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体験と物理状態

体験(experience)の中でも、クオリアは学者の世界での流行りである。

クオリアとは何なのか?クオリアの概略は
Wikipedia:Qualia
Wikipedia:ja:クオリア

茂木さんはこれに関する言説で有名。
The Qualia Manifesto

しかしね、これはまだ一般大衆に向けてTVでしゃべれるほどのものではないのですよ、NHKに出演している茂木さん。

それはともかく、意識体験に関する私の持論を紹介してみる。これは私の信念の中でもかなり古い。比較主義と同時期だったと思う。たぶんクオリアと呼ばれているものと関係するだろうので絡めてみる。
それと、以下は科学的証拠がすべて出揃っている話ではなく、私が自分でもっともらしいと思っている「説」であるので注意されたい。
簡単に言うと、「(私の)主観的体験は物理状態とシステマティックな関係がある」というものである。

クオリアってのは、そこに見える血のとか、ウ○チの匂いとか、ヘルニアの痛みとか、オ○ガスムのときの快感とか、そういうもの(感覚的な質感)を指す言葉らしい。
これがどのようにして生じるのかはChalmersに言わせればhard problemらしいのだが、私に言わせればhardとかeasyとかそういう話ではない。

われわれの感覚は身体内外の物理的変化(刺激)に伴って生じる。
それはその物理的変化に起因して身体内部(どこが境界かは言わない)の状態(とくに神経系の状態)が変化するからだ。この関係は因果関係である。化学変化やパルスを追っかければわかる。そう、この仕事をしているのが神経屋さん。

さて、神経系の状態が変化したとして、どうして主観的体験が変化するのか?それは単に、両者がそういう性質を持っている(両者の間にそういう関係がある)ということなのである。事実、そうなのだから疑う余地はない。パルスを打ち込むなり薬物を投与するなりなんなりして神経系の状態を変化させればあなたの意識体験は変化する。これを疑う不誠実な輩がいるなら、試しに注射を打ってみて否が応でも認めさせてあげよう。
これはいわゆるsupervenienceの話とは別である。違いがわからない人はsupervenienceの定義をよく調べること。
もちろんどのような神経系の変化でもすべて主観的体験の変化につながるとは言わない。あたりまえである。われわれの体内では無意識的な変化が刻一刻と生じているのだから。(情報処理アプローチにおいてはこれの一部を無意識的処理と呼ぶ研究者が多くいる。) ある一種の変化が主観的体験の変化と連動するのである。

われわれの主観的体験の変化を伴う場面というのは、われわれの行動を変化させるべき場面であることが多い(もちろんそうでないこともあろうが)。たとえば、痛いとき、臭いとき、苦いとき、われわれはそれを避けるよう行動を変化させようとする。事実として。おいしいとき、気持ちいいとき、よい香りがするとき、われわれはそれに近づく、あるいはその状態をキープするよう行動しようとする。事実として。これらはあくまで、一般に、であり、例外はたくさんあるのだが、その例外も何か別の対象についてのこのような行動傾向の実現になっていることが多い。
まあ、このことも当たり前である。誰も驚かないだろう。痛い、とか、気持ちいい、とかいうことの性質がそういうものだというのは専門家でなくても素朴に理解できる。

で、このような行動はもちろん、身体の各部位へ神経系から信号が送られることで実現されているのだが、これもまた因果関係である。信号がくれば身体は動く、あるいは静止状態をキープする。疑う人には電気を流して手を勝手に動かしてあげよう。
刺激から神経系への因果関係、神経系から行動への因果関係、これでもって神経系の「機能」と呼ばれる。というのも、少なくとも専門家の用語では、因果的役割のことを機能と呼ぶのだから。何か目的があるとか、何かを意図してデザインされたとか、そんなことは機能の定義には関係ない。神経系は物理的変化と行動との因果的つながりの仲介を果たす。これすなわち神経系の機能(の一つ)である。

