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2005年9月

白いカラス

帰納推論の正当化不可能性を示す例としてよく挙げられる白いカラス。

黒いカラス(個々の事例)ばかりを繰り返し観察したことから、「カラスは黒い」という一般命題を導く。
これが帰納。

しかしこの推論は論理的に妥当な推論ではない。すなわち、これまで観察したカラスがすべて黒かったからといって、以後に観察するカラスもすべて黒いという必然性はなく、次に観察するカラスはもしかすると白いかもしれない(その可能性を完全に否定できない)。よって帰納によって導かれた「カラスは黒い」という一般命題は常に真である保証はない。

こういうのが帰納批判として登場する白いカラスの話。

さてさて、昔、帰納推論の研究をしていたときにふと思いついた、この帰納批判論法への反論ネタを紹介しよう。

これまでに観察したカラスがすべて黒かったとき、われわれは「カラスは黒い」という一般命題が真だと言ってよい。なぜなら、この場合、「カラス」と言われているのはこれまでに観察したカラスであるはずだからだ。命題が特殊ではなく(個別的ではなく)一般的だと言っても、その範囲(観察した範囲)にしか一般化していないし、し得ないことになる。というのも、白いカラスの存在を否定できない以前に、観察した他にカラスが存在するということすら論理的保証がない。
では、命題「カラスは黒い」の「カラス」にはこの次に観察するカラスは含まれていないのか?Yes、含まれていない(含まれるべきではない)。よし、ならば、この次に観察するかもしれない黒いカラスのような鳥はいったい何で、われわれはそれをどう認識すればよいのか?心配ない、それは新たなカラスと言って問題ない。これまでに観察していないカラスの事例を新たに観察した時点で、「カラス」の外延は拡張される、すなわちわれわれが「カラス」として指すものが改訂されるのである。であるから、日々観察を続けるにつれて、「存在が確認されたカラス」の数と「黒いカラス」の数は常に同数で増えていき、その限りにおいては(=新たなカラスが白いカラスでない限り)「カラスは黒い」という命題は常に真である。

要するに、導出された一般命題の指すものが、まだ観察していない(存在するかどうかもわからない)対象にまで広がっていると捉えているのが誤りである。

さてそれは帰納か(笑)少なくとも一般に認識されているような意味での帰納とは別物だな。これは abduction と induction の違いについての問題と絡むだろう。

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EXPO2005

「本当に大切なことを考える」運動の一環として、愛・地球博に行ってきました。

暑かったですが、歩き回ってかなり充実した時間をすごさせていただきました。
まあNPOのにーちゃんたちと長話してそこで時間を食ったわけですが。

押井さんの作品はびっくりしました。アリーナで見たんですが、ほかのアリーナ客はみんな隅っこのほうで見ているので、なんだかディスプレイの上に立っている私だけのために上映されているような気分に陥ってしまいました。250人のみなさん、ごめんなさい。私は押井映画のあの川井憲次さんの曲調が好きなので、テンションアップ。しかし押井作品の訴えるテーマというのはいつも私にとっては日々考えていることだから刺激度が高くないので、その点は割引かな。

アンドロイドもよかった。しゃべりはアニメだけど。前に石黒さんのところで見たときはあんなに実践的な動きをしなかったから。横の本物のおねえさんもロボットだと思った子がいるかもしれない。
あ、この表現でロボット観があらわれてしまってますね・・・。

それにしても日本人は悲しい。

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構成概念と素朴概念

今年の日心の中では、WS「“動機”概念の再検討」がかなりよかった。さすが村山さん。お疲れ様です。

これに触発されて、心理学における構成概念constructについて持論を述べてみる。
WSでは動機が扱われたので、私もこれを題材にしてみよう。

心理学では、建前上、構成概念は観察可能な現象を説明するために措定されるもので、実在性は問題にされない、となっている。すなわち、それが現実には存在しないものであっても、それを導入することで説明が上手くいくなら、理論の構成要素として認めましょう、ということだ。
で、この「動機」とか「思考」とか「記憶」とか「情動」とか「意識」といった心理学理論に登場するほとんどの概念は構成概念とされている。
するとこれらは「実在しなくてよい」とされているということだ。
果たして、皆さんはそれで納得するか?市民だけでなく学者の皆さんも含めて。
記憶や意識は「実在しなくてよい」のだよ?
まあ自分に正直な人なら納得しないだろう。

