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私の直観主義

繰り返し。このblogは「私」のためのメモ帳です。

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私の直観主義(いい名前募集中)について前にちらっとふれたので概観と補足を書いておく。

私は心とはすべて直観的ではないかと疑っている。心理学者がメタ認知と呼ぶような機能がわれわれにあって、われわれは自分の頭の中を(多少なりとも)把握し制御できると思われているが、私はそれは怪しいと思う。われわれは思考について断片的にしか気づきえない(しかも事後的に)。そしてわかる部分(気づける部分)に理由など持ち合わせていない。なぜだか直観的にわかるだけである。よって、どこまで人間が自分を把握できているのかを調べるのが私の研究である。そしてわれわれはほとんど傍観者である可能性が高いと踏んでいる。なに!自分のことを知らないだって!そんなバカなことがあるはずがない!・・・と怒りだす人がいるかもしれないが、すでに20世紀に(少なくとも部分的には)それについては証拠をあげられてしまっているのである。
もちろん、これは意識の問題と深くかかわっている。どころか、それそのものかもしれない。自動的、無意識的な有機体内外との相互作用機能と、それとともに直観的な印象が浮かんでくるらしき、この人間なるものを、それだけで説明しきることが目標の1つである。熟慮、制御、決断、意図、このようなものが説明される対象である。この試みが不可能である可能性についてはまだ無いとは断言しない。もしそうなら、研究を進めていけば、不可能だということが判明するだろう。それはそれでよい。
結局、われわれは心と思考について知っていると思っていることが、いかに直観的なものであるかを明確にするのが仕事である。そして、「われわれの知る心とは、直観以上の何者でもない」なんて格好のよい結論を出せることを願っている。これが直観主義である。
よって、前述の補足になるが、二重過程論で言うところの直観的過程だけで事足りるかもしれないと踏むのが、私の言う意味での直観主義者である。(直観主義という言葉は他のところでも使われているので誤解の無いよう。)
概論はここれくらいにして、細かい枝払い。これは進化論的合理性、あるいは目的論的合理性が人間の行動の指針のすべてであるという主張ではまったくない。私は、古典的規範的合理性を大擁護する。古典的合理性は十分に規範として機能しているのであり、古典的合理性がいかにして生み出されているのかを説明するのが直観主義者のやるべきことである。進化論的楽観主義者でもないし、利己性を憂う悲観論者でもない。直観主義者はわれわれがほとんどわれわれを知らないと思っているが、まったく規範的ルールに基づいて行動しないとは思っていない。よって、人の判断のバイアス、ヒューリスティックと呼ばれるような特徴を認知機構に帰属して説明するのはかまわないが、「それでよい」的な結論に与するのは思慮が足らないと見なす。もちろん将来的に「改善不可能」という結論に達することはあり得るが。
われわれはうまく動いている。うまく動いているなら、それを動作体が把握なんてしている必要は無い。把握の実感は意志と制御の観念とリンクするものだ。私はわれわれが感覚の体験をもっていることを否定しない(だから完全な消去主義ではない)。しかし、多くの認識は直観であって、それをどうこうイメージの操作だとか、ルールの適用だとか、記憶の意識的検索だとか、決定だとかで、なまじ主体的なタームが関わることは、必ずしも必要ではないと見積もっている。十分条件ではあるかもしれない。無論、直観のしくみは未だ完全に解明されたわけではない。神経科学の進歩がその完了を助け早めてくれる見込みはあるが。しくみはどうとしても、感覚的なものがわれわれにはあって、われわれが「している」と思っていることが、直観の連続でできたアニメーションである、という仮説。これが直観主義の展望の先に見えるものである。

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