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合理性と目的

合理性という概念を素朴人や心理学の専門家や経済学の専門家がどのように受け取っているか、解釈しているかは、まちまちであるくせに、興味深い問題でもある。
最近(ここ数十年)再びこれらの学問でも人間の合理性に「明示的に」言及される頻度が増えた。だからこそ、合理性という言葉のあいまい性は問題だ。

合理性というのはそもそも目的論的なものだ。合理の「理」は原理の理というよりも理由の理である。
理に適っているというのは、目的に沿っているということである。この「目的に沿っている」もまた不明瞭だが、要するに、目的追求に関して正の方向に働いているかどうかの「評価」の問題なのである。そうすると、「目的」のない(あるいは定められない)事象に関しては合理的かどうかは言及できないはずである。
合理性は行動がどのようかだけで定めうる行動の性質ではなく、目的も合わせなければその評価ができない。

特定の客観的原理(関係性を扱う学問において正当化される、規範だと認められるようなもの)に沿っているかどうかで合理的か否かを言うことがあるが、これであっても目的論を外れてはいない。振る舞いにそのようなルールを当てはめること自体が目的の評価をしていることなのだ。
そしてこのケースのように、行動者自身ではなく他から見ている人たちが行動者の目的の評価をする場合、それは目的の推測が介在している。他の人が勝手に目的を推測した上で、それが規範的ルールに沿っているかどうかを見比べ、行動を評価しているのである。ここで、推測が当たっていればまだマシだが、その規範的ルールに沿うことが当の(本人の)目的に沿うこと(=合理)でなかった場合は、まったくの見当はずれとなる。

目的に沿うというのは、(自己報告されうる)行動理由(以下、単に「理由」とあるときはこれを指す)とマッチしていることだと言えるが、これについて「場合によってはそうでない」と言う人もいるだろう。これは目的の定義の問題である。理由というのは、(それが行動の正当化の側面を持っている点は考察が必要だが)その外延として目的を含むと言える。しかし理由は「自覚」を必要とする。目的の定義にこれを含めることもあれば、含めない定義もありうるだあろう。後者ならば、「目的に適う」は「理由に適う」ではないこともある、ということになる。ここはポイントである。振舞うもの自体がその目的を自覚していないのに(そいつに「自覚」なんて認められないのに)目的的だと言うことができるかどうかである。合理性概念に関する不一致の一面はここに還元することができる。
古典的合理性概念はもちろん自覚を要件とする。しかし、近年言われる進化論的合理性などはそうではない。

 自動的に標的を追尾するミサイルには目的[purpose]があると言える、 Yes or No

目的をどういうものだとするかは重要な問題だが、合理性ということに関して言えば、これに関連してもう一つ問題が浮かび上がってくる。「目的」の要件から「自覚」をはずすとすると、行動者以外が行動者の目的を定められるということになる。先ほど用いた「目的の推測」という言葉が誤りとなり、他の者が感じたそれが目的そのものになる。そうなってくると、合理性は行動者以外が判定できるのである。
しかし、目的から自覚をはずすことを認めなければ、行動の合理性は行動者のみが正確に判定できるものとなる(そしてほとんど常に合理的となる)。
すると、合理性を如何に言及するかは、目的の定義の問題にコミットすることにもなるのだ。

もちろん、目的には構造があり、目的のための目的もあり、人の行動はたいていこの込み入った構造を追っていることを頭の隅に入れておかねばならない。

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