よくよく立ち返ってみると、市民は、われわれが日常的に動機とか記憶とか呼んでいるものを説明してくれることを心理学者に対して望んでいるわけだ。
そして心理学者も構成概念を導入するときにこのような通俗心理学的概念をベースにしている。そうでなければ「動機」なんて概念が行動理論に入り込む余地があるはずがない。
要するに、日常的な心的概念が説明されることがひとつの目標であり、行動が説明されることももうひとつの目標であり、これらを両立させようとがんばっているのが現代の心理学者なのである。
よって心理学における「動機」などのいくつかの構成概念(すべてではない)は、先ほどの建前を遵守できない。純粋に、観察可能な現象(行動など)の説明のための必要性の観点のみから導入されたものではないからである。
したがって、そこにおいて「構成概念だから」と実在性の検証から逃げるのは間違っている。

そして実のところ、心理学における構成概念は(実在を信じられている)素朴概念を切り離してはほとんど解釈できない。思い浮かべてみてほしい。心に関するわれわれの直観的な観念を認知科学的な探求の場からぬぐい捨てると、いったいどれほどのものが残るというのか。例えば、日常的な心的概念と結びつけにくくするための簡便な方法として、理論的な用語を定義はそのままに無意味綴りに変換してしまっても、今ある心理学的理論はまったく同様に理解されるだろうか?
素朴な心の概念を探求の場からぬぐい捨てたのは行動主義である。しかしそれは素朴な心的概念だけでなくシステムの内部を説明する概念のほとんどすべてをぬぐい捨てた。それはやり過ぎだったと立ち戻ったのがいわゆる認知革命である。だが呪縛からはそう簡単には逃れられない。われわれは何もないところから何かを考え出すことはできず、新しい概念であろうとも何かそれ以外とのつながりがなければならず(そうでなければ「理解」できず)、こと、人間の行動システムを説明するにおいては素朴な心的概念がつながってしまいやすいようだ(つながるのがそれでなければならない必然性はないのに)。

これは心理学のみに特有の問題ではない。物理学でも生物学でも同様の問題は存在する。なぜなら、われわれはこれらの学問が扱う眼前の出来事について素朴な直観をもってその認識にあたっているからである。それ(素朴概念)をベースに、それをどんどん改訂していくかのごとく、研究は進んでいく。しかし、今になっても、発展した物理学においてさえ、素朴概念はすべて駆逐されてはいない。なぜならそれは不可能だからだと私は見ているが、とにかく実態はそうなのだ。
もちろん、純粋な構成概念(実在性を問われない、あるいは否定されているもの)もある。説明上の有用性のためだけに生き残っていると見なせるタイプのものだ。そういう概念のいくらかは、要素の集まりが創発的特徴を生み出す系に関しても見られる。

しかし、ここで最初に取り上げた場合においては、すなわち心理学の構成概念の多くにおいては、それはまず素朴概念ありきで出発しているので、「実在しなくてよい」と簡単に片付けることは難しい。素朴人はそれが実在すると思っているのだから、このことに言及した明確な説明が必要だ。この説明をきちんとしている心理学者もいるが、心理学界全体として整合が取れているとは言い難い。
まあ、この素朴概念とやらも「構成されている」と見る人もいるのだが、どっちにせよ、日常的な心的概念と直観を説明することへの要求を、明示的にではなく「暗黙的に」退けてしまおうというのは、誠実な態度とは言えない。それが原理的に説明できないとするならそれを明白に言うべきだし、そうでないなら説明対象に入るはずだ。

心理学者は「意識」や「動機」や「記憶」が「実在しなくてよい」と考えているなんて言ったら、市民だけでなく神経科学者や哲学者などの認知科学同業者もびっくりするだろうよ。

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Kanizsaは実験現象学者であり画家であった

学会最終日。

「Legacy of Kanizsa」はおもしろかった。話し手がとってもGOOD。そうすると次第に内容もおもしろくなってくる。
俺もああいう風に話したいなあ。もうそうなっているというツッコミはなしよ。自分では満足にしゃべれていないので。
いっつも余談で話が長くなるところを改善しなければ。しかし話したいことを存分に話せないのはつらいものだ。

そうそう、なんか質問の声が冷たく聞こえてつらかったのは俺だけ?

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進化は論理、合理性は?

