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2005年6月

理屈

「世の中には理屈ではどうにもならないことがあるのよ!」

・・・何度この言葉を浴びせられたことか・・・。

いやぁ、そりゃまあ私がいわゆる「理屈っぽい」人であることが一役買っているのは間違いないのだろうが、ことはそれで片付く問題ではない。「理屈っぽい」が意味していることをきちんと考えて敵なのか味方の志士なのかを見極めないと、一刀両断はできないのだよ。そうでないとあれこれかまわず切りつける辻斬りになってしまう。

こういう言葉を吐く人は、たいがい理屈の意味を履き違えておる。そして世の多くの人がこういう言葉を吐くpotentialを持っている。つまり、ほとんどの人は理屈というものがどんなに自分たちの眼前の世界と常識に身を潜めているか気づいていない、というか、見抜いていない。すなわち辻斬りであるかもしくは辻斬りになる素養を持っている。この意味がわかると、「理屈」が複数の別々の事柄をカバーする言葉(すなわち多義語)であって、さらには、それらを全部否定するのは人間として無理だ、ということが見えるはずなのだ。

順を追って説明しよう。

「理屈ではどうにもならない」とか「理屈では割り切れない」といった場合、その場では何が起こっているのか。まず、何らかの理屈が提示なり想定されているはず。で、当の問題をそれによって白黒つけるのに満足いかない、ということを表現するときこう言うのだ。そして多くの場合、これには感情的表現が伴う。まあ、大きな声を伴っていようが、眉間にしわが寄っていようが、両腕に力が入っていようが、そんなことは話の内容とは関係ないのでどうでもよい。怒鳴ってようがおっとりとしゃべっていようが、まともなことを言っているものはまともだし、間違ったことを言っていれば間違っているのだから。聞き手がどのようにそのおまけの言動に影響を受けるかは確かに別で重要だが、今は説得の話でなく事実の話をしているので、余計な側面は切り捨てよう。

提示された理屈に満足しない場合、かつ上のような言葉が出る場合、その理屈は正しいことを言っている、あるは欠点がない、ということがおおよそ認められているものだ。ならばなぜそこで満足しないかというと、感情的に、あるいは自己利益的に、うれしくないからである。そりゃあ、正しいこと、と、自分が楽しいこと、は必ずしも一致しないんだから(だからこそみんな人生を悩んで過ごすわけで)、そういう気分になるのは当然だろう。
で、「あなたの言い分は正しいけれど、何もかも理屈でうまくいくわけではない。理屈をはずれてやってかなきゃならないときもある」みたいなことになる。しかもなんだかこの言い分は、通俗的に正当化されているようだ。テレビドラマなんかでも、主人公がキメるシーンで言ってたりする。

問題は、状況に応じて理屈を否定するという抜け道が取れるかどうか、である。この種の言い分は、要するに、理屈で片付けるときと、理屈を適用せずに自己中心的、主観的な感情的判断の適用によって片付けるときを、使い分けようと言うのである。そういう理屈の使い方が可能なのか、ということを問わなければならない。果たして理屈とはそういうものなのか。まあ「そういうものだ」と断言できると思っているからこそ上のような言い分が通っているわけで、わかってもらうにはもう少し噛み砕く必要がある。

理屈が理屈たるエッセンスは、一貫性である。だからこその理屈なのである。好きなとこに好きな場所で好きな相手でコロコロと理屈の内容が変わってOKだったら、そんな言明は理屈のパワーを持たない。何を信じてよいのかわからんのだから。一貫性があるからこそ信じられる。役に立つ。それが理屈である。ある日コンビニで500円玉を渡してお弁当と交換してもらったのに、5分後に行ったら交換してもらえないとか500円玉を500個要求されたとか、隣のコンビニではその500円玉は使えない、では困るだろう。ある日に飛行機が飛ぶことを可能にする自然の理屈(摂理)が次の日になって変わっていたら困るだろう。ある時「カサ取って」と言うと傘を渡してくれたのに、次の瞬間に「カサ取って」と言うと電子レンジを渡されたのでは困るだろう。さっきまで会社の従業員だったのに、いきなり次の瞬間に「あなた誰?あなたなんか知らないわよ」って言われたら困るだろう。家に帰ったら玄関が勝手口になっていて、しかも帰ったときの家族の挨拶がどうしてか「いってらっしゃい」じゃないと通じなくて、これが毎日ランダムに変化したら困るだろう。

