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2005年5月

感情と直観

affect の重要性を説く人も intuition の重要性を説く人も同じようなことを言う(rational と対比させる)ので、
affect と intuition を同じ性質のものグループにしてしまってよいかという問題が浮かんでくる。
まあ、一般市民にとっては明らかに同じでないのだが、研究者にとっては「できるものなら概念は少なく統合されているほうがよい」らしい。
これはむしろ affect の側に比重の大きな問題である。intuition のほうが定義が比較的明確であり(というか実体感が少ないから動かしようがない)、affect の定義をどこにとるかでいっしょになったりならなかったりすると思われる。おそらくうまくいけば、一方がもう一方を含むという定義が可能だろう。
けれども、研究テーマとして世間に人気があるのは affect のほうだ。こいつはよりメジャーな素朴心理学概念なので、そのからみに人気があってしかるべき。その点、intuition は同じく素朴な概念であるにもかかわらず漠然としていて、そんなものを研究してだから何、って感じに思われるみたい。まあ、そりゃもっとも。
私としては「 intuition とは impression を得ることで、それは sensation や perception や conception に共通する特徴で、affect は impression の一種である」と言いたい。だって、intuition のほうが明らかに内包が少なそうだし、別ものと考えると理論化が大変なんだもの。
そういえば、affect を得る過程のことは何と呼んでいるのだろうか?

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後出し統計学

統計学を勉強せずともあるていどはやっていけるだろうとふんで根拠のない自信を振りかざしている人々がたくさんいるのだが、これはまったくのヒューリスティックにほかならない。直観に頼ってもたまたま都合のいい結果が付いて来た(まぐれ当たり)ってだけ。
そりゃまあ、私の持説からすれば人間のやっていることはぜんぶヒューリスティックなんだけど、それにしてもそんな部分はできるだけ少ないほうが良いっていうか、学問というタイプの活動をするときはとくにそうだ。だからそんな自信はないほうが良い。
統計学は必要になってからやればいいなんて、そんな考えは捨てなされ。必要だってことはわかってるんだから。データを集めて分析する段にならないと統計学なんて自分の研究にからんでこないと思っている人はまったく間違いというか、科学的研究ってものがこれっぽっちもわかっていない。「統計学をツールとして使えればよい」とか言う人がいるんだけど、細かく考えるとこれは誤りで、現代ではツールというよりもほぼグラマーである。ツールってのは選択肢があるんだよ。しかし統計学的現代科学にはそんな余地はほとんどない。「ユーザとしての統計学」と「ツールとしての統計学」は言っている意味が全然違う。
物事を調べる、ということを始める段ですでに自分のやれることの方向性が制約されているんだ、ということに気づいていないから、「後出し統計学」ができるように見えてしまうんだろう。ぜんぜん後出しじゃないぜ。始める前から君がパーを出すことは決まっていたのさ。

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認識の限界

人間には認識できるものとできないものがある。
もし人間がなんでも認識できるなんて思っている人がいたら、それはまったくの誤解だと言える。
世界は人間がぜんぶ認識できるほど小さくはない。

人間の認識の網にかかるには、その事物が人間の感覚となんらかの共変関係を持たなければならない。そうでないものは認識できない。共変関係は直接の因果関係である必要はないが、認識とは比較なのだから(「比較と認識」を参照)、世界の差異を知る材料(=共変)がなければ、それは全でありかつ無である。

認識の限界というのは永久不変な境界線なのではない。それは時間経過とともに変化しうるし、現実に人間に認識できるものは拡大の方向に向かっているように思われている。現在は認識の範囲外にいるが将来は(宇宙的な年月で)認識の範囲内に入ってくる事象もあるかもしれない。

さて、人間の認識できないものが存在するとどうなるのか。早速に答えてしまうと、どうにもならないのである。人間に関与しないものは存在しても問題にならない。何か困ったことが起こるとすればそれは人間に認識されているのであって、人間の認識範囲外の存在者がどのようであろうが人間にはどうでもよいのである。

人間がすべてを認識できると思うことだけがただ間違いである。

これすなわち、認識限界がどのように変化しようとも人間の知りえないことが常に存在するという、動的な不可知論であり、不完全性世界論である。

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事故報道とクリティカル・シンキング

このところ例の列車事故にマスコミが時間や誌面を割り当てる量が多いけどさ、クリティカルシンキングの研究者ならこんなときなんて言うのかねえ。堂々と一貫した主張をするなら、マスコミのあれはまったくおかしいって言うべきだと思うんだけど。明らかに偏ってるよね。なんで言わないのかね。少なくともそういう意見をまだ一度も聞いたことがない。私の知らないところで言っているのかな?(濡れ衣だったらごめんなさい。)学者としてある立場に身を投じるならもっと一徹にやるべきだと思うんだけど(途中で立場が変わるのはまた別の話)。
そういう意味で(一部の学者を除いて)クリティカルシンキングの研究者は「甘い」ように見える。最近は偉い先生の仕事に対して文句をつけるようにはなってきたけど、圧倒的で感情的な市民の声に文句をつけるのはまだ見かけない。
マスコミのバカっぷりとそれに泳がされる市民とまたそれに迎合するマスコミと・・・っていう最近の悪循環に嫌気がさしたので書かせてもらいました。私のCT研究批判は今に始まったことではないので、事のついでにとばっちりをくらっただけです。ごめん。

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ドラえもん

私はドラえもん型人工知性の完成をランドマークの1つとして研究しております。(以前はその前にR2D2型、KITT型、C3PO型、アナライザー型が必要と見込んでおりましたが、最近はそうでもないかと見直しています。)
ロボットのシステム構築の研究をしていると言うとわかってもらえやすいので、自己紹介のときにたまにこの話を出そうかという誘惑に引かれるときがありますが、たいていは口に出す前に断念します。なぜかというと、それは私の研究の一面でしかないわけで、それだけ言って自己紹介が終わったり、その話で盛り上がって私の研究の他の話をする機会がない、などとなると、私の仕事をおもいっきり誤解されることになるからです。
しかし、どうでもいいや、という場合には、ロボットの話で片付けたりもします。ですからみなさん、私が自分の研究を話すときに一般にわかりやすくとっつきやすい話をしだしたら、適当にしゃべってると思っていただいて間違いないかと思います。
心理学です、なんて言ってるときも同様です。

でも市民は目に見える結果を欲しますから、ドラえもんが目指しているものの1つだというのはマジですよ。
某社のプロジェクトは私に言わせれば全然だめです。まあ、現時点でやろうと言うんだから仕方がないけど。

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