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他者の心、自分の心

私も心理学・哲学を勉強するまでは、
 自分の心があって、自分と姿の似た他者がいて、だから他者の心が認められる
と考えていました。つまり

 自分の姿 : 自分の心 = 他者の姿 : 他者の心

という四項類推です。
これは伝統的枠組みです。推論手順をもう一度述べると、まず存在すると確信される「自分の心」を自分が持っていて、世の中には自分と姿かたちの似ている(物体としての)対象があって、類推によってその対象も心を持っていると推論する、すなわち他者の心を認める、というものです。少し道具主義的になると、「類推によって」の前に「その対象の振る舞いを予測するために」という文が入ったりします。
現在でも多くの研究者(とくに「認知心理学」系の研究者)はこれを前提に研究をしています。一般の知識人でも、他者の心について「なぜ?」を聞かれるとこのような説明を導出するでしょう。
しかし、類推は類推ですので、これでは他者の心の存在についての論理的保証はありません。なので「他者問題」というのが湧き上がります。いろんなところで論理的厳密性にうるさい人たちが他者の心に関することを議論してきました。それはそうとしても、なぜ一般的に人々が他者の心を認めるのかについては、四項類推による説明が基本的なアイディアだったわけです。

さて、この話を持ち出すということは、もちろん、これは怪しいと私が思っているからです。
 「まず他者の心があって、私の心がある。」
どうでしょう。私もこれを考えてまだ5年ですが。
伝統的四項類推ではまず前提として認知されるのは「自分の心」「自分の姿」「他者の姿」です。しかし、私がこれの代案と位置づけているアイディアでは、まず「対象の姿」が認知され、別の根拠によって(あるいは根拠なしに)その対象に「他者の心」が推測され(ここで対象は他者となる)、自分の姿と他者の姿の類似性の認識から自分と他者のある面での同格性が認められ、その上で「自分の心」が認知される、という手順です。これにはカッコの部分などでいくつかのバージョンの違いがありますが、つまりは「まず自分の心ありき」ではないということです。このような考えは、デカルト主義に反するせいか、科学的世界では長年支持されていません。(最初に思いついたのは誰なのか私もわかりませんが。)

このアイディアの私のバージョンでは「自分の姿」は一切出てきません。
 他者の姿 → 他者の心 → 自分の心
1つ目の → は心的帰属を表しています。→ の左辺は「他者の姿」となっていますが、人間の姿でなくとも構いません。これは奇妙な名前の付け方ですが、→ のあとで「姿」は「他者の姿」になると考えます。帰属の原因はまだ明示できませんが、少なくとも我々が論理的に考えて納得できるような基礎付けはないと思っています。伝統的枠組みはここを四項類推によると考えるわけですが、そうではなく、合理的には正当化できないけど人間の仕組みとして自動的にそうしてしまう、と考えるのです。(ここに私の直観主義が色濃く反映されます。)
2つ目の → は反省です。この反省に「自分の姿」の認識が必要だとは私は考えません。この図式にある → は2つとも「自分による認知」です。もう少し詳しく言うと、注意対象の推移を表します。注意対象が自分に推移することで、「自分の心」が認識されます。対象に心を想定するようになってそれを深化させていくと、自分の心を考える必要に迫られ(あるいはきっかけを与えられ)、自分の心を考えるようになる、という話です。つまり心とはまずもって「自分の心」で定義されるものではありません。
主我と客我という区別がありますが、それは別の問題です(副次的問題)。主我であれ客我であれ、そういう認識自体が自分に注意が向くまでは存在しないと言っているわけです。ではそれまでは自分のことをどのように見ているのか?見ていないのです。見ていないということは、「自分の心」は存在しないということです(ここでの心とはその程度の定義です)。

このような考え方をする人は世界にいくらかいるでしょうが、認知心理学的な立場から伝統的四項類推を疑ってかかる人はほとんどいないのではないでしょうか?
手元のリストも少ないので、ご存知でしたら教えてください。
仲間募集。


おまけ。(ネタふり)
世間的に言われていることには、人間は「物心がつく」そうです。これはいったいどういうことでしょうか?
物心のつかない人間は人間的に振る舞わないですか?あなたのことがわからず、親とも人間とも思っていないですか?考えてみてください。
加えて、一般的に人間には生まれてからしばらくの(自伝的)記憶がありません。
英語では reach the age of reason だそうです。

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Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

はじめまして
自身をググってたどり着きました(笑)
脳内部でのある特定の信号処理が「こころ」という概念を認識した状態とするならば、「私の心」と「他者の心」とは同一部位にて認識されるのかもしれませんね。たとえばミラーニューロンに相当するような場所で。

投稿: きすぎじねん | 2007年10月18日 (木) 22時12分

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「来生自然」でググってたら、「アンドロイドはしあわせか」(scribbling Midwest's ideas and thoughts)というブログにて「他者の心、自分の心」という投稿を見つけました。 「ものごとにはかならず因果関係がある」という前提条件を課しての論理的推論をふまえれば、「鶏が先か、卵が先か」といった二者択一の論法にもっていかざるをえないでしょう。 上記記事においても、伝統的推論に則るか、「逆もあり」として考えるかを選択問題として取り扱っておられます。 しかしなが... [続きを読む]

受信: 2007年10月21日 (日) 04時17分

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