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2005年2月

他者の心、自分の心

私も心理学・哲学を勉強するまでは、
 自分の心があって、自分と姿の似た他者がいて、だから他者の心が認められる
と考えていました。つまり

 自分の姿 : 自分の心 = 他者の姿 : 他者の心

という四項類推です。
これは伝統的枠組みです。推論手順をもう一度述べると、まず存在すると確信される「自分の心」を自分が持っていて、世の中には自分と姿かたちの似ている(物体としての)対象があって、類推によってその対象も心を持っていると推論する、すなわち他者の心を認める、というものです。少し道具主義的になると、「類推によって」の前に「その対象の振る舞いを予測するために」という文が入ったりします。
現在でも多くの研究者(とくに「認知心理学」系の研究者)はこれを前提に研究をしています。一般の知識人でも、他者の心について「なぜ?」を聞かれるとこのような説明を導出するでしょう。
しかし、類推は類推ですので、これでは他者の心の存在についての論理的保証はありません。なので「他者問題」というのが湧き上がります。いろんなところで論理的厳密性にうるさい人たちが他者の心に関することを議論してきました。それはそうとしても、なぜ一般的に人々が他者の心を認めるのかについては、四項類推による説明が基本的なアイディアだったわけです。

さて、この話を持ち出すということは、もちろん、これは怪しいと私が思っているからです。
 「まず他者の心があって、私の心がある。」
どうでしょう。私もこれを考えてまだ5年ですが。
伝統的四項類推ではまず前提として認知されるのは「自分の心」「自分の姿」「他者の姿」です。しかし、私がこれの代案と位置づけているアイディアでは、まず「対象の姿」が認知され、別の根拠によって(あるいは根拠なしに)その対象に「他者の心」が推測され(ここで対象は他者となる)、自分の姿と他者の姿の類似性の認識から自分と他者のある面での同格性が認められ、その上で「自分の心」が認知される、という手順です。これにはカッコの部分などでいくつかのバージョンの違いがありますが、つまりは「まず自分の心ありき」ではないということです。このような考えは、デカルト主義に反するせいか、科学的世界では長年支持されていません。(最初に思いついたのは誰なのか私もわかりませんが。)

このアイディアの私のバージョンでは「自分の姿」は一切出てきません。
 他者の姿 → 他者の心 → 自分の心
1つ目の → は心的帰属を表しています。→ の左辺は「他者の姿」となっていますが、人間の姿でなくとも構いません。これは奇妙な名前の付け方ですが、→ のあとで「姿」は「他者の姿」になると考えます。帰属の原因はまだ明示できませんが、少なくとも我々が論理的に考えて納得できるような基礎付けはないと思っています。伝統的枠組みはここを四項類推によると考えるわけですが、そうではなく、合理的には正当化できないけど人間の仕組みとして自動的にそうしてしまう、と考えるのです。(ここに私の直観主義が色濃く反映されます。)
2つ目の → は反省です。この反省に「自分の姿」の認識が必要だとは私は考えません。この図式にある → は2つとも「自分による認知」です。もう少し詳しく言うと、注意対象の推移を表します。注意対象が自分に推移することで、「自分の心」が認識されます。対象に心を想定するようになってそれを深化させていくと、自分の心を考える必要に迫られ(あるいはきっかけを与えられ)、自分の心を考えるようになる、という話です。つまり心とはまずもって「自分の心」で定義されるものではありません。
主我と客我という区別がありますが、それは別の問題です(副次的問題)。主我であれ客我であれ、そういう認識自体が自分に注意が向くまでは存在しないと言っているわけです。ではそれまでは自分のことをどのように見ているのか?見ていないのです。見ていないということは、「自分の心」は存在しないということです(ここでの心とはその程度の定義です)。

このような考え方をする人は世界にいくらかいるでしょうが、認知心理学的な立場から伝統的四項類推を疑ってかかる人はほとんどいないのではないでしょうか?
手元のリストも少ないので、ご存知でしたら教えてください。
仲間募集。


おまけ。(ネタふり)
世間的に言われていることには、人間は「物心がつく」そうです。これはいったいどういうことでしょうか?
物心のつかない人間は人間的に振る舞わないですか?あなたのことがわからず、親とも人間とも思っていないですか?考えてみてください。
加えて、一般的に人間には生まれてからしばらくの(自伝的)記憶がありません。
英語では reach the age of reason だそうです。

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錯視

先日の新年会で錯視の話が出たんですが(出したんですが)、
何を隠そう、私は錯視が大好きなんです。
実は、部屋には錯視図形のポスターが張ってあります。
やぱり知覚的なものはエラーの定義も一番納得いきやすいし、見せつけられたときのインパクトも大きい。

ほんとは視覚研究をやってもよかったんですが、とりあえず観客になりました。もっとわけわからんものをやろうと思って。昔から何故か難しいこと、しんどいことに選択的に取り組もうとする癖があります。どうやら傍から見れば理解に苦しむようです。あ、視覚研究が簡単だということではありませんよ。

今後、知覚の研究をしないとも限りませんが(周りの人は触覚が狙いだねと言っています)、まあしばらくは観客でしょうなぁ・・・。

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紹介下手

反省&自己分析。
ほとんどのケースで私がうまく自分の研究を紹介できない(何をやっているかちゃんと理解してもらえない)のだが、その理由は大きく4つある。

  1. 私が研究している内容が、簡単に理解できる類のものではなく、多少なりとも説明のための時間が必要であること
  2. 自分の研究を紹介するような場面ではたいてい、たくさんの時間は取れそうにないこと
  3. 時間をもらって丁寧に説明してまで理解してもらおうというほどの動機づけが私にない場合が多いこと
  4. 私の言語運用が下手であること

