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2005年4月

合理性と目的

合理性という概念を素朴人や心理学の専門家や経済学の専門家がどのように受け取っているか、解釈しているかは、まちまちであるくせに、興味深い問題でもある。
最近(ここ数十年)再びこれらの学問でも人間の合理性に「明示的に」言及される頻度が増えた。だからこそ、合理性という言葉のあいまい性は問題だ。

合理性というのはそもそも目的論的なものだ。合理の「理」は原理の理というよりも理由の理である。
理に適っているというのは、目的に沿っているということである。この「目的に沿っている」もまた不明瞭だが、要するに、目的追求に関して正の方向に働いているかどうかの「評価」の問題なのである。そうすると、「目的」のない(あるいは定められない)事象に関しては合理的かどうかは言及できないはずである。
合理性は行動がどのようかだけで定めうる行動の性質ではなく、目的も合わせなければその評価ができない。

特定の客観的原理(関係性を扱う学問において正当化される、規範だと認められるようなもの)に沿っているかどうかで合理的か否かを言うことがあるが、これであっても目的論を外れてはいない。振る舞いにそのようなルールを当てはめること自体が目的の評価をしていることなのだ。
そしてこのケースのように、行動者自身ではなく他から見ている人たちが行動者の目的の評価をする場合、それは目的の推測が介在している。他の人が勝手に目的を推測した上で、それが規範的ルールに沿っているかどうかを見比べ、行動を評価しているのである。ここで、推測が当たっていればまだマシだが、その規範的ルールに沿うことが当の(本人の)目的に沿うこと(=合理)でなかった場合は、まったくの見当はずれとなる。

目的に沿うというのは、(自己報告されうる)行動理由(以下、単に「理由」とあるときはこれを指す)とマッチしていることだと言えるが、これについて「場合によってはそうでない」と言う人もいるだろう。これは目的の定義の問題である。理由というのは、(それが行動の正当化の側面を持っている点は考察が必要だが)その外延として目的を含むと言える。しかし理由は「自覚」を必要とする。目的の定義にこれを含めることもあれば、含めない定義もありうるだあろう。後者ならば、「目的に適う」は「理由に適う」ではないこともある、ということになる。ここはポイントである。振舞うもの自体がその目的を自覚していないのに(そいつに「自覚」なんて認められないのに)目的的だと言うことができるかどうかである。合理性概念に関する不一致の一面はここに還元することができる。
古典的合理性概念はもちろん自覚を要件とする。しかし、近年言われる進化論的合理性などはそうではない。

 自動的に標的を追尾するミサイルには目的[purpose]があると言える、 Yes or No

目的をどういうものだとするかは重要な問題だが、合理性ということに関して言えば、これに関連してもう一つ問題が浮かび上がってくる。「目的」の要件から「自覚」をはずすとすると、行動者以外が行動者の目的を定められるということになる。先ほど用いた「目的の推測」という言葉が誤りとなり、他の者が感じたそれが目的そのものになる。そうなってくると、合理性は行動者以外が判定できるのである。
しかし、目的から自覚をはずすことを認めなければ、行動の合理性は行動者のみが正確に判定できるものとなる(そしてほとんど常に合理的となる)。
すると、合理性を如何に言及するかは、目的の定義の問題にコミットすることにもなるのだ。

もちろん、目的には構造があり、目的のための目的もあり、人の行動はたいていこの込み入った構造を追っていることを頭の隅に入れておかねばならない。

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読めない漢字

最近ねえ、みんながインターネットで文章を流すようになったんだよねえ。
メール書くし、掲示板に書き込みするし、日記を書くし、中にはウェブサイトを作る人もいるし。

あたしゃ漢字が苦手なのよ。覚えられないから。
それでも、読むくらいは何とかなると思ってたんだけどねえ。
ところが。
むう、読めない。
なぜかってーと、そうしたネット上の文章では非常用漢字が惜しみなく使われているから。