日心中日。

WS「合理性の分化と統合」で、時間軸が入ると厄介になる、すなわち、短期的な合理性と長期的な合理性の間に統合に対する障壁の実質がある、というコメントが出たが、それは誤解だと私は思う。
コンフリクトを生み出しているのは目的の体系だ。複数の目的を同時に考えようとしたときに問題が起こる場合があるのであって、時間軸でずれているからというのは本質的ではない。これは合理性が目的と密接に絡んでいるという以前書いた話と関係する。

それと、ダーウィニアンな進化の原理と進化心理学的合理性をごっちゃにしてはいかん。ぜんぜん合理性の話になっていない。まあ当人も「進化は論理」という話で趣旨とずれるかも認めているので批判ではないのだけど。「進化は論理」について長谷川&長谷川(2000)を引用していたが、そんなことはもっと前からみんな言ってる。何の斬新さもない。教科書的な本でも、たしかMaynard Smith(1986) (邦訳は1990)にも書いてたぞ。「進化は生物の基本的性質に関するいくつかの前提が真だとすればそこから出てくる論理的帰結である」みたいな表現で(手元に本がないからきちんとした引用でなくてごめんなさい)。前提もちゃんと列挙してた。
専門家なのだから「進化心理学的合理性とは何を指すか」を浮き彫りにしてほしかったなあ。これってぼやけてると思うし。

というのは、


  1. 進化の原理にしたがって(ヒトを含めた)生物全体が変化してきたこと。

  2. 進化の過程を経て現代のヒトに備わっているサブシステムあるいはモジュールがいくつかあって、今もヒトの行動産出にそれらが用いられていること。

  3. 現代のヒトに備わっている「すべての」機能(サブシステム、モジュールとそれらのセットによってもたらされる)は進化の結果として得たものだから、現代のヒトが働かせるどのような機能も適応的と考えること。


進化心理学的合理性の議論の中ではよくこれらがごちゃごちゃになっている。
私の個人的な意見からすると、明らかに3.は間違い(で、私は進化心理学者とケンカしてしまう)。
なぜなら、a)システムの全体性を考慮していない、また、b)適応度は環境との相対によって決まることを考慮していない。

動機WSについては白熱するので別記。

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心の統一科学をめざしたいなら

今年もまた学会ネタシリーズ。

初日は「心の統一科学をめざして」なんて大仰なタイトルのシンポに期待して足を運んだんだけど、ぜんぜん面白くなかった。知っていることとあたりまえのことを眠たく唱えているだけ。学部生向けの授業よりひどい。
まだマシだったのは最後の二人、安西さんと宮下さんかな。それも、内容ではなく話し方としてだけど。内容としておもしろかったのは西村さんのホメロスとピンダロスの話くらい。

結局、私が依然書いたところの「心学」を目指そうというのだろうけど(シンポやCOEプロジェクトの意気込みとしてはね)、統一的な方法論を考える、なんて言うときに、「心」を何とするかがみんなバラバラだから、何にもまとまらない。
心らしきものについてはこんなに長い学問の歴史があるのに、断絶を乗り越えて統一したいなら乗り越えるべきが何なのかをどうして理解しないのか?

心とは何かを考えるのにヒトはたくさん時間を使ってきたけど、何と考えるかに多様性があることはわかってるんだから、統一したいならその溝を埋めなされ。少なくとも私にはそれらの多様すぎる「概念」を統一するのは荷が重いと思われるがね。
概念が別種でも方法論が同じってことはあり得るだろう、ものによっては。しかしながら、ちゃんと勉強している人ならわかるように、これまでに提唱されてきた様々な心の概念はすべてを同じ方法論で研究できるものという見込みはとっても薄い。
んでこのタイトルだ。「統一科学」。すでに科学的方法論を取るって決めてるじゃないか! おいおい。これだけでもう反論が来そうだよ…。
つまるところ、「心理学の成功と心の概念の自己限定は表裏一体」(シンポジウムの概要より)という文句から察せられるように、この人たちがやりたいことは方法論の統一ではなく概念の統一ではないのか?

