« 心理学の基礎づけ | トップページ | 科学とは »

イミテーション・ゲーム

半年ほど前の勉強会で私が発表した際に指摘した点をここに覚書として書いておく。
チューリング・テストと呼ばれる有名なテストがある。アラン・チューリングが1950年の論文の中で示したもので、「機械は考えることができるか」を考えるにあたって「どうあればその機械は考えていると見なしてよいか」という基準を与えるために持ち込んだものである。

とりあえず簡単に説明も書いておこう。
3人の参加者でとあるゲームを行う。参加者AとBは別々に個室に入り、参加者CはA,Bそれぞれと会話をすることができる。
(この点に限っては)よく知られているように、CはA,Bの姿かたちを見ることはできず、それどころか声もわからず、A,Bに関して知ることができるのは会話の内容(文)だけである(テレタイプみたいなものを使うと良いとか、たしかチューリングは言っていたように思う)。
さて、参加者AとBは実際は片方が男性で片方が女性なのだが、男性である参加者が女性のふりをする(だからイミテーション・ゲームだと私は最初は思っていた)。
このゲームでCがすべきことは、ある程度AやBと会話を行った上で、AとBのどちらが男性でどちらが女性なのかを当てることである。よってCの最終的な回答は2択である。
前置きが整ったところで、このゲームをA,B,C3人とも人間で行った場合、Cはある程度の正答率で正解すると思われよう(チャンスレベルは50%)。
もし、このゲームの男性役(A、Bのうち、女性のふりをする方の役)を機械がやった場合、Cはどれくらいの正答率で正解するだろうか。この正答率が3人とも人間だった場合と同じ程度だとすれば、その機械は考えていると見なしてよいだろう、というのがチューリングの見解である。

やっと本題。人工知能やロボットに関する本の中でこのテストがよく紹介されている。
その理由は言うまでも無い。
だが、このオリジナル(?)のイミテーションゲームとは違ったものがチューリング・テストの一般流通版として広く紹介されているのだ。それは、機械Aと人間Bが個別に部屋に入って会話するのは同じなのだが、Cの目的はどちらが機械でどちらが人間なのかを見分けること、になっているバージョンである。

この違いの重要性を考えようとしたのだが、すばらしいページを見つけてしまった。
Reconsidering Turing Test
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test.html

ここに先に書いた説明や、オリジナルがどうで改変版はどうだとか、あらかた記述されている。チューリング自身の論文と一般流通版との違いについての主張は私のものと相違はないので、こちらを読んだほうが私の拙い文章を読むよりいいだろう。

さて、だがしかし、上記ウェブページで私が言いたいことが言い尽くされているかというと、そうでもない。なぜなら、おそらく、かのページの著者はチューリングの元々の考えはどうだったのかを正確に突き止めることにその目的があるように思われるが、私の場合はそうではないからである。私の目的は、それらのテストのバージョンの違いに、もっと本質的な違いはないのか、と問うことである。もしかすると、それらはまったく異なるものを反映するものであるのかもしれないとは思わないだろうか。そして、その違いが何かのヒントをくれる重要な違いである可能性はないだろうか。
機械が人のフリをする、というのと、人が人をだます能力と機械が人をだます能力が同等である、というのとは、ここに書き表した文を直観的に見る限りでも、同じこととは思えないはずでは。
前者では、人のように振舞うことが「人のように考える」こととみなされるが、後者では、だます能力が同程度であることが「人のように考える」基準だとされる。こう考えると、後者はだます能力に限定しているように見える。つまり、「人のように振舞う」は、人をだますことに関しても(他のいろいろな行為と同様に)人のように振舞うことを意味しているだろうから、後者は前者に(部分的に)含まれる図式なのだと言えまいか。
ただこの見方の問題は、「だます能力が同程度」ということが「人間のようなだまし方をする」ことと同じかどうかという点である。言い換えれば、参加者Cに同程度に正解させるけれどもそのやり口は人間のそれとはまったく違うという方法がありえないかどうかということである。たぶん、あり得る。と私は思う。だからこそ、前者のバージョンが後者を拡張した「一般化」バージョンであるとは言えない。
さて、「どっちが人間でどっちが機械か」ゲームで機械が人のように考えられるかをテストするという話のほうは一般的には受け入れられやすいと見るが、「機械と人間のだまし能力は同じくらいか」ゲームで「機械が考えることができるか」を再定式化できるという主張に対して納得する人は比較的少ないのでは。でも私としては、後者に魅力を感じる。なぜかって、機械が人間のフリをするタイプの「どっちが人間でどっちが機械か」ゲームでは機械が不利にきまってるから。それなら同様に人間が機械のフリをするタイプのゲームもやらないと平等でない。それに比べて、「機械と人間のだまし能力は同じくらいか」ゲームは対照実験だから平等である。ここで平等という言葉を使うのは、尊厳どうこうとかそんな話ではなく、「どっちが人間か」ゲームはテストとしておかしい、と言いたいだけである。それはシミュレーションなのだ。片方をもう一方になんとか近似させようとがんばる仕事である。それはある特徴に関してAとBのどっちが上か(あるいは同じくらいか)を調べる仕事ではない。「どっちが人間か」ゲームで思考できるかを調べるということは、「思考とは人間にしか備わっていない」あるいは「いくつか(低レベルでも)思考するシステムは存在し得るけれども人間が思考という能力を一番高く発揮するものだ」という感じの暗黙の前提を含んでいるように思える。
「機械は人間っぽくなれるか」テストだ。「機械は考えるか」テストがそれでいいのか。もちろん、思考の定義の話になるんだろうけど、いやそんなツッコミはここではヤメテ。。

私は22世紀までにロボットを作りたいけれども、「機械は人間っぽくなれるか」テストでそいつが考えているかを判定されると、人間以上に賢いロボットとか作れないんじゃないのか?

あ、言い忘れたけど、私は「機械は人間っぽくなれるか」を追求するほうが好きなんだけどね。
これはイミテーション・ゲームに関する話だからこう書いたまで。

|

« 心理学の基礎づけ | トップページ | 科学とは »

Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/479014

この記事へのトラックバック一覧です: イミテーション・ゲーム:

« 心理学の基礎づけ | トップページ | 科学とは »