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抑制の機能と過程

シンポに先立って持論を述べちゃうシリーズ。

抑制機能とその過程についてシンポが開かれるみたいで、抑制についての研究が脚光を浴びつつあるように見える。臨床心理との架け橋を期待しているみたい。

しかし、抑制とはいったい何なのか。

複数の可能性があるうちの、あるものを置いておいて、別の何かに集中するときに、置いておかれるほうが「抑制された」と呼ぶのか?もっと情報処理アプローチ的に言い直せば、複数の処理対象の候補となる情報があって、そのうちの一部の情報のみを実際に処理しているとき、処理されなかった分の情報を「抑制された情報」と呼び、そのような部分取り出し(あるいは部分囲い)過程を「抑制過程」というのか?あるいはさらに条件を加えて、置いておかれるほうが意識的にsalientである場合に、とでもするのか?単なる情報の選り分けではなく、意識にポップアップしてくるものをがんばって無視する、という現象を指すために。
だけどこの条件付加はまずい。なぜなら「無意識的抑制(あるいは抑圧)」なんてのも認めたいんだから。ならば、その過程が意識的かどうか、自覚しているかどうか、に関係なく、抑制が定義されなければならない。そうなると、上に書いた情報処理アプローチ的な定義あたりで落ち着かなければならなくなる。そしてこの定義的記述をよく見てみよう。これは何か特別なことか?他の種類の情報処理とは一線を画すような特徴が何かあるか?
そう、こういう風に定義されるなら、「抑制」は、情報処理体の活動一般に偏在するものであり、それなしには実践的な情報処理は不可能な、情報処理を考える上であたりまえの機能ということになる。だからぜんぜん新しくない。私がフレーム問題を引いて訴えていることと同じである。

こんな風に、情報処理において必須の「部分囲い」あるいは「対象制限」をもってして「抑制」と呼ぶなんてことをすると、なんでも抑制と呼べるようになってしまって、あるいはどんな心理学的テーマでも抑制が絡んでいるように思われてしまって、まったくもって無意味というか、非生産的である。
「抑制」を「部分囲い」と区別したいなら、定義にさらに修飾を加えて独り立ちさせる必要がある。するとその結果、それらの各派生体はまとめて「抑制」として扱えるものではなくなる。なぜなら、まとめて扱ったら共通部分である「部分囲い」に逆戻りしてしまうから。
対して、「部分囲い」をテーマとして扱いたいという意図なら、それはそれで構わないが、その場合は「抑制」と呼ぶのは適切でない。
(ああまたもやシンポに否定的な意見になってしまった。)

抑制とは何を指すのかあいまいなまま抑制研究が流行ると、なんでもかんでも抑制と呼んだり抑制と絡めたりするようになる恐れがある(そしてすでにそんな気配がただよっている…)が、明らかにこれはよくない。そのようなごっちゃの「抑制」概念は、異質のものが比喩的に抑制と呼ばれ集められている過ぎないんだと自覚すべきだ。何かを「抑えている」ように「見える」、あるいは、そのような言語表現が当てはまらないことはない、というだけ。
言うなれば、子供も狼も師匠も自動車も電車も水しぶきもピッチャーの球もコンピュータプログラムも道路もペンも痛みも稲妻も戦慄も、「走る」よ。

抑制過程を自分の研究に絡めようと思っている人、ちょっとまった!

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