも見られることだからそれが悪いということではないのだが、部外者として傍から見た感じからすると、その異なるレベル同士の関係が当の心理学者の間で議論されていないのは残念というか、そう見えるんだけどそのようなこと議論するような場はあるのかい?」
こんなところだったかな。
その通りです。私にも場はないように見えます。
んで、かねてから、そのような場を作ることで、心理学者(とくに私が知っている頭が良くて見込みがある人たち)にもそのような問題意識を持ってほしいと願って、いろんな研究会を鼓舞しているわけですが、いまだに実になっているかどうか怪しいところです。。
まあ、まだもう少しがんばる予定ですが。

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素朴二元論

私が研究会などで指摘してきたことの一つについて近いところに触れる発言を、今回、竹村さんがしていた。気づく人は気づいているのだと確認することができた。

竹村流に言えば、それは、アニミズムだそうだ。まあそういう言い方もあるかな。
問題のコアは、ヒトを理解するにあたって科学的アプローチをとっている(とろうとしている)学問が、心なる(物理的でない)ものの存在を仮定し、それをもって説明しているように見える、というところにある。
私が以前使った言葉ではこうだ。「科学的方法にのっけるなら対象は客観的な物理的事実であり、他の自然諸科学と同じ世界を記述するルールによって法則的に説明されなければならない。しかし、なぜだか現代の心理学者の一部は、一般市民が考えるのと同じく、素朴二元論から出発しているように見える。認知革命以後、心的過程を堂々と研究の対象にできるようになったからといって、心の二元論的存在を前提して、それを説明根拠にしてよいわけではない。物理主義にのっからないものというのは科学的方法が解明し得る範囲の外である。」たしかこのときFerguson & Barghあたりを発表していたような気がする。
竹村さんは、認知実験心理学者のする説明は他の科学的説明とその辺でちょっと違うように思えると言った。
私の論点はもうちょっとずれていて、心理学者にこれに関する自覚がないことがある、という点である。

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戸田山節

いやー、今年の日心、戸田山さん、あちこちで孤軍奮闘してました。
その疑問、もっともです。常識的に考えれば、そう見えるでしょう。
そして返ってきた言葉は「哲学を超えた、なんて教科書に書いてあるのに、今日はやっぱり哲学者に教えられました。」・・・そうなのかい。しかもこれは、厳密には統計学者から返ってきた言葉で、当の心理学者たちは口をあんぐりさせてただけ。私が憂う現状が露呈されてしまいました。

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科学とは

学会に参加して思ったフシをいくつかここに。
今日は、なぜだか書いていなかった、科学とは何ぞやということに関して書きます。

心理学者は、心理学発足に端を発する科学たらんとする強迫観念のあまりに偏った科学観を持ち続けたのか、あるいは他の原因なのか、いまだに論理実証主義の頃の科学観で自らの正当性(簡単に言えば「私のやってることは科学なんだよ」という主張)を語ろうとする。まともな日本の心理学の教科書なら、たいていどれにも最初に書いてあったり。
これは、(もちろんメインストリームでない片隅で)少々は語られてきたことだと思うのだが、私の「そうそう、科学観が古い、まったくそのとおり」という間髪入れない納得とはかけ離れて、意外と心理学者の間では共有されていないようだ。若手の間ですら。
で、今回それに関するようないくつかのシンポやWSに出席させてもらったのだが、まずこのような事がシンポで扱われることが、たくさんの心理学者が気づき始めてきた兆しかとは思った。だが、心理学者は、他の分野の研究者を呼んで「科学ってそうなのかー」と先生の言うことを鵜呑みにしているのではまた同じことの繰り返しだとわかるはず。心理学者がまともな科学者でありたいなら、科学の何たるかを提案する側の担い手の一人でなければならない。

ことのついでに、科学について書く。
私は、科学とは「考え方」である、と主張している。よくありそうだが(そして私から見れば間違いだが)、科学とは特定の学問分野の名称ではない。日本語だと~学の形をとっているので、科学を~学のひとつだと安易に勘違いしている小・中・高校生は案外多いのではないかと思う。科学とは、学問の根底にある「考えるときの流儀」の一つにつけた名前である。その流儀に従っている学問分野のことでもない。