おそらく普通の人々はこういうのも理屈が成り立っているからこそなのだといつも思ってはいない。しかし「われわれの世界はこういうふうになってるんだよ」というのもある種の理屈であるのは明らかで、そこには一貫性が必要で、私たちは毎日このような世界に、理屈に大きく依存して、生きているのである。
そしてつじつま合わせにやっきになる。これも一貫性の確保が決定的に大切であることにみんな(暗黙であっても)賛同しているからである。つじつまがあっていないと、いままで理屈だとして通ってきたものが実はそうじゃないんじゃないかという懸念が生じる。信じられなくなる。信じてたものが役に立たなくなる。一貫性があってこそ、理屈が役に立つ。そうじゃないと理屈を振りかざす意味がない。そして、世にはびこっている山のような理屈は、それが一貫していることがあまりにも当たり前すぎて理屈だと意識されずにいるのである。

ここまで言えば十分だろう。この種のわれわれの日々の生活を支えている理屈は、否定できない。否定すると、われわれは人間ですらいられなくなる。そして、そのコアは一貫性にあるのだから、同じ問題であるのにあるときは理屈を適用して、あるときは適用しない、なんてことはできない。そんなことをすると理屈を放棄してしまうことになる。
だから、理屈を「恣意的に」拒否するのはわれわれには無理である。正しい理屈、正しくない理屈、というのはあるだろうが、正しい理屈はその言及対象についてはいつ何時も正しく、適用されなければならない。恣意的な理屈の適用を許してしまうと、われわれの信じるものはすべて戯言になる。あなたは自分の持っているお金が恣意的に無価値な金属と紙のガラクタになって構わないのか?

さてここで、もう一度日常的な言葉の問題に返って考えてみよう。一貫性のない言い分は理屈とは呼ばないのか?いやそんなことはない。一貫性がないときでも「理屈」って使いそうだ。そのときの「理屈」は、へりくつと呼ばれることもある。そう、これが理屈の多義性の正体である。どの日本語の辞書を見ても「理屈」の欄にはこの2種の意味が載っているはずだ。で、へりくつがいったいどういうものかというのは、あまりに複雑でここでスパッといいきれるものではないのだが、簡単に言うと、上に述べた本来の理屈が何らかの理由で正しくない(一貫性にかける、適用対象を誤っている、など)とみなされているときに当てはめられる言葉だ。正しくない理屈。これについては研究中なのでもうしばらくお待ちを。

「理屈では片付けられない」と言い放たれるときは、その人にとって、理屈はそんなふうにいつ何時も適用されなければならないものとはみなされていないかもしれない。もしそうなら、これは誤り。理屈はいついかなる場合も成り立っていなければならないことは認めつつもその適用対象を誤っている、という意味で言っているなら(それだと日本語が少し変だが)まあ話にはなっている。で、それが適用対象を誤ったへりくつであればよいのだが、そうなのかどうかは落ち着いて考えてみればわかる。どう考えてもその事態がその理屈の守備範囲ならば、そこであがくのは辻斬りである。

理屈というのは、どうにかなるとかならないとかの話ではない。その適用範囲においては一貫して正しいとされるものが理屈である。
「それはそうなんだけど・・・」は、言ってしまった時点でアウト!

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お魚

金子みすゞさんの有名な作品「お魚」を読んでみてください。数行なので。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/misuzu0,.htm
 ほんとはここに載せたいんだけど、なぜか彼女の作品は50年以上
 経っているのに特別に著作権が守られているらしい…。

いかがでしょう。
あなたも海の魚はかわいそうだと思いますか?


・・・私は逆だと思うのですが・・・。

あえてどちらがかわいそうかを考えるなら、
海の魚よりもお米や牛や鯉のほうがかわいそうです。
だって生かされているんだもの。

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発達

人間科学の分野にて、英語の development という単語が使われるのもあんまり好きじゃないんだけど、日本語の「発達」はもっと好きじゃない。

なぜって、「達」は、目標点があってそこに行き着く、という意味の語ですから。
これは、人間変化の見方を如実に表しているわけで、かつ、その見方は私観とマッチしないんです。

人間の変化の目標点っていったい何ですか?

developもなんだかなぁ。
この概念と用語のgapの問題はevolveのそれと似たようなところがあるね・・・。

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「心の理論」研究

昨日ある院生が研究室で「『心の理論』研究者が『心の理論』使ってていんですか?」と言っていた。発言の要点は「心の理論」研究に内在する再帰構造にある。
「人々が『心の理論』を持っている」という学者の信念がまさに心の理論を適用していることになっているのであって、その院生の心配はおそらく、「それでは『心の理論』を検証していることにならない。循環論になっている。研究者にとって、どうやら、心の理論は検証対象ではなく、心の理論の存在は前提されているものだ。」ということだ。

