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2004年10月

R version 2

R の version 2.0.0 がリリースされました。
ついに大台にのったという感じ。
こうなると私のほうでもそろそろ対応をまじめに考えんといかんな。無事帰国できたらプロジェクトを走らせるか。

R GUI のプロジェクトは思ったほど進んでいないように見える。やっぱりプラットフォーム独立なものを作ろうとしてるから?
個人的な考えだけど、GUI つくるとユーザが離れていくような気がするんだよね・・・。たぶんS言語はほとんど覚えなくてよくなるでしょ。するとSPSSやS-PLUSみたいな感じだよね。で、RユーザもSPSSユーザみたいになってしまう。。私は幅広い学生にS言語(いやR言語か)を覚えてもらったほうがよいと思うんだけど。それには必要に迫られる状況が要る。SPSSレベルのGUIを無償で提供してしまったら、おもしろくないなあ、なんとなく。

これは開発者側の視点に偏った意見なのかなあ・・・

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自走式掃除ロボット

Roombaの後発ぞくぞく。http://www.wired.com/news/technology/0,1282,59237,00.html
日本語訳 http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20030618303.html
これがBrooksの研究を継いだ成果か。20年以上経ってここまで来ました。
これをすばらしい進歩と見るか、浪費と見るかは人によるでしょう。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20030515303.html
こんなこと言ってる人もいるし。

私はキライじゃないよ、小型ロボット。めっちゃ作りたい。
研究も、このままで成功する保証はしませんが、完全に無駄にはならないと思います。それはヒューマノイド型(例えばコレ)にも共通して言えることだと思います。
新しいキューは必要でしょう。でも積み重ねたものは使えるでしょう。たぶんMinskyもそういう意味で言ったのではないかと思います。(ちゃんと読めよ!)

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私は二重過程論者ではない

私は二重過程論者ではない。
ウェブサイトの紹介文に「直観的/分析的処理の区分と相互関係」なんて書いてるから(アレ漢字間違ってる)、そうだと思われているようだ。はっきり言っておこう。

ここしばらくの認知心理学の主流にある二分法的区分――ここで私が指しているのは、最近ではStanovich、もう少し戻ればEpsteinやSlomanやEvans & Overが出しているような説――がいわゆる二重過程論であるとすれば、私はそのような意味での二重過程論者ではない。つまり彼らを支持しない。かといって、Cosmides & ToobyやGigerenzerを支持するわけでもない。私が彼らの研究を熱心に調べているから(一部はwebにも流れている)、支持者だと思われているようだ。
ここで支持しないと言っているのは、全面的には支持しないという意味で、彼らの言説がすべて間違っていると言っているのではない。部分的には支持できるところもある。しかし、理論上の大事なところや、そもそもの全体的なperspectiveが私と彼らでは違うように思う。

二重過程論はいろんな表記がされている。
二重?(過程|システム)(論|理論|モデル|説|仮説)
英語だと
(two|dual)[ -]((process(es)?)|(systems?)) (theory|model|hypothesis|view)
よくあるのはざっとこんなところだ。これらでたいてい同じものを表そうとしているのだが、この表記上の違いは重要な違いであることがある。私も昔は二過程理論だったり二重過程理論だったり二重過程モデルだったり訳が定まらなかったが、最近は区別して使うようにしている。(何についてなのかが文脈的に怪しいときは前に「~の」が付く。)
これらの違いがどう本質的な違いなのかは別のところで書くとしよう。ここで私が指す対象としては典型的にはStanovichの説を想定してもらうのがよい。

そう、これは主流のようなのである。JDMの大会にはDual Processesというタイトルのセクションがあるくらいだ。もはや認知/社会心理学の小さな分野を説明する一理論ではない。どんどん一般化されている気がする。(これは90年代後半の展望を思い出しているだけ。)
時代はdual processes万歳で、なんと最近あのKahnemanもこれに加わってしまった。2002年に本を読んだ時はびっくりしたものだ。彼はもっと違うperspectiveを持っていると(勝手に)信じていたのに。これは残念なことである。Tverskyが生きていたらYesと言わなかったんじゃないか?(また勝手な想像。)