さてさて、上は昔からの意見だが、今日はシンポでネタを得たのでそこへの反論を。
注意すべきは、私は上のように言うことで近年の科学哲学者のようにむやみやたらに科学の範疇を広げようとしているのではない。自然科学に社会科学、人文科学もひっくるめて全体を科学として見よう、なぜならそこに線引きなど見つからないのだから、という、○○科学の無造作な画一化とは私の意見は異なる。明らかに、自然科学と言われる諸分野と人文科学に振り分けられるだろう一分野のやっていることはぜんぜん違う。考え方に共通性が無い。そんなことはない、内容は異世界でもそこで論理ぐらいは使っているのだからその程度の一致はあるだろう、と言われるかもしれないが、論理すら通っていなさそうな(coherentでなさそうな)分野はあるのだ。なに!じゃあなぜそんなものが学問として認められているのか。それは、直観、すなわち主観性を大切にしているからである。
まあ、このへんの非科学的学問への白々しい意見はともかくとして、社会科学や人文科学の可能な一部は私の主張に従えばすっぱりと「科学でない」印を押されるのであり、その程度の範囲を定義するものとして科学という言葉を用いるのが適当だというのが私の主張なのである。もしかすると自然科学と呼ばれるものの中にも私の主張に従えば科学でないのが出てくるかも。ある人は人文科学も社会科学も科学と呼びたいのかもしれないが、もちろんそのような全体的視点からの洞察が間違っていると私は言っているわけではなく、それには他の言葉を当てたほうがよいと言っているわけだ。

こう言えば、おのずと科学という言葉が指す「考え方」の内容がどんなものかは見えてくるだろう。そして、科学的なやり方の限界あるいは制約はあるのか、あるとすればどこにあるのかも同時的におわかりいただけるだろう。書くまでもないのだが、わからない御方のために、私流の科学の重要な側面を示そう。それは共有性である。これは客観性、再現可能性などと不可分なくらいかぶってくる概念。そして、もう一つはcoherenceである。そしてこれらは人間の営みを正直に見たときに単に現れる(そこにある)特徴であり、これがどうだか真理に近づく云々とは別な話である。

最後に心理学者に話を戻して。
科学の意味するものがわかってこそ、心理学者は自らのやり方でとらえられる範囲が真にわかるはずであるし、それに胸をはれるかどうかもそのとき初めて判断できるのだ。

続きを読む "科学とは"

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イミテーション・ゲーム

半年ほど前の勉強会で私が発表した際に指摘した点をここに覚書として書いておく。
チューリング・テストと呼ばれる有名なテストがある。アラン・チューリングが1950年の論文の中で示したもので、「機械は考えることができるか」を考えるにあたって「どうあればその機械は考えていると見なしてよいか」という基準を与えるために持ち込んだものである。

とりあえず簡単に説明も書いておこう。
3人の参加者でとあるゲームを行う。参加者AとBは別々に個室に入り、参加者CはA,Bそれぞれと会話をすることができる。
(この点に限っては)よく知られているように、CはA,Bの姿かたちを見ることはできず、それどころか声もわからず、A,Bに関して知ることができるのは会話の内容(文)だけである(テレタイプみたいなものを使うと良いとか、たしかチューリングは言っていたように思う)。
さて、参加者AとBは実際は片方が男性で片方が女性なのだが、男性である参加者が女性のふりをする(だからイミテーション・ゲームだと私は最初は思っていた)。
このゲームでCがすべきことは、ある程度AやBと会話を行った上で、AとBのどちらが男性でどちらが女性なのかを当てることである。よってCの最終的な回答は2択である。
前置きが整ったところで、このゲームをA,B,C3人とも人間で行った場合、Cはある程度の正答率で正解すると思われよう(チャンスレベルは50%)。
もし、このゲームの男性役(A、Bのうち、女性のふりをする方の役)を機械がやった場合、Cはどれくらいの正答率で正解するだろうか。この正答率が3人とも人間だった場合と同じ程度だとすれば、その機械は考えていると見なしてよいだろう、というのがチューリングの見解である。

やっと本題。人工知能やロボットに関する本の中でこのテストがよく紹介されている。
その理由は言うまでも無い。
だが、このオリジナル(?)のイミテーションゲームとは違ったものがチューリング・テストの一般流通版として広く紹介されているのだ。それは、機械Aと人間Bが個別に部屋に入って会話するのは同じなのだが、Cの目的はどちらが機械でどちらが人間なのかを見分けること、になっているバージョンである。

この違いの重要性を考えようとしたのだが、すばらしいページを見つけてしまった。
Reconsidering Turing Test
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test.html

ここに先に書いた説明や、オリジナルがどうで改変版はどうだとか、あらかた記述されている。チューリング自身の論文と一般流通版との違いについての主張は私のものと相違はないので、こちらを読んだほうが私の拙い文章を読むよりいいだろう。

