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2006年1月

グチャグチャを作る

いきなりだけど、グチャグチャを作るのが芸術のやってきたことだと思う。きれいなものを作るのではなく。
ヒトの認識能力は自然に規則性を抽出する傾向があるから、それを崩すとおもしろく感じる。あるいは、感情をおぼえる。
現代アートはまっすぐをつかうけど、これもたぶん別の規則をviolateしている可能性がある。

実は、グチャグチャが自然の本質なのでは。芸術はそれをかたどるのではないか?ヒトはグチャグチャなものを過度にグチャグチャでなく感じていて、世界は秩序的だと思っているけど、実は相手はそうではなくて、しかも人間はその相手にアプローチするようにできているから(そうしなければならない)、そのこと(グチャグチャ)に感銘をうける。という側面はないかな?芸術学ご専門の皆さん。

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進化心理学の見極め

「○○さん、進化心理学ってどうですか?」という、いかにもな三流質問に答えてみる。

以前にも書いたが、進化論的な視点は、進化心理学者を標榜する研究者に限らず誰しもが持つべき、つまり(各分野の研究テーマを縦糸としたときの)横糸な、次元である。
この視点については、理論を作るときにそこから外れないように注意しておくべきもの、ガードレールのようなもの、としての役割は同意できる。しかし、それ以上のものを期待できるかどうか、すなわち、ダーウィニアンな原理や適応を考察の中心にもってくる研究が、そうしない研究には不可能なような理論的発展をもたらすことができるかについては、はなはだ疑わしい。
というのは、進化心理学的アプローチが優位性を持つためには、進化的原理から演繹的に仮説を導くことができて(これはこのアプローチをとる人が売りにすること)それが実験によって実証された、というようなことが行われる必要がある。これはすばらしいし、そんなことに成功している研究があれば私も万歳三唱だ。しかし、単に実験結果について(後付け的に)進化的な風味をつけて解釈するだけの研究は、他のやり方に比べてまったく生産的な部分がない。
たとえば、「こういう特徴は適応的だからヒトが持っているんだ」みたいなことを堂々と書く人がいるが、適応というのは環境と相対であるから、環境を特定しなければ適応的かどうかなんて考えようがない。そしてそんなもの(当時の環境)を明確にあわせて打ち出している人は滅多にいない。結局、日常的なある種のCHR説明と似たような、証拠のない推測で終わる。
そういう解釈はようするに歴史学と同じく過去に関して物を言うわけで、現在の「人間」についての新しい知見をもたらさない。そうではなく、もし進化心理学によって専売特許的な新しい知見がもたらされるとすれば、その研究には進化的視点がなければ見つけようがないような現象を予言するなどの面があるはずで、昔話はどうでもよく、進化的考察からは過去ではなく未来についての仮説を導くことが必要になるのだ。
よって、この「厳密な」ダーウィニアン・アプローチをとるもの以外の進化心理学は私は認めない。それらはただ現場を混乱させるだけの無用なお話屋さんである。心理学には必要ない。
そして、当の「厳密なダーウィニアン・アプローチ」についての私の評価はどうかと言うと、これはこれで見込みが薄い。進化的考察から他では出てこないオリジナルな予測を導くという作業は、他にもまして困難なように見えるからだ。もしこのアプローチで成果が出たらそれはすばらしいと思うが、学生にはお勧めしない。道程の困難さに釣り合った収穫が得られる可能性は極小だと思われるから。なにより、そのへんの心理学者以上の知識と理解が要求されるから、優秀な学生にしか不可能。

ということで、進化心理学は秀でたバクチ打ち以外にはおすすめしない。それ以外の人はボロが出ないように自分の心理学研究で進化論的な言葉を口にしないのが賢明。

私は進化心理学というものを初めて聞いたときからずっと変わらずこのように考えているので、進化心理学に対する私の見解を誤解していた人は改めてください。

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抑制の機能と過程

シンポに先立って持論を述べちゃうシリーズ。

抑制機能とその過程についてシンポが開かれるみたいで、抑制についての研究が脚光を浴びつつあるように見える。臨床心理との架け橋を期待しているみたい。

しかし、抑制とはいったい何なのか。

複数の可能性があるうちの、あるものを置いておいて、別の何かに集中するときに、置いておかれるほうが「抑制された」と呼ぶのか?もっと情報処理アプローチ的に言い直せば、複数の処理対象の候補となる情報があって、そのうちの一部の情報のみを実際に処理しているとき、処理されなかった分の情報を「抑制された情報」と呼び、そのような部分取り出し(あるいは部分囲い)過程を「抑制過程」というのか?あるいはさらに条件を加えて、置いておかれるほうが意識的にsalientである場合に、とでもするのか?単なる情報の選り分けではなく、意識にポップアップしてくるものをがんばって無視する、という現象を指すために。
だけどこの条件付加はまずい。なぜなら「無意識的抑制(あるいは抑圧)」なんてのも認めたいんだから。ならば、その過程が意識的かどうか、自覚しているかどうか、に関係なく、抑制が定義されなければならない。そうなると、上に書いた情報処理アプローチ的な定義あたりで落ち着かなければならなくなる。そしてこの定義的記述をよく見てみよう。これは何か特別なことか?他の種類の情報処理とは一線を画すような特徴が何かあるか?
そう、こういう風に定義されるなら、「抑制」は、情報処理体の活動一般に偏在するものであり、それなしには実践的な情報処理は不可能な、情報処理を考える上であたりまえの機能ということになる。だからぜんぜん新しくない。私がフレーム問題を引いて訴えていることと同じである。

こんな風に、情報処理において必須の「部分囲い」あるいは「対象制限」をもってして「抑制」と呼ぶなんてことをすると、なんでも抑制と呼べるようになってしまって、あるいはどんな心理学的テーマでも抑制が絡んでいるように思われてしまって、まったくもって無意味というか、非生産的である。
「抑制」を「部分囲い」と区別したいなら、定義にさらに修飾を加えて独り立ちさせる必要がある。するとその結果、それらの各派生体はまとめて「抑制」として扱えるものではなくなる。なぜなら、まとめて扱ったら共通部分である「部分囲い」に逆戻りしてしまうから。
対して、「部分囲い」をテーマとして扱いたいという意図なら、それはそれで構わないが、その場合は「抑制」と呼ぶのは適切でない。
(ああまたもやシンポに否定的な意見になってしまった。)

抑制とは何を指すのかあいまいなまま抑制研究が流行ると、なんでもかんでも抑制と呼んだり抑制と絡めたりするようになる恐れがある(そしてすでにそんな気配がただよっている…)が、明らかにこれはよくない。そのようなごっちゃの「抑制」概念は、異質のものが比喩的に抑制と呼ばれ集められている過ぎないんだと自覚すべきだ。何かを「抑えている」ように「見える」、あるいは、そのような言語表現が当てはまらないことはない、というだけ。
言うなれば、子供も狼も師匠も自動車も電車も水しぶきもピッチャーの球もコンピュータプログラムも道路もペンも痛みも稲妻も戦慄も、「走る」よ。

抑制過程を自分の研究に絡めようと思っている人、ちょっとまった!

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宇宙に目的はない?

見つけました。「注意深くなれ」コレクションへ入れておきます。

"Science says the universe has no purpose."

違う。正しくは、

"Science doesn't (or cannot) know whether the universe has a purpose."

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