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科学とは

学会に参加して思ったフシをいくつかここに。
今日は、なぜだか書いていなかった、科学とは何ぞやということに関して書きます。

心理学者は、心理学発足に端を発する科学たらんとする強迫観念のあまりに偏った科学観を持ち続けたのか、あるいは他の原因なのか、いまだに論理実証主義の頃の科学観で自らの正当性(簡単に言えば「私のやってることは科学なんだよ」という主張)を語ろうとする。まともな日本の心理学の教科書なら、たいていどれにも最初に書いてあったり。
これは、(もちろんメインストリームでない片隅で)少々は語られてきたことだと思うのだが、私の「そうそう、科学観が古い、まったくそのとおり」という間髪入れない納得とはかけ離れて、意外と心理学者の間では共有されていないようだ。若手の間ですら。
で、今回それに関するようないくつかのシンポやWSに出席させてもらったのだが、まずこのような事がシンポで扱われることが、たくさんの心理学者が気づき始めてきた兆しかとは思った。だが、心理学者は、他の分野の研究者を呼んで「科学ってそうなのかー」と先生の言うことを鵜呑みにしているのではまた同じことの繰り返しだとわかるはず。心理学者がまともな科学者でありたいなら、科学の何たるかを提案する側の担い手の一人でなければならない。

ことのついでに、科学について書く。
私は、科学とは「考え方」である、と主張している。よくありそうだが(そして私から見れば間違いだが)、科学とは特定の学問分野の名称ではない。日本語だと~学の形をとっているので、科学を~学のひとつだと安易に勘違いしている小・中・高校生は案外多いのではないかと思う。科学とは、学問の根底にある「考えるときの流儀」の一つにつけた名前である。その流儀に従っている学問分野のことでもない。

さてさて、上は昔からの意見だが、今日はシンポでネタを得たのでそこへの反論を。
注意すべきは、私は上のように言うことで近年の科学哲学者のようにむやみやたらに科学の範疇を広げようとしているのではない。自然科学に社会科学、人文科学もひっくるめて全体を科学として見よう、なぜならそこに線引きなど見つからないのだから、という、○○科学の無造作な画一化とは私の意見は異なる。明らかに、自然科学と言われる諸分野と人文科学に振り分けられるだろう一分野のやっていることはぜんぜん違う。考え方に共通性が無い。そんなことはない、内容は異世界でもそこで論理ぐらいは使っているのだからその程度の一致はあるだろう、と言われるかもしれないが、論理すら通っていなさそうな(coherentでなさそうな)分野はあるのだ。なに!じゃあなぜそんなものが学問として認められているのか。それは、直観、すなわち主観性を大切にしているからである。
まあ、このへんの非科学的学問への白々しい意見はともかくとして、社会科学や人文科学の可能な一部は私の主張に従えばすっぱりと「科学でない」印を押されるのであり、その程度の範囲を定義するものとして科学という言葉を用いるのが適当だというのが私の主張なのである。もしかすると自然科学と呼ばれるものの中にも私の主張に従えば科学でないのが出てくるかも。ある人は人文科学も社会科学も科学と呼びたいのかもしれないが、もちろんそのような全体的視点からの洞察が間違っていると私は言っているわけではなく、それには他の言葉を当てたほうがよいと言っているわけだ。

こう言えば、おのずと科学という言葉が指す「考え方」の内容がどんなものかは見えてくるだろう。そして、科学的なやり方の限界あるいは制約はあるのか、あるとすればどこにあるのかも同時的におわかりいただけるだろう。書くまでもないのだが、わからない御方のために、私流の科学の重要な側面を示そう。それは共有性である。これは客観性、再現可能性などと不可分なくらいかぶってくる概念。そして、もう一つはcoherenceである。そしてこれらは人間の営みを正直に見たときに単に現れる(そこにある)特徴であり、これがどうだか真理に近づく云々とは別な話である。

最後に心理学者に話を戻して。
科学の意味するものがわかってこそ、心理学者は自らのやり方でとらえられる範囲が真にわかるはずであるし、それに胸をはれるかどうかもそのとき初めて判断できるのだ。

補足.
科学とは考えるときの流儀の一つだ、と書いたが、これは私の考えではそうだということであって、一般的にそのように受け取られているということではない。おそらく一般的な用法では、科学とはそのような流儀に従う一群の学問分野のことを指すであろう。

私の言いたいことは、しかし、科学というものを考える上で一番重要なことは私の言うような意味での流儀にあるのであって、それに数ある学問が従っているとかいないとかはその次の話である。もちろん科学論を展開するには具体的個別的な学問のあり方を無視するわけにはいかない。けれどもそこで「こういうのが科学だよね」って結論を出すということがすなわち各学問が共通して持っている特徴を抽出することに他ならないではないか。そしてそういうのを科学と科学論者は呼びたいのではないか。であれば、流儀のほうにscienceという名前を割り当てて、その流儀に従っている学問群にはそれなりの別の呼び方を当てたほうがよい。しかし、現状では学問群が(抽象的であるかもしれれないが)科学と呼ばれ、特徴的流儀のことを指すためには科学的○○みたいな呼び方をしなければならなくなってしまっている。これがあんまり私にとってはうれしくない。

まあ、科学の定義なんて外延的で動的なもんだと言う人もいると思うけど。その可能性は私も否定できない。しかしそれが正しいならより将来は混沌とするだろうなぁ。だからなんとか規範的方向性を示せるようがんばりたいと努力してきたのが科学哲学者の歴史。さてどうなることやら。そのうちこんなこと考えるのも無駄になるのかねえ。

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