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NO BORDER

カップ○ードルの某社がコピーに使っておる。
それに付随していた文章を下に引用。

僕たちの心の中には、たくさんの線=BORDER が引かれている。それは「僕たち」と「あの人たち」を隔てる線だ。人種が違う、言葉が違う、宗教が違う、文化が違う。そうやって違いを見つけては、線を引いてきた。その線は、大人たちの作った権威や体制に長い間守られて、偏見や固定観念を植え付けてきた。でも、僕たちは本当は知っている。人間なんて本質は同じだということを。僕たちは気づいている。線を引いているのは自分自身だということを。子供の頃、僕たちの心の中には、まだ線が引かれていなかった。大人の都合や慣習なんて関係ないあの頃は、誰とでもすぐ友達になれた。好き嫌いはあったけど、それは偏見や先入観じゃなく、自分の気持ちに素直なだけだった。けれど、大人になるにつれて心の中はBORDERでいっぱいになってしまう。この繰り返しでは未来は変わらない。子供たちを未来の「被害者」にも「加害者」にもしないために。子供たちの心にBORDERを植えつけないこと、それが僕たちの責任だと思う。NO BORDER ・・・

これ出していいのかな?(ダメなら消します)

えーと、特有のテクニックが散見されます。
これを少年向け週刊漫画誌の裏表紙広告に出すことは意図があるのか?それとも単に表4をとっただけ?
この中で「僕たち」と「あの人たち」は複数形で書いてあるんだけど、この集合に含まれる元をどう定義するかで、アダムとリリスとリリンの関係についての議論に熱心な人々がニヤッとするかもね。
このコピーに関連する一連のTVCMもなかなか。web上を見ると、高く評価してる人が結構いるみたいです。

ここまでで終われば普通のblogなんだけども。
私のココじゃ、これで終わるわけがない。

こういう言説は、よくあったし、よくある。いろんな本におんなじこと書いてる。ちまたの啓蒙書だけでなく、専門書にもよく書いてある。
さて、もっと考えるための私からのツッコミ。
・「人間なんて本質は同じだ。」 それじゃ結局essentialismか。範囲を広げりゃいい(上位カテゴリで認識するように移行すればいい)って言ってるわけだ。やっぱり避けることは不可能なのかね。
・「線を引いているのは自分自身だということを。」 そのとおりです。しかし。「僕たちは気づいている。」 そうですか。
・「子供の頃、僕たちの心の中には、まだ線が引かれていなかった。」 バカだったということ。(極端に言い過ぎかなぁ。)
・「好き嫌いはあったけど、それは偏見や先入観じゃなく、自分の気持ちに素直なだけだった。」 ほんとかね。
・「大人になるにつれて心の中はBORDERでいっぱいになってしまう。」 そりゃまともです。成長したってことです。
・「この繰り返しでは未来は変わらない。」 指す範囲によるのでコメント控えます。
・「子供たちの心にBORDERを植えつけないこと」 そんなことできるんでしょうか。そんなことしていいんでしょうか。

・・・これ読むと私って非常に過激なアンチに見えるかもしれないなあ。
まあ、ここでやめずに次もどうぞ。

えー、これらのコメントの根にあり、私の研究のベースの一部ともなっている私の考えは、このコピーにある言葉を使えば、「BORDERを引くことが我々の認識の基本的しくみに強く関係している」ということです。
たとえば、BORDERを引く能力を一切人間から取り去ってみたとしましょう。それはもう人間じゃないでしょう。つまり人間並みの高度な(と人間が思っている)知能はそいつにはもう存在しないのです。BORDERを引くことは人間的知能の基礎です。これをふつう認識と呼びます。つまりBORDERと無縁には人間は生きていけない、どころか、人間ではない。(比較主義も参照。)
で、「誰もBORDERを引く能力をなくせとは言っていない。BORDERを適切に引けばいいじゃないか。それがこのコピーがうたっていることだ」と言われるだろうけど、適切にひくってところが難しい。どのカテゴリを認識することが不可欠で、どのカテゴリの認識が不必要かなんて、どうやって決めるのでしょうか。適切な境界をuniversalに白黒つけるのは現時点で不可能に見える。
深刻なのは、理想たるglobalな人類文化が実現可能かどうかが人間学的な観点あるいは生物学的な観点で疑問なこと。BORDERを引くという作業は、自動的に(意識されずに)行われている。また、おなじところにBORDERを引くようになる傾向性を共有することが「文化」なるものに深く関係している。共有されている、BORDER習得システムは社会そのものであるし、それは我々の理解の及ぶ範囲外で勝手にうまく(?)いっているようなものだ。
自動的に引かれるBORDERを我々の意志の力で上書きコントロールできないか、みたいな望みをかける研究も少なからずありますが、はたしてどうやら。まあ、それでも「BORDERを植え付けない」話とは違いますわね。
「大人たちの作った権威や体制に長い間守られて」とありますが、そのとおり、そのせい(おかげ)で、このような現代社会があり、私やあなたがある。文化の基礎、あなたがどっぷりつかっているソレです。ちょっと補うなら、たぶん大人が完全に計画的に「作った」ものはほとんどないと思うので「人の間で時を経て形成された」のほうがより適切か。
そしてこれを教えること、身につけるのを促進することを教育と言い、子供の発達、学習、成長なる現象と切り離せないわけです。身につけることができた人は大人と呼ばれます。
あなたの子供は日本文化から分離できないのよ、大人にしたければ。
そしてまさに上の引用にあるように、あなたが問題とするBORDER(s)は(日本)文化の一部であって、例えれば、細胞のうちのどこまでが癌細胞なのか見当がつかない。あるいは全部がつながっていて全部が癌かも。

上記箇条書きの最後の項。
できるんでしょうか。そんなものをコントロールできるんなんて、私には見通しがつきません。目の前の問題に都合の良いところだけのつじつまをつけるくらいなら何とか可能かもしれない。けれど、それは全世界的に整合性を保てるようなものになりそうもない。
していいんでしょうか。BORDERは必然的に存在しているとは考えられませんか。人間には最低限のBORDERが必要であるのは確かで、それがどのくらいのものかわかりませんが、あなたが嘆くこの世界を形作るのに十分な程度であるかもしれない。仮にコントロールが可能だとして、子供への「BORDERの植え付け」をなんらかの程度までに抑制したとしても、はたしてそう目論見はうまくいくのでしょうか。そしてそれでできあがったものはあなたが思うような「大人」ではないかもしれません。

あんまりうまくまとまった気がしない・・・
こりゃ書き直しだな

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