パソコンで変換すると、日ごろ使うものだろうが使わないものだろうが、一覧で出てくる。
日本語においては、漢字はとにかく使えばよいってものではないと思うので、その言葉を漢字にすべきかどうかを、文字を打つたびに毎回適切に決定しなきゃならんのだが、どうやらそれができていないらしい。
あるいは非常用漢字という概念を知らないのか。
変換押して漢字が出てきたら「とりあえずこれ漢字にしとこ」って人が多いんじゃないかな。
その理由がなぜなのかあたしにゃわかりませんが、漢字を使っているほうが知的な感じがするとか、見栄えがいい(?)とか、そんなところかもね。
MSIMEなどは最近はその漢字が常用か否かを表示してくれるようになったんだけど、宝の持ち腐れでしょう、おそらく。
句読点にしても、似たようなことが起こっておる。

こんな風にネット上に文章をのせるのが流行るまでは見たこともなかった漢字が、私の目に飛び込んでくるのですよ。
いやー、いつも辞書サイトを片手に、いや片ウィンドウに、勉強になります。:p

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直観と直感

technical termとして使うときによく字を間違えられる「直観」と「直感」。
われわれの業界では intuition の定訳は「直観」だそうだ。
それはそうと、日本語ではこれらはどう使い分けられるのか。

ある人の言い分では、直感は主観で、直観は客観らしい。
また、別の人の言い分、http://www.alice-it.com/noguchi/alicecat8.html によると、
「感覚と感情と思考に、入力に対する反応ではなく、入力なしに起こるものがあります。・・・ 入力なしに起こる感情が直感であり、入力なしに起こる思考(厳密に言えば、入力とそれに伴う思考なしに結論のみが突然浮かびあがる現象)が直観です。(感情の中には、体調によって起こる気分があります。これは入力がないように見えますが、体調を感じる感覚があって、それに対して反応していると考えられます。ここでいう直感は、そのような現実の何にも結びついていないようなものです。)」
だそうです。

WordNet 2.0 では
intuition -- instinctive knowing without the use of rational processes
となっているので、一般的な専門用語としての直観の定義はこんなところなんでしょう。
これも私としては不満だけど。
直感は英語ではどう表現するのかね?(英語にもあるのか?)

まあ、一般市民はあんまり区別して使っていないのだろうけど(直感のほうが用例が多いかな?)この違いを考えてみるのもおもしろいかもと思ったことがある。

直感と直観はどう違うのか。

ほんとは違わなかったりしてね。

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一貫性

このネタ放置しすぎてたぶん一覧に出ない。

学部生のころから「一貫性」というのを研究のキーワードにしてきた。
思いついた当初はそんなにパワーがあるとは思っていなかった(一領域の現象を説明することば程度だろうと思っていた)んだけど、考えるうちにかなりすごい話になりそうなので、これを押して結局卒論を書いたわけだ。
なぜ一貫性にそれほどウェイトを置くかというと、大きなポイントのひとつは、一貫性がrationality1の渦から救出してくれるのではないか(これはもちろん比喩)という期待があるからだ。つまり、私の直観主義のもとでの規範的合理性の説明に一役買ってくれるはずだとにらんでいるということ。
この柱があるから私は直観主義を維持しているといっても過言ではないわけで、このプロジェクトがつぶれると放浪の身になるだろう。
ま、がんばりますので見守るか協力するかしてください。