さて、だがしかし、上記ウェブページで私が言いたいことが言い尽くされているかというと、そうでもない。なぜなら、おそらく、かのページの著者はチューリングの元々の考えはどうだったのかを正確に突き止めることにその目的があるように思われるが、私の場合はそうではないからである。私の目的は、それらのテストのバージョンの違いに、もっと本質的な違いはないのか、と問うことである。もしかすると、それらはまったく異なるものを反映するものであるのかもしれないとは思わないだろうか。そして、その違いが何かのヒントをくれる重要な違いである可能性はないだろうか。
機械が人のフリをする、というのと、人が人をだます能力と機械が人をだます能力が同等である、というのとは、ここに書き表した文を直観的に見る限りでも、同じこととは思えないはずでは。
前者では、人のように振舞うことが「人のように考える」こととみなされるが、後者では、だます能力が同程度であることが「人のように考える」基準だとされる。こう考えると、後者はだます能力に限定しているように見える。つまり、「人のように振舞う」は、人をだますことに関しても(他のいろいろな行為と同様に)人のように振舞うことを意味しているだろうから、後者は前者に(部分的に)含まれる図式なのだと言えまいか。
ただこの見方の問題は、「だます能力が同程度」ということが「人間のようなだまし方をする」ことと同じかどうかという点である。言い換えれば、参加者Cに同程度に正解させるけれどもそのやり口は人間のそれとはまったく違うという方法がありえないかどうかということである。たぶん、あり得る。と私は思う。だからこそ、前者のバージョンが後者を拡張した「一般化」バージョンであるとは言えない。
さて、「どっちが人間でどっちが機械か」ゲームで機械が人のように考えられるかをテストするという話のほうは一般的には受け入れられやすいと見るが、「機械と人間のだまし能力は同じくらいか」ゲームで「機械が考えることができるか」を再定式化できるという主張に対して納得する人は比較的少ないのでは。でも私としては、後者に魅力を感じる。なぜかって、機械が人間のフリをするタイプの「どっちが人間でどっちが機械か」ゲームでは機械が不利にきまってるから。それなら同様に人間が機械のフリをするタイプのゲームもやらないと平等でない。それに比べて、「機械と人間のだまし能力は同じくらいか」ゲームは対照実験だから平等である。ここで平等という言葉を使うのは、尊厳どうこうとかそんな話ではなく、「どっちが人間か」ゲームはテストとしておかしい、と言いたいだけである。それはシミュレーションなのだ。片方をもう一方になんとか近似させようとがんばる仕事である。それはある特徴に関してAとBのどっちが上か(あるいは同じくらいか)を調べる仕事ではない。「どっちが人間か」ゲームで思考できるかを調べるということは、「思考とは人間にしか備わっていない」あるいは「いくつか(低レベルでも)思考するシステムは存在し得るけれども人間が思考という能力を一番高く発揮するものだ」という感じの暗黙の前提を含んでいるように思える。
「機械は人間っぽくなれるか」テストだ。「機械は考えるか」テストがそれでいいのか。もちろん、思考の定義の話になるんだろうけど、いやそんなツッコミはここではヤメテ。。

私は22世紀までにロボットを作りたいけれども、「機械は人間っぽくなれるか」テストでそいつが考えているかを判定されると、人間以上に賢いロボットとか作れないんじゃないのか?

あ、言い忘れたけど、私は「機械は人間っぽくなれるか」を追求するほうが好きなんだけどね。
これはイミテーション・ゲームに関する話だからこう書いたまで。

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心理学の基礎づけ

思い出したように書こう。
これはまだここには書いていないことがわかったので。
心理学者がやらなければならないことの一つは、それで本当に心を解明することができるのか、ということを問うことである。「それで本当に~」というのはここでは、方法論的にそれでよいのか、という意味である。つまり、自身の用いている方法で本当に目標に到達することができるのかを問い続ける、ということである。
ある心理学者は、これは心理学者の仕事ではないと言われるかもしれない。しかし私はこれは心理学者の仕事だと思っている。というよりも、他のだれがそんなことをやってくれるというのか。これで正しいのだと胸を張っているのは当の心理学者たち本人だけであって、他の論者はそれを(否定はしない者もいるだろうが)積極的に肯定してやろうとは思わないだろう、思う必要がないのだから。
このご時世では、残念ながらこれは、心理学者が自分でやらなければならない正当化の一つとなっている。よく語られる歴史にあるように、心理学はその発祥からこの問題に悩まされ続けてきた(正しくは「哲学は」だと思うが)。しかし、認知心理学が台頭した今日だからといって、この問題から解放されたと思ってはいけない。むしろ、最近の方向性を見ていると、より議論は白熱しなければならないはずだ。しかし、(海外はどうだか知らないが)日本でそのような動きを見ることは、ごくごく一部の方々を除いて稀である。
心理学はこの爆弾を常に横に抱えて進まなければならないだろう学問である。なぜならそれが心理学が認知科学の一部たりえる資格をもたらすのであり、この問題とともに歩むのがしばらくの認知科学の宿命だと見えるからだ。
認知心理学者はみな、自らの方法論を疑うことを忘れてはならない。そしてまた、あらたな方法論を構築するという方向があることも忘れてはならない。
現在の心理学は、すべてその方法をとることの妥当性の論証の上にそびえるものである。現在の認知的心理学方法論は、ありうる探求の道の一つであり、常に他の方法論と比較によってその利点や優位性を確認されながら用いられるべきものである。この確認を怠ることは、まだこの学問にとってゆるされる範囲には入ってきていない。
学者よ、心理学を基礎づけることを、そして心理学を疑うことを未だ忘れなきよう。

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