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2005年3月

5%

有意性検定において「帰無仮説が真ならばこの値(臨界値)以上の統計量が得られる確率は5%。だから帰無仮説を棄却する」とかって言うよね。んで5%っていうのは慣習なんだよね。(この数字には今日はいちゃもんつけないでおく。)
これを習ったときからずっと疑問なんだけど、なんでそんな風に勝手に5%の範囲を決めるの?っていうか、なんで外側に積分するの?
帰無仮説検定は帰無仮説が点仮説だから云々・・・っていうのはよく聞く問題点で、それはそれでおかしいと思うんだけど、それとは別で、上の話については本とかには書いてないんだよね。
発生確率は5%で、珍しいから、帰無仮説を棄却するほうが合理的、ってみんな言うんだけど、おかしいよね。実は「珍しい->棄却」に関しては(私にとっては)2つ問題があって、どっちも変だと思うんだけど、もう1つのほうはまた今度で、今日は1つだけ。
5%の区間ってどこ取ってもいいじゃん!と初心者は思う。なので、なぜp値を計算するときに、得られた統計量の点から外側(平均値と離れる方向)に積分(累積)するのか、その道理がわからない。同じ5%だったら、平均値の周りでも5%の区間がとれるはず。じゃあ、そこに入るデータを得たときは同じくらい珍しいじゃないか。なぜ分布の端の5%だけ特別扱いする(帰無仮説を棄却する)んだ?中途半端な位置で取った5%区間だって同じ5%のはずだ。そう考えると、どこの区間の5%でも(すなわちどんなデータでも)同じ論理で帰無仮説が棄却されることになってしまう。
これって、人間の感じる確率の話と似たようなところがあると思うんだよね。例えばサイコロ3つ振って1,2,3って目が出たら、人は「おお!」って言うんだけど、1,4,6でも同じ確率なんだよね。1月1日に生まれた人に「おお!」って言うけど、1月26日に生まれた人だって同じくらい珍しいはずなんだよね(細かい要因除けば)。2000年になるときにみんな騒いだけど、あれもおかしくて、1000年に1度って言うなら今日だってそうだよ。
こんな余談はともかく、分布の端だけを特別視する理由が未だ不明です。
学部で統計的検定を習ったときに教授にこれを質問したけども、答えは出ませんでした。
最近、決め手は信頼区間かなぁって思うんだけど、どうかなあ。
こないだ統計学者に聞く機会逃したしなあ・・・。

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anthropology, androidology, anthropoidology

「人間は動物だ」
この一見自明な命題にもとづいて動物比較研究、人類学的研究、進化心理学的研究など、様々な研究が行われている。
私にはこれを(生物学的根拠でなく)素朴に認められることが不思議に思えるんだけど、それは今は横において・・・

他の動物から切り離して人間に特有だと思われる問題について考える時、とくに認知システムをもつ個体であることを前提とした問題を考えるときに、それがどの範囲に適合する問題なのかということは、まずもって問題を把握するという点で欠かすことができないのは明らかである。しかし、必ずしも研究者にそれが自覚され、実践されているとは限らない。というよりも、むしろほとんどの人は考えていないし、考えようともしていない。
anthropology
androidology
anthropoidology
あなたがひたむきになっているリサーチクエスチョンはこれらのどれに当たるものか考えてみてください。
もちろん、人によっては、実はもっと外側の問題を扱っていた、ということも十分ありうるけどね。

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おまけ

所詮われわれのやっていることというのは「おまけ」である。
少なくとも1次的なもの(もっとも基本的な営み)ではない。
研究者たちはなぜそんなに偉そうにするのか。
教授たちはさらなり。
そして、彼らをその職業だけで偉いと錯覚している市民たちよ、まだなら早くこれに気づいたほうがよい。

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類似性と関係性

比喩、アナロジー、モデルの研究によくある
類似性、関係性、目的。という分類。
直観的に納得させられてしまうものではあるんだけど、だからってそれで十分というものではなかろう。

類似性を関係性で説明できないかなぁ・・・?
あるいはその逆は?