私は二重過程論者ではない。私のことをよく知っている人はおわかりかもしれないが、私はReynaの言うような意味に近い直観主義者である。(FTTを完全に支持しているわけではない。)Haidtの言う直観主義ともちょっと違うが、これはまたReynaのとは違った側面で私のと近い。二重過程論者でないのはintuitionに偏重しているからである。intuitive processとanalytical(deliberative) processが並列並存だなんて考えていない。むしろdeliberative processに関しては消去主義的である。
私は直観主義的人間観を前面に押し出すので、極端な話、我々の認知はall is intuitionだと言ってしまう。もちろん、これはあまりに極端で性急な結論なので、これでどこまで行けるのかを模索しているというのが現在の研究の幹である。アナロジカルにいえば、ある面ちょっとconnectionistの歩き方に似ているかも。
私が上に挙がったような進化心理学者と一線を画すのは、私がdeliberative processを説明しようと努力しているからである。つまりrationality2は捨てないのである。むしろ進化的基礎付け(なのか?)には素朴rationality2観を説明することを期待している人間である。

これで疑いは晴れましたでしょうか?

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NO BORDER

カップ○ードルの某社がコピーに使っておる。
それに付随していた文章を下に引用。

僕たちの心の中には、たくさんの線=BORDER が引かれている。それは「僕たち」と「あの人たち」を隔てる線だ。人種が違う、言葉が違う、宗教が違う、文化が違う。そうやって違いを見つけては、線を引いてきた。その線は、大人たちの作った権威や体制に長い間守られて、偏見や固定観念を植え付けてきた。でも、僕たちは本当は知っている。人間なんて本質は同じだということを。僕たちは気づいている。線を引いているのは自分自身だということを。子供の頃、僕たちの心の中には、まだ線が引かれていなかった。大人の都合や慣習なんて関係ないあの頃は、誰とでもすぐ友達になれた。好き嫌いはあったけど、それは偏見や先入観じゃなく、自分の気持ちに素直なだけだった。けれど、大人になるにつれて心の中はBORDERでいっぱいになってしまう。この繰り返しでは未来は変わらない。子供たちを未来の「被害者」にも「加害者」にもしないために。子供たちの心にBORDERを植えつけないこと、それが僕たちの責任だと思う。NO BORDER ・・・

これ出していいのかな?(ダメなら消します)

えーと、特有のテクニックが散見されます。
これを少年向け週刊漫画誌の裏表紙広告に出すことは意図があるのか?それとも単に表4をとっただけ?
この中で「僕たち」と「あの人たち」は複数形で書いてあるんだけど、この集合に含まれる元をどう定義するかで、アダムとリリスとリリンの関係についての議論に熱心な人々がニヤッとするかもね。
このコピーに関連する一連のTVCMもなかなか。web上を見ると、高く評価してる人が結構いるみたいです。

ここまでで終われば普通のblogなんだけども。
私のココじゃ、これで終わるわけがない。

こういう言説は、よくあったし、よくある。いろんな本におんなじこと書いてる。ちまたの啓蒙書だけでなく、専門書にもよく書いてある。
さて、もっと考えるための私からのツッコミ。
・「人間なんて本質は同じだ。」 それじゃ結局essentialismか。範囲を広げりゃいい(上位カテゴリで認識するように移行すればいい)って言ってるわけだ。やっぱり避けることは不可能なのかね。
・「線を引いているのは自分自身だということを。」 そのとおりです。しかし。「僕たちは気づいている。」 そうですか。
・「子供の頃、僕たちの心の中には、まだ線が引かれていなかった。」 バカだったということ。(極端に言い過ぎかなぁ。)
・「好き嫌いはあったけど、それは偏見や先入観じゃなく、自分の気持ちに素直なだけだった。」 ほんとかね。
・「大人になるにつれて心の中はBORDERでいっぱいになってしまう。」 そりゃまともです。成長したってことです。
・「この繰り返しでは未来は変わらない。」 指す範囲によるのでコメント控えます。
・「子供たちの心にBORDERを植えつけないこと」 そんなことできるんでしょうか。そんなことしていいんでしょうか。

