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学校

また極論を書きましょう。
なるほど、
「学校とは道具の使い方を教える道具である。」

「学校とは道具の使い方を教える場である。」とも言えるときもあるが、つまるところ「場」は「道具」であるので、
「学校とは道具の使い方を教える道具である。」

「学校では道具の使い方以外も教えてるんじゃないのか?」ほう、それはありそうな意見だ。しかし、答えはノー。学校は道具の使い方しか教えない。もっと言えば、「道具をうまく使えるように矯正する」のが学校だ。あえて「学習」という言葉を使わず「矯正」という言葉を使うのがミソ。体育や音楽や美術に限らず、漢字の暗記だろうが、計算の仕方だろうが、町の歴史探索だろうが、全部道具の使い方を教えている。わからなければ反計算主義の急先鋒たちの主張を勉強しなされ。何を教えようとも、
「学校とは道具の使い方を教える道具である。」

道具の使い方を教えるのだが、しかし、「うまい」使い方を教えるのではない。ただ、ある1つの使い方を教えるのである。それが一番よい方法なのかどうかはあまり関係ない。教えたいものを教える。むしろ、どの使い方を教えたいかは「歴史と伝統」によって影響を受けているところが大きい。
「学校とは道具の使い方を教える道具である。」

学校は「生き方を教える」のでもない。これは、この手の話にのっかる、よくある誤解だ。生き方は教えてくれない。道具の使い方は教えてくれる。限られてるけど。それが学校。
「学校とは道具の使い方を教える道具である。」

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