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フィッシャー派

何度かここで統計的検定に関することを書いたけど(「5%」「帰無仮説の棄却」)、結局こういう疑問はネイマン-ピアソン流(あるいはその雑種)の理論にのっかろうとしないから出てくるんだよね(一様最強力検定とか無視)。
フィッシャーはp値に関してはベイジアンに近い考えだと思うんだけど(というかlikelihoodist? 事前確率は否定するので)、私の立場ってかなりフィッシャーに近いと思う。
「科学的探求としては仮説は正しいか間違っているかだから、この仮説が正しい確率は何%、とかいう表現には抵抗がある」というのもわからなくはない。そういう立場をとるなら、フィッシャーのやりかたはまともだと思う、ネイマン-ピアソンよりは。少なくとも科学的探究に適用するということであればね。
理論から外れるデータが出たらそこで次の理論の模索をはじめる、というのは探求の進め方としては悪くない。かたや、対立仮説なんてものを立てるのはおかしい。そもそも何を指すのかがわからない。ベイジアンな場合も、比較する仮説がすでにある、というのは科学的探究においてはそう多いケースではないし、residual hypothesis なんて設定したらそいつの条件付確率にどうやって言及するのか。尤度「関数」にするしかないのでは。
「統計学的には仮説の否定しかできない」というけれども、それは統計学の問題ではなくて、実証的学問一般の問題だ。反証を示す具体的証拠が出ないなら暫定採用しましょうというポパー的なやり方以外に、どうやるというのか。フィッシャーはいきつくべくしてあの仮説検定の考えに至ったように思える。
モデルの予測する値から大きく外れていればモデルは修正する必要がある。外れの大きさが問題なのだから、外側に積分するのもそれなりに理由はつけられる。しかしそれにしてもデータの発生確率は仮説の吟味を促す1つの情報に過ぎず、また、どれくらいのズレが許容されるのかというのも分野によるのだから、effect sizeが確率よりも重要なのは言うまでも無い。

信頼区間はその後の発展として有益なものだと思うので、これについてはまた今度書くことにしよう。

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優生学

この文章は優生学をある面で支持している。論理的考察であるので、感情的議論を差し挟むことなく読むべし。それができそうにないなら読まないほうがよい。

世の中には悪しき学問とかペテンとか呼ばれた"負の学問"がいくつかある。優生学しかり、錬金術しかり。
優生学は論理的である。その主張することはそれなりにまともである。たしかに、進化論と遺伝学の成果によれば、それなりの処遇をほどこせば人類の形質変化を多少なりともある方向に傾けることができるかもしれない。子孫がある形質を持つ可能性を増やすことができるかもしれない。肉体的形質のみならず、人間の高次精神的技能(らしきもの)がどれくらい遺伝に左右されるかはわからないが、これについても、他の種の例から考えると、それが不可能であると断言することはできないだろう。論としては決定的な不具合はない。
従って、優生学はその学問としてのロジックを根拠に否定される見込みは高くない。科学者としては比較的まともなことをしている。これはノーベルがまともだというのと同様だ。そうして省みると、優生学は冷遇されすぎである。

たとえ、人間の形質の変化をある方向へ導くことができる、としても、それをして何の意味があるのか、という点は別の問題である。これは厳密に言えば優生学の外なのである。正当な意義を主張して、実践としてこの学問の成果を適用すればよい。私にはそんなことをする(子孫の生存可能性を意図的に操作する)意味がまったくわからないが、意味があると言う人はやればよかろう。これは問題ない。これを否定すると、同じ理由で医学の適用を否定することになる。
私は現代日本医学のかかげる生命倫理も理解できないが(だからこそ医者にならなかったのだが)、一人の人間の意見で他者の行いを縛ることなどできないので(自由主義のもとで許される範囲に医学的処置は入っていると私は認める)、望む人は望むようにすればよかろう。これは優生学にもあてはまり、優生学だけ差別を受けるいわれはない。優生学はそれ自体、虐げられるべきものではないのである。その成果を適用した結果、誰かにとって不満な事態に至ったとすれば、その人が非難すべきは適用した人の行いである。優生学を発展させた人間ではないし、(我々の法と思想のもとでは)その人にとって関係のないところでの優生学の実践ですらない。