・・・これ読むと私って非常に過激なアンチに見えるかもしれないなあ。
まあ、ここでやめずに次もどうぞ。

えー、これらのコメントの根にあり、私の研究のベースの一部ともなっている私の考えは、このコピーにある言葉を使えば、「BORDERを引くことが我々の認識の基本的しくみに強く関係している」ということです。
たとえば、BORDERを引く能力を一切人間から取り去ってみたとしましょう。それはもう人間じゃないでしょう。つまり人間並みの高度な(と人間が思っている)知能はそいつにはもう存在しないのです。BORDERを引くことは人間的知能の基礎です。これをふつう認識と呼びます。つまりBORDERと無縁には人間は生きていけない、どころか、人間ではない。(比較主義も参照。)
で、「誰もBORDERを引く能力をなくせとは言っていない。BORDERを適切に引けばいいじゃないか。それがこのコピーがうたっていることだ」と言われるだろうけど、適切にひくってところが難しい。どのカテゴリを認識することが不可欠で、どのカテゴリの認識が不必要かなんて、どうやって決めるのでしょうか。適切な境界をuniversalに白黒つけるのは現時点で不可能に見える。
深刻なのは、理想たるglobalな人類文化が実現可能かどうかが人間学的な観点あるいは生物学的な観点で疑問なこと。BORDERを引くという作業は、自動的に(意識されずに)行われている。また、おなじところにBORDERを引くようになる傾向性を共有することが「文化」なるものに深く関係している。共有されている、BORDER習得システムは社会そのものであるし、それは我々の理解の及ぶ範囲外で勝手にうまく(?)いっているようなものだ。
自動的に引かれるBORDERを我々の意志の力で上書きコントロールできないか、みたいな望みをかける研究も少なからずありますが、はたしてどうやら。まあ、それでも「BORDERを植え付けない」話とは違いますわね。
「大人たちの作った権威や体制に長い間守られて」とありますが、そのとおり、そのせい(おかげ)で、このような現代社会があり、私やあなたがある。文化の基礎、あなたがどっぷりつかっているソレです。ちょっと補うなら、たぶん大人が完全に計画的に「作った」ものはほとんどないと思うので「人の間で時を経て形成された」のほうがより適切か。
そしてこれを教えること、身につけるのを促進することを教育と言い、子供の発達、学習、成長なる現象と切り離せないわけです。身につけることができた人は大人と呼ばれます。
あなたの子供は日本文化から分離できないのよ、大人にしたければ。
そしてまさに上の引用にあるように、あなたが問題とするBORDER(s)は(日本)文化の一部であって、例えれば、細胞のうちのどこまでが癌細胞なのか見当がつかない。あるいは全部がつながっていて全部が癌かも。

上記箇条書きの最後の項。
できるんでしょうか。そんなものをコントロールできるんなんて、私には見通しがつきません。目の前の問題に都合の良いところだけのつじつまをつけるくらいなら何とか可能かもしれない。けれど、それは全世界的に整合性を保てるようなものになりそうもない。
していいんでしょうか。BORDERは必然的に存在しているとは考えられませんか。人間には最低限のBORDERが必要であるのは確かで、それがどのくらいのものかわかりませんが、あなたが嘆くこの世界を形作るのに十分な程度であるかもしれない。仮にコントロールが可能だとして、子供への「BORDERの植え付け」をなんらかの程度までに抑制したとしても、はたしてそう目論見はうまくいくのでしょうか。そしてそれでできあがったものはあなたが思うような「大人」ではないかもしれません。

あんまりうまくまとまった気がしない・・・
こりゃ書き直しだな

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