これがすべて満たされているので、一般に私は自己研究紹介が下手なのである。
うまく紹介する人は、おそらくこれらの少なくとも1つ以上を欠いているのだろう。
うらやましいかぎりだ。

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evolution

しっかし先日の議論はまずかったな。
進化論に対する評価と進化心理学に対する評価は別に話すべきだった。今考えるとあたりまえだ。


ところで、「進化」ってあんまりいい訳語じゃないと常々思う。
「化」はまあいいとして、「進」はなにかしらのベクトル上の正方向への動きを示す言葉なので、往々にして誤解をまねく。進化(と呼ばれている概念)はそのようなものではない。
進化論なんて言葉を聞いた日本人は、生物がより優れているものに変化する、というような印象を受けている人がかなりいるのではないだろうか。「進化の頂点に立つ」なんて表現があるくらいだから。
私は、theory of evolution は「進化論」ではなくて「生物変化論」などの対訳のほうがよいと思う。忠実にいけば「展開論」だと思うが、それでは味気ないので。誰が「進化」なんて訳したんだろう?
theory of evolution では、種は「変わる」けれども「進む」のではないんですよ。たぶん「進む」を支持するためには、例えばダーウィニズムであったとしてもさらに別の仮説をくっつけないといけないんだと思います。複雑さとかね。

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予測と記述

以前に、私自身の珍しい(一般的に普及しているとは思えない)科学観あるいは「科学」語観を書いたが、それについてメモを追加しておこう。

「科学」の語源と「楽知ん」 - 楽知ん研究所
「科学」と「技術」、「科学技術」について - 21世紀の社会と科学技術を考える懇談会

それぞれのページにある「科学」や他の語の定義、語源の解説はおもしろい。

さて、先日の酒の席での議論の中でふと疑問になったことは、科学的たることの要件として
a) 「対象の振る舞いの予測を目指す」
b) 「対象の現状の記述を目指す」
それぞれが含まれるかどうか、という点だ。(どこかにも書いたが、実証的学問である限り、明らかにされる研究対象とは客観的対象である。)
ここで問題となっているポイントを明確にすると、第一に、現状の記述は予測の礎になりうることから、もし a) が含まれるなら b) は有効な手段だが、b) 無しに a) が可能な学問がありうるならば、それは科学的学問と呼んでよいか、ということである。
第二に、サイエンスが「知」であるからには記述を要件に含めるのはまともに見えるが、それを「現状」に限る必要があるか、すなわち、純粋に過去の事象だけを記述する学問(そこでの過去の記述は現状の記述をその先の目標としていない)を科学的だと言ってよいか、ということである。

簡単にまとめると、「予測は必要か」と「記述は必要か」が問題とされている。
ここで「現状」しばりを外した次の要件候補も追加しておこう。
b') 「対象の記述を目指す」

この問題に対する結論は以下のパターンのどれかになるだろう。
1) a) と b) の両方が要件である
2) a) と b') の両方が要件である
3) a) だけが要件である
4) b) だけが要件である
5) b') だけが要件である
6) a) も b) も b') も要件ではない

補足すると、1) と 2) と 3) はともに予測を要件としているが、これらの違いは記述に関するもので、1) は「予測に加えて現状の記述が必要である」、2) は「予測に加えて記述は必要であるが現状を記述するものでなくてもよい」、3) は「予測だけでよく、記述は必要ない」という主張になる。4) と 5) はともに予測を要件とせず、記述だけでも科学的だと言ってよいとするが、 4) は「現状を記述しようとしなければならない」と主張し 5) は「現状に関せずともとにかく記述を目指せばよい」 と主張していることになる。6) は「科学的学問たるためには予測も記述も必要ない」という主張だ。

前にも書いたように、科学とは科学的弁証法がそのコアであると私は言っているが、この問題はそれに加えて、何を目指すかが学問の科学的か否かを左右するのか、というものである。もし 6) 以外の結論に至るならば、科学的学問は科学的弁証法以外にそれを特徴付けるものがあることになる(もちろん 6) であってもそれは消えるわけではないが)。

説明の研究をしている私としては、これは科学者の行う学問的説明が日常場面での説明的活動とどのように違うかという問題にも関わっていて、非常に興味深いものである。説明研究の中では、人が説明という行為をする理由として「将来の予測」以外のものが提案されている。その中には「将来における理解活動に関する功利」も挙げられている。これが予測と独立のものであるかも私にとっては微妙だが、とにかく、科学(心理学も含めて)は記述と予測が目標だと大学の授業で説かれている現在、本当にそうなのかについてはまだ議論が足りないのではなかろうか。

ちなみに私自身の立場は、日本の教育の成果として 1) であったが、最近 6) の可能性を考えている。(ただ、残念ながら、6) では今の学界では通用しないだろう。)

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日々これ精進せよ

訓戒。
必ずしも他のところもそうだとは限らない。たぶん世の中には(ウチにも?)これらが多くの人に備わっている研究室もあるだろうし、逆にそれ以前の問題だという研究室もあるだろう。
しかし少なくとも私がやってきた環境においては、心理学・認知科学的研究をやろうというのに、まわりの学生にとって決定的に勉強が足りないと思われ、私が夜な夜な嘆いている事柄、順位つき。

1. 実証的心理学的研究法、実験計画法
2. 統計学(数々の分析手法の知識)、コンピュータの知識
3. 哲学的素養

これって、ヤバくないですか? 1. が足りないんですよ・・・。2. も 3. も無かったらまともな議論ができないし・・・。
おそらく大きな原因の1つはカリキュラムと大学制度だと思われる。どうしてこんなことになってしまったのか。discussion sectionでも作らんかいな。
まったく教育を興味からはずしていた私がなぜにこんなことしなきゃならんかなぁ・・・。
みなさん(私も含め)、がむばりませう。

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