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脳と心

昨今、脳科学が盛んであるのは言うまでもない。
これについて一言書きたいわけだが、さて、思考とか記憶とか感情とかは市民にわかりやすい心的活動の例だから(通俗心理学の用語だから)、今回はこれを使ってみよう。
思考が脳活動であってそれのみである、あるいは記憶や感情をimplementしているのは脳でありそれのみである、などということの真偽はまだわからないのである。
思考や記憶や感情などをbehavioralに研究している私としては、ここはきっちりしておかなければならない。脳のニューロンどころか脳のみであるという証拠すらまだどこにもない。fMRIを使おうが、TMSを使おうが、それだけではそんな証拠は得られないのである。
しかし昨日、某教授が、学者ならば慎重になるべきこの点に関して、公の場で断言してしまった。私としては「あちゃ~」というかんじで、まいっている。まあ、あれをありがたそうに聞いているかどうかで院生のできが測れてよいかもしれないが。
脳のみであることが不明であるというのは、思考や記憶や感情に関して重要な機能を担う部分が(そんな同定が可能だとすれば)脳ではない可能性もある、ということでもある。もちろん別の組織であるかもしれないし、組織ではないかもしれないし、科学者でない人がしばしば言うように物理的なもの以外であるかもしれない。例えばこれまでのfMRIを使った研究から、特定の課題の実行するタイミングに相関して脳の特定の部分の血液中酸素量の変化に伴ったMR信号の変化が生じるらしきことは推察されるが、それはそれまでのことである。それ以上は単に直接の証拠のない説に過ぎない。
精神作用に対する認知神経科学的なアプローチはまだ始まったばかりである。われわれは慎重にそれを扱わねばならないし、それ以外の可能性も捨てるべきではない。

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帰無仮説の棄却

先日書いた内容にある「もうひとつのおかしなこと」について。

「帰無仮説が真ならこの値を得る確率は5%以下でとても珍しいケースが発生したことになる。よって帰無仮説を棄却しよう」のどこが不可解なのか。1つ目は前書いたように5%区間の決め方だった。もうひとつは、なぜ発生確率5%以下のデータを得たことから棄却につながるのか、というこの論理の肝の部分。すなわち、背理法もどき。
例えば、計算の結果、p = .008 (0.8%) だったとしましょう。普通だと(一般的な研究者がやることを見ていると)これは「1%水準で有意」と論文中に書かれるわけで、このp値がコンピュータのモニタ上に現れたのを見たときには万歳三唱が起こるような事態だよね。
前述の区間の問題を保留しておくと、たしかに0.8%というのは帰無仮説のもとではレアケースと言える。しかしこれは、帰無仮説が真であるとした場合のそのデータの発生確率だ。つまり Prob( D | H0 ) = .008 なんです。
さて、「帰無仮説は棄てて対立仮説を採ったほうが合理的」と言えるのはどんなときか。そりゃあ、帰無仮説が真であるよりも対立仮説が真である可能性のほうが高いときでしょう。すなわち Prob( H0 | D ) < Prob( HA | D ) のとき。
では、Prob( D | H0 ) しかわかっていないのに、なぜこんな判断ができるんでしょうか?
たとえ事前確率 Prob( H0 ), Prob( HA ) が決まっているとしても、Prob( D | HA )、すなわち対立仮説のもとでそのデータを得る確率、が不明なんだから、どうしようもない。それどころか、通常、検定を用いる場面というのは、事前確率は怪しいものだ。ここで例の点仮説の問題が挙がってくるんだけどね。
ということで、たとえ p = .008 だからって、それだけでは帰無仮説を棄却する理由にならないわけですよ。
どうなってるの?そこんところ。

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平和主義

平和主義って社会的ジレンマだよね?
ジレンマゲームのReward セルだよね?

ということは、社会的ジレンマの研究が進展すれば達成手段が見つかるのかなあ。
あるいは達成不可能という結論が出て一部の人を絶望に落とすのかなあ。

パワーが足りないんじゃない?
まあ、相手が神じゃあ無理もないか。

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