心の定義を提出せよ。
そうすればおのずと見えてくる。行動主義心理学者は(ある意味)そうした。
「それが最終的な目標なのであって、それは予めすることではない」と反論するなら、予めすることを明確にせよ。そうすれば暗中模索からは抜けられる。しかし、心の定義を一切抜きにして予めすることを決めると、そこから心の定義が形づくられてしまうことがわかるだろう。それでよいならそうすればよい。ただし、誰もが納得するわけではないものができあがることは想像に難くない。
そう、素朴な心の概念を抜きに「心学」の研究は語れなさそうではあるが、それは探求の範囲を毎回厳密に絞ることとは別である。概念をしっかり明確化することが実質科学的な進展につながることは科学者なら誰もが身に染みているはずで、そこで行われる概念の限定を狭窄と考えるのはおかしい。永遠にそれしか探求しないというわけではないのだから。

ただひとつ、いつも私が言っているように、概念をどこに着地させるかで、それを研究するために原理的に取れる方法が限られることを忘れてはいけない。

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故意の極論

私の言うことを全部真に受けてもらっては困ります。
真っ向から反論していただくのは結構なことで、どんどんやっていただきたいのですが、私がまるで敬虔な宗教徒のごとく私の発言内容を確信を持って信じていると思っていただくのは大きな誤解です。
議論を引き出し、要点を明確化するために、あえて極端な立場の人なら言うであろう意見を言ってみたり、突き詰めるとどうなるかを提示してみたり、こういうやりくりを故意にやっているのです。
こないだなんて思いっきり現象学的な意見を繰り出したりしましたが、それは私の立場がそこにあるのではなく、いろいろな立場に対するその人の反論を聞くことによって、その人の考えを明確化するためにやっておるわけです。私の放つ相対主義も、神経還元主義も、認知主義も、適応主義も、構成主義も、ここで書いているアイディアも全部そうです。

そんなわけで、議論の場で極論を持ち出すことが多いですが、実際のところ私自身の立場はかなり穏健です。しかしこれも、極論を考慮に入れ、それへの反論を見極めたうえでの穏健です。なんでもかんでも「ああ、それもあるね。それもおもしろいね。それも重要だね」って談合してる日本によくいる学者さんの穏健とはまったく異なります。

まあ誤解は慣れっこなんですが、それにしても誤解は減るほうがよいので。

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ググる

私がはじめて自分だけでネットに触れたのは1998年。そのころはまだGoogleは存在してなくて、検索にはYahooとかinfoseekとかgooとかその他いろいろを使っていた。全部の結果を出してくれるフォームみたいなのも作った気がする。

そうしてしばらくしてGoogleが世に出た。99年だったかな。英語しかなかった。それまではYahooが(私の経験としては)一番よい情報を得られていたのだが、Googleを使ってこれは!と思った。当たりすぎる。しかし、重箱の隅をつつくような情報を欲している私としてはそのほうがうれしかった。インターフェイスがとってもシンプルで(今よりももっと!!)、その点にも好意的だった。個人のサイトもすでに山ほどできていた時代で、職業柄もあり、探しているレアな情報はGoogleにしか載ってこないことが多かった。後に日本語版がスタートしてからはもっぱらGoogleがメインエンジンになった。(ご存知の通り、その後Yahooもこれを採用することになるのだが。)

私がはじめて「ぐぐる」という造語を使ったのは確かネット上ではなくverbalな場だったと思う。だから、とくにそこで発音されている音がカタカナなのかひらがななのかということは考えていなかった。それは後にネット上のコミュニケーションで使うときにはじめて考えることになった問題。最初にこの言葉を考えたときは、単にマイブームのGoogleエンジンで検索する、ということを指していた。最初に使ったときは、「は?」と言われた。そりゃそうだろう、今私が作った言葉なんだから。もちろん、話し相手はGoogleのことを知っていたから、説明すれば意味はすぐに通じた。まあ、この現代若者日本語風の略語は相手には落ち着かない印象を与えたと思うが。

その後、Googleの知名度は一般市民ネットユーザ全域にまで広まることになり(要するに売れた)、Googleは単に一学者が好んで使う投網ではなくなった。個人がネットに流す文章の量もますます膨大になって、私はこの、でっかくなっちゃった「ぐぐる」にさらに皮肉をこめるようになった。
あまりにたくさんヒットさせて情報量過多、という情報工学/人工知能研究が実用的に人間頼りから抜け出せない現状に対する皮肉と、それによってそこであらわになってしまう現代ネットコミュニティ参加者のおバカさという社会科学的な皮肉を両手に掲げた上で、そういう検索エンジンをつかって検索結果を得ることを、代表的エンジンの名を借りて「ググる」と呼ぶようになった。第2の意味として。要するに、派生の「ググる」は「おバカ丸出しエンジンで検索すること」というアイロニー。

同じようなことを同時期に考えたやつはいるだろうから、厳密に私が最初かどうかはわからないが、少なくとも最初に「ググる」という言葉を使い始めた人間の一人は私である。もしかすると本当に起源かもしれないが、今となっては知りようもない。

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