なんかできそうな気がするんだよね・・・。
まあ、どういう説明になるかが問題なんだけど。
こういうカンってこの分野ではあてになりません。か。

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調査の意義

先日の研究会である方に対してはなった私の発言について、後日談を聞くとどうも誤解されている感じがするのでこれを書きます。
某さんが簡略化した私の発言の概要は「その調査は意義がないから行うべきでない」ということだそうです。
私は研究倫理についてはけっこうプラグマティックなタイプで(おせっかいという意味ではないです)、自分に関してはうるさくても人にうるさく言うことはあんまりないのですが、今回はケースがケースだけに、遠慮なくスバッと言ってしまいました。

私がやったことは、ある人が~という調査をしようと思っていると発表されたときに、それにはどんな学問的意義があるのか、と問うたところ、明快な回答が得られなかったので、私には意義がわからないと発言したところ、ちゃんとした反論も得られなかったことから、ならばやらないほうがいい、と言いました。
研究の意義については判断が難しい問題であり、普遍的で明確な基準を与えることは私にはできません。しかしこれは、ある人が「~という意義がある」と言ったときにそれが正しいかどうかの判断が難しい(人によって意見が割れるかもしれない)ということです。今回の件はそうではなく、その人が自分なりの意義の表明、すなわち調査を実施することの正当化をできない場合、そんなものは行うべきでない、というのが私の発言内容です。つまり、私は表明された意義についてそんなものは認めないから調査をするなと言ったのではなく、自分で意義を説明できないなら調査をするな、と言ったのです。

ちなみに、その方は私が意義を問うた際に何か発言をされましたが、それは「調査で扱う題材が深刻な社会的問題だ」という事実説明の繰り返しであり、認知心理学上の学問的意義の説明になっていませんでした。それを指摘した際の反論はありませんでした。

異論お待ちしております。

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続 evolution

誤解が蔓延している。
ウェブ上を散歩していると、よくわかる。今日も出くわした。
とくに、こんなblogみないなのが流行ってからはますますで、「一般市民の理解」が実際のところどんなものなのかが露呈されているんだと思う(これはこれでよいかも)。作者さんたちにひとつひとつツッコみたくなるけども、あまりに多すぎてそんなこともできず、まいってしまう。

自然選択と生存闘争の説は、進化説が正しいとした上で進化のメカニズムを説明するものであって、進化説の内容ではない。ここを混同しないようにしましょう。
また、従って、頻繁に用いられる便利なキーワード「適応」も、メカニズムを説明するある説の上で登場するのであって、進化と必然的な結びつきを持つものではありません。

この点は試金石になりうるので、もしここを取り違えているようなら、その人がたとえ専門家だと称していても疑ってかかるほうがよいでしょう。

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理系文系

よくある分類だ。学問を二分するとはなんと安易な・・・。

それはそうと、究極を求めるのが大好きな基礎研究者さんたちに降りかかる「もっとも基礎的な学問は何か」問題がこれと似たような図式になっていることをだいぶ前に発見した。
典型的には

 物理学 => 理系
  哲学 => 文系
     ↑
  論理学、数学
こんな感じ。 madな自然科学者はこの世の出来事はすべて数学と物理法則で記述できると思っている。これこそが究極だ、って感じで。 一方、(私は違うと思うけど)文系に分類される哲学者は、それこそ伝統的には、自分たちが人類の全知識の基礎付けをやるんだと意気込んでいる。現象主義なんてのもあったりして、物理学者、もとい、唯物論者と対立すること多し。 論理学者と数学者は、世界の認識の究極とは別に(それ以前に)、道具立てを提供しているということで、自分たちが徹底した基礎だと思っている。

例文を挙げて終わろう。
物理学者「物理学はこの世界の法則を記述するのさ」
哲学者「でもそれをやっているのは人間だろ。所詮われわれが認識できるものといえばわれわれの主観でしかありえない。客観なんて証明できない。この世界のすべては私の内で作り上げられているようなものだ。世界は私の心なんだよ」
物理学者「心は脳神経の活動によるものじゃないか。神経科学も自然科学、結局神経の働きは物理法則によって決まっている。だから心だろうがなんだろうが物理学さえあれば十分なのさ」

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