やっとお膳立てが整った。

心の機能主義的説明を前提すれば、意識体験の中でもクオリアはそこから外れるものとして注目されている。つまり、刺激から行動への仲介する機能という観点からは、クオリアはどうなっていてもよい、と考えられるのである。物理的な神経系さえあれば。
しかし果たしてこれはどこまで正しいだろうか。
ある機能を果たすために特定の主観的体験が必然であるということはないだろうか。たぶんある。たとえば感覚の質感は相互独立ではない。連続的であるし、互いに関連している。類似性分布がある。つまり、いわゆる質感の逆転のようなことはそう簡単にできない。思考実験だから平然とやってしまうが、適当に質感を入れ替えると何かしら齟齬が起きるだろう。たとえば痛みと促進をリンクし、気持ちよさと回避をリンクしようとしても、これらはいろんな種類の質感、匂い、味、明るさ、皮膚感覚などと関連しているから、つじつまあわせが大変である。質感の不在についても同様に、なくしても同じように動く保証がない。
しかし、絶対に(部分的な)逆転や不在が不可能だという証明はまだ私にもできないので、可能性はある。これがゾンビ論法の言うことであるが、これはあくまで現段階での論理的可能性である。自然的には、今後調べれば潰れるかもしれない。そして、われわれのする仕事は自然についてであるから、自然的にそのようなものが存在できるかどうかしか問題ではない。
おそらく、少なくともあるクラスの意識体験が特定の機能とつながることが、全体の機能の整合性には不可欠である。

一方、あえて、主観的体験のうち必然性のない部分がもしあるとすればそれだけをもってクオリアと呼ぶこともできるかもしれない。その場合クオリアは宙ぶらりんにできるように思われる。しかし、そうなるとクオリアは、われわれの自然科学的研究対象ではなくなるのである。というのも、自然物と必然的つながりのないものは調べようがない。し、どうでもよい。(「認識の限界」を参照。)
上記の逆転に成功した場合もこれは同様で、うまく逆転するパターンがいくらかあったとしても、それならばそれらのパターンのうちのどれでもよいし、どれなのかは永遠に判別つかないのであるから関心事ではない。

主観的体験と物理状態変化との自然的に必然な関係は、今のところあるのかないのかわからないが(定義に合意がないという意味)、あれば調べられるし、なければ調べられない、それだけのことである。どのようであるにせよ関係を考えたいことは確か。そして、もし必然な関係がある場合にそれをどう調べるかというと、とりたてて特別なことをするわけでもなく、今までのやり方でふつうに調べるだけなので(内観とか)、なにもチャレンジングではない。必然的に関係するのだから、対応している物理的状態を把握すればよいだけ。
必然的な関係がなかったとすれば経験科学的には絶望的だが、それは仕方ないね。そういうもんなんだから。

まあ、クオリアなんて、現状ではこういうどうなるかわからん話なんだから、すでに(問題の存在だけでも)わかったことのように民衆に向けてTVで言うほどのものではない。こんな現状の話をされても、普通の人はわけわからん。


最後に、追記的に、現時点のWikipedia日本語版のクオリアの項に書かれている疑問について、上記の立場から答えるとどうなるかやってみよう。

  • 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか。
    • 同じ行動(傾向)をするかどうかは調べられる。同じ神経系の活動パターンが生じるかどうかも(原理的には)調べられる。 「赤さ」をもし物理的状態と必然的に対応しないものという意味で言っているなら、同じかどうかはわからない。というか、物理的に現れない赤さなるものの「同じ」を議論することは経験科学的にはナンセンスである。
  • また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていない物が、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、その時その人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じているのか。
    • 人間同士を比較するときと同様の基準で同じ行動をすると言えるならば、人間と同じと言ってよいだろう。「赤さを感じる」という言葉の意味が、ある波長の光に反応できるという意味ならば、調べられる。 意識があるかどうかは「赤を感じる」とはまた別の基準だろう。特定の波長の光に反応できれば「意識がある」とするというのは素朴人でも納得しないと思うし。
  • 生物である犬や魚、あるいは昆虫は、意識があると言えるか。また、その意識は同じクオリアを経験しているのか。
    • 「意識」の定義、あるいはその基準に依存する。意識があると言える定義の仕方もあるだろう。同じクオリアを経験しているかどうかについても同様。
  • 自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか。
    • 結局これに行き着く。答えは同じく、基準次第。ある基準を採用して他者について意識やクオリア経験を認めるなら、同じ基準がロボットや動植物にも適用され判断されるべき。人間にだけそれを認めるような基準の立て方は存在しないように今のところ私には思われる。

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