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理屈

「世の中には理屈ではどうにもならないことがあるのよ!」

・・・何度この言葉を浴びせられたことか・・・。

いやぁ、そりゃまあ私がいわゆる「理屈っぽい」人であることが一役買っているのは間違いないのだろうが、ことはそれで片付く問題ではない。「理屈っぽい」が意味していることをきちんと考えて敵なのか味方の志士なのかを見極めないと、一刀両断はできないのだよ。そうでないとあれこれかまわず切りつける辻斬りになってしまう。

こういう言葉を吐く人は、たいがい理屈の意味を履き違えておる。そして世の多くの人がこういう言葉を吐くpotentialを持っている。つまり、ほとんどの人は理屈というものがどんなに自分たちの眼前の世界と常識に身を潜めているか気づいていない、というか、見抜いていない。すなわち辻斬りであるかもしくは辻斬りになる素養を持っている。この意味がわかると、「理屈」が複数の別々の事柄をカバーする言葉(すなわち多義語)であって、さらには、それらを全部否定するのは人間として無理だ、ということが見えるはずなのだ。

順を追って説明しよう。

「理屈ではどうにもならない」とか「理屈では割り切れない」といった場合、その場では何が起こっているのか。まず、何らかの理屈が提示なり想定されているはず。で、当の問題をそれによって白黒つけるのに満足いかない、ということを表現するときこう言うのだ。そして多くの場合、これには感情的表現が伴う。まあ、大きな声を伴っていようが、眉間にしわが寄っていようが、両腕に力が入っていようが、そんなことは話の内容とは関係ないのでどうでもよい。怒鳴ってようがおっとりとしゃべっていようが、まともなことを言っているものはまともだし、間違ったことを言っていれば間違っているのだから。聞き手がどのようにそのおまけの言動に影響を受けるかは確かに別で重要だが、今は説得の話でなく事実の話をしているので、余計な側面は切り捨てよう。

提示された理屈に満足しない場合、かつ上のような言葉が出る場合、その理屈は正しいことを言っている、あるは欠点がない、ということがおおよそ認められているものだ。ならばなぜそこで満足しないかというと、感情的に、あるいは自己利益的に、うれしくないからである。そりゃあ、正しいこと、と、自分が楽しいこと、は必ずしも一致しないんだから(だからこそみんな人生を悩んで過ごすわけで)、そういう気分になるのは当然だろう。
で、「あなたの言い分は正しいけれど、何もかも理屈でうまくいくわけではない。理屈をはずれてやってかなきゃならないときもある」みたいなことになる。しかもなんだかこの言い分は、通俗的に正当化されているようだ。テレビドラマなんかでも、主人公がキメるシーンで言ってたりする。

問題は、状況に応じて理屈を否定するという抜け道が取れるかどうか、である。この種の言い分は、要するに、理屈で片付けるときと、理屈を適用せずに自己中心的、主観的な感情的判断の適用によって片付けるときを、使い分けようと言うのである。そういう理屈の使い方が可能なのか、ということを問わなければならない。果たして理屈とはそういうものなのか。まあ「そういうものだ」と断言できると思っているからこそ上のような言い分が通っているわけで、わかってもらうにはもう少し噛み砕く必要がある。

理屈が理屈たるエッセンスは、一貫性である。だからこその理屈なのである。好きなとこに好きな場所で好きな相手でコロコロと理屈の内容が変わってOKだったら、そんな言明は理屈のパワーを持たない。何を信じてよいのかわからんのだから。一貫性があるからこそ信じられる。役に立つ。それが理屈である。ある日コンビニで500円玉を渡してお弁当と交換してもらったのに、5分後に行ったら交換してもらえないとか500円玉を500個要求されたとか、隣のコンビニではその500円玉は使えない、では困るだろう。ある日に飛行機が飛ぶことを可能にする自然の理屈(摂理)が次の日になって変わっていたら困るだろう。ある時「カサ取って」と言うと傘を渡してくれたのに、次の瞬間に「カサ取って」と言うと電子レンジを渡されたのでは困るだろう。さっきまで会社の従業員だったのに、いきなり次の瞬間に「あなた誰?あなたなんか知らないわよ」って言われたら困るだろう。家に帰ったら玄関が勝手口になっていて、しかも帰ったときの家族の挨拶がどうしてか「いってらっしゃい」じゃないと通じなくて、これが毎日ランダムに変化したら困るだろう。

おそらく普通の人々はこういうのも理屈が成り立っているからこそなのだといつも思ってはいない。しかし「われわれの世界はこういうふうになってるんだよ」というのもある種の理屈であるのは明らかで、そこには一貫性が必要で、私たちは毎日このような世界に、理屈に大きく依存して、生きているのである。
そしてつじつま合わせにやっきになる。これも一貫性の確保が決定的に大切であることにみんな(暗黙であっても)賛同しているからである。つじつまがあっていないと、いままで理屈だとして通ってきたものが実はそうじゃないんじゃないかという懸念が生じる。信じられなくなる。信じてたものが役に立たなくなる。一貫性があってこそ、理屈が役に立つ。そうじゃないと理屈を振りかざす意味がない。そして、世にはびこっている山のような理屈は、それが一貫していることがあまりにも当たり前すぎて理屈だと意識されずにいるのである。

ここまで言えば十分だろう。この種のわれわれの日々の生活を支えている理屈は、否定できない。否定すると、われわれは人間ですらいられなくなる。そして、そのコアは一貫性にあるのだから、同じ問題であるのにあるときは理屈を適用して、あるときは適用しない、なんてことはできない。そんなことをすると理屈を放棄してしまうことになる。
だから、理屈を「恣意的に」拒否するのはわれわれには無理である。正しい理屈、正しくない理屈、というのはあるだろうが、正しい理屈はその言及対象についてはいつ何時も正しく、適用されなければならない。恣意的な理屈の適用を許してしまうと、われわれの信じるものはすべて戯言になる。あなたは自分の持っているお金が恣意的に無価値な金属と紙のガラクタになって構わないのか?

さてここで、もう一度日常的な言葉の問題に返って考えてみよう。一貫性のない言い分は理屈とは呼ばないのか?いやそんなことはない。一貫性がないときでも「理屈」って使いそうだ。そのときの「理屈」は、へりくつと呼ばれることもある。そう、これが理屈の多義性の正体である。どの日本語の辞書を見ても「理屈」の欄にはこの2種の意味が載っているはずだ。で、へりくつがいったいどういうものかというのは、あまりに複雑でここでスパッといいきれるものではないのだが、簡単に言うと、上に述べた本来の理屈が何らかの理由で正しくない(一貫性にかける、適用対象を誤っている、など)とみなされているときに当てはめられる言葉だ。正しくない理屈。これについては研究中なのでもうしばらくお待ちを。

「理屈では片付けられない」と言い放たれるときは、その人にとって、理屈はそんなふうにいつ何時も適用されなければならないものとはみなされていないかもしれない。もしそうなら、これは誤り。理屈はいついかなる場合も成り立っていなければならないことは認めつつもその適用対象を誤っている、という意味で言っているなら(それだと日本語が少し変だが)まあ話にはなっている。で、それが適用対象を誤ったへりくつであればよいのだが、そうなのかどうかは落ち着いて考えてみればわかる。どう考えてもその事態がその理屈の守備範囲ならば、そこであがくのは辻斬りである。

理屈というのは、どうにかなるとかならないとかの話ではない。その適用範囲においては一貫して正しいとされるものが理屈である。
「それはそうなんだけど・・・」は、言ってしまった時点でアウト!

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