この話の構造を注意深く見てほしい。

そのような再帰構造は、認識論的な事柄に関わる話ではよくあることだ。「心の理論」研究に特化された特徴ではない。循環論的な構造もよく見られる。
ただ、循環論がすべて悪いかというと、そんなこともないと私は考えている。循環論であるというだけですべてを否定するのは性急だ。まあ、この場合は循環するのはまずいので、なにかツッカエ棒が必要になる。
ほかの再帰構造を持つ例を考えてみてほしい。たとえば「意味」とか。それらの概念をすべて否定してしまうと、いったいわれわれに何が残るというのか。つまり、人の認識に関わる研究をするためには、いくつか前提が必要なのである。一種の公理系と考えてもよい。それなしにはおそらく何もできないであろう。そういう訳で、「心の理論」研究者は、いやそれだけでなく現代の多くの心理学者は、「心の理論」をこの前提セットに組み入れることで、この問題を回避する(ことができる)。
もちろん組み入れない学問も可能である。そして、公理系に立脚する学問の基本的ドグマとして、公理はできるだけ少ないほうがよい、という例のアレがある。よって、「心の理論」を前提に入れる研究者は、それが前提されなければならない理由に関して正当化しなければならないのである。
まあ、実際そんな話を心理学者から聞いたことは私は一度もないのだが。

どうも特に日本のふんぞり返っている心理学者たちというのは、海外で認知革命が起こって以後フヌケになったのか、その意味をよく理解していないのか、こういう点でまったく議論ができていない。そんな人たちに習う学生もかわいそうだ。


ところで、私は「心の理論」という語ではなく「通俗心理学」を好むんだけども、先日、これまた別の院生(「心の理論」を専門にしている)に「『心の理論 theory of mind』と『通俗心理学 folk psychology』ってどう違うの?」と聞いたところ、「そんなの(そういう難しいこと)聞かないでください」だって。およよ。

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院生のいきさつ

私は何年か前、大学院の院生になってみた時に1つの仮説を得た。

院生には2種類いる。
自分のやりたいことが何なのかをきちんと考えて就職することをリジェクトした人。
自分のやりたいことが何なのかを考えるのに失敗して院に入ってしまった人。

前者は目標認識に成功、後者は失敗。

これだ、圧倒的な温度差の原因。
日本全国の院生を調べればかなりきれいに2つに分かれる気がする。
外国ではたぶんそんなことはないだろう(外国の情勢は知らないからなんとも言えないんだけど)。

私がほかのところでウザいくらい言っている、日本社会のunbelievableなところ。
 「目標認識に失敗」
一方、よくあるからまだ理解できるのは、
 「手段認識に失敗」
こっちは行動科学でもいろいろ研究されているし、サポートの方法なんかもいままでたくさん考えられてきた。
前者は・・・いったいなんだ?研究不足だな。
下位目標の認識の話なら、手段認識の話からつながるんだけど、そもそもrootの認識に失敗するって・・・。

私のやってる目標追求の研究っていくぶんここにも関わるんだよね。
だからおもしろいのかも(と自分では思っている)。
まあ、だからって、日本社会をあれこれする気はぜんぜんないんだけど。

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講談社現代新書の装幀

講談社現代新書の装幀が変わったのはなぜか?

参考ページ
http://kaze.shinshomap.info/interview/04/01.html
http://aruhenshu.exblog.jp/492594/

以前
http://shop.kodansha.jp/bc/books/gendai/
にあった「お詫びと訂正」はよくわからなかった。
まあ、大人の世界とはそういうものだ。

しかしまあ、あれだといかにも教科書って感じがするのは私だけ?
前のもあんまり良いとは思ってなかったんですがね・・・。
学問を専門とする人から見ると受けはいいのかもしれないけど、一般の人はどうなんだろう?

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時間知覚

人間には確実に体内時計が存在する。

驚くほどのことでもない。
そうでなければ時間知覚などできないのだから。
ここで言う体内時計というのは、時間を知覚するときのモノサシという意味である。それがどんなものかについては今のところ実証的証拠は無いに等しいけど。このモノサシと比較して(=体内時計を基準に)、どのくらいの時間経過なのかを感じるのである。
この点はまさに「比較と認識」において述べたことと同じ。基準がなければどうしようもない。しかもこの場合、五感の土俵に乗せられるような比較ではないので、精度もわかりようがない。五感どころかすべての感覚に密接にリンクした土台が時間知覚であるから、この議論はある意味、的外れかな。意識の世界は常に(内的)時間認識の線路を走っている。なぜだかはまだわからないが。
さらには、モノサシがゆがんでいても知りようがない(これは他の認識にも共通だが)。

その時計はおそらく体内物質の乗っかる物理的な時間系に依存しているであろう(単なる推測)。
もしその体内物質の時間系と体外の時間系が同一でなければ(そんなことがあるとすれば)、場合によっては困った時間知覚をしていることになる。まあそんなことは考えても無駄だけど。
そして、その系に依存しているからこそ、逆方向には進めない。

昔、「この世界には時間があるという認識(=時間知覚)と意識は表裏一体だ」と言った事があるが、それを聞いた人はその真意をおそらく理解していないだろうなあ。
時間知覚が意識と関係していることは上記にもあるとおり。時間が流れている「感じ」がなければ、時間がわれわれの言及対象となるはずがない。時間知覚のない生物はありうるだろうが、その生物は時間を「知らない」。物理的「変化」というのは時間軸があるからこそ言える話なのだが、生物が変化にいかようかは問わず対応する(因果関係を持つ)のは時間知覚がなくても可能である。システムがそうなっていればよいだけ。知覚はそれとは別の問題で、だからこそこれは認知科学において意識の中心的問題と似たような、というかど真ん中の、特徴を持つはずなのだ。
逆に、意識は時間知覚がないと成り立たない。というか、意識とはそういうものだ。時間的継続に基づかないものは意識とは呼ばない。そこに意識がある、とわれわれが言う場合、その人は時間的継続の認識を持っていることを含意している。例はすべてとても当たり前だが、たくさん挙げることができる。たとえば、さっきの私と今の私は同じだと思っている、とか。こんな当たり前のことを考えていくと、時を知らない意識がありえないことが分かってもらえるだろう。意識とはそういう概念だ。
こうして見事、意識と時間知覚は切り離せなくなる。つまり片方だけ持ってもう一方は持たない個体はありえない、と。

時間軸上の移動なしに意識を認められるかどうかという問題はまた別である。スタープラチナが能力を発動させたときのように、時が止まった世界を考えてみよう。そこにはモノは存在するだろう。われわれは物体というのをそのように考えている。人を構成する物質ももちろん同様。しかし、そこにいる人型のそれに意識があると果たして思っているだろうか。これが時が止まった世界での意識の問題。時間知覚のほうの問題は、時間軸上を移動している場合に移動しているという認識のない意識がありうるかということだ。

「おまえは同一性問題と意識を同一視している」とつっこまれるかもしれない。たしかに意識にはいろんな側面がある。もちろん、経時的同一性の認識を欠いた意識なるものもありうるのかもしれない。でも、それって何?少なくともわれわれの知っている意識とは別物である。で、それをわれわれは(言わば間主観的に)認めようがない。つまり、「認識の限界」で述べた「知りえないこと」である。要するにそれを意識とは呼べないのだから、時間知覚を欠いたものの意識は意識とは呼ばず違う呼び方をするほうがよい。で、時間経過を知ることを意識の要件に入れる、と。

脳の損傷か何かで、時間知覚ができなくなった人って実際にいるのだろうか?時間知覚の物理的基盤はまだ明らかではないので、時間知覚は不可分かもしれないし、そんなことが可能かどうかわからない。仮に可能だとして、もしそういう人がいれば、私の言っていることがすぐにわかってもらえると思うのだが。そういう人はもちろん、人間的ではない。すべての認識はバラバラになる。過去と現在が同じテーブルにつく、とかいう話ではない。それはすでに記憶理論に乗ってしまっている。バラバラというのは、現在がわからない、ということだ。言うならば、知覚が崩壊する。

時間知覚が、単一のシステムなのか、モダリティ固有システムの集合なのかはまだわからない。まあしかし、先のように時間視覚と意識は切り離せないので、時間知覚がモダリティ固有なら、意識もモダリティ固有だと考えてもよい可能性が出てくる。絶対にそうなるというわけではないが。

まあ、どういうことだか、われわれにはKantが挙げたようないくつかの根本的な直観があって、時間もそのひとつで、こいつは困ったことにわれわれの心的世界を覆い尽くしている。

時間なしに心はありえない。
心を認めるなら、時間を知ることも認めなければならない。

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