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2006年3月

アイツの心とワタシの心は如何にして同じ心と言えようか

これについてすでに書いたつもりが見直してみると明確に書いているarticleは無いようなので、書いておく。

まず断っておくが、このarticleで「心」と言い表しているのは、心的状態の一種で命題的態度と呼ばれているものに限る。

他者について、その行動を心によって説明する私たちの日常的枠組みは、通俗心理学と呼ばれている。
一方、自分が何を考えていてどうしてそのように行動しているのかの自覚的認識は通常、意識と呼ばれる(哲学では接近的意識、モニタ意識、自己意識などという区別がされることもある)。後者は認知心理学ではメタ認知と呼ばれることもある(機能主義的に)。

心の概念は、一般的に、他者の心だろうが自分の心だろうがそれぞれの単語「心」が指すものは同じと前提され、ここで扱う命題的態度に関してもそれは変わりない。ここで「同じ」と言っているのは、表象されている内容のことではなく、そのような表象するなどの性質を持つ存在論的実体そのもののことである。例えば、テレビはそれが映し出している内容は異なっても、これらは同じテレビ、違うテレビと言うことができる。それと同じ。

素朴にだけでなく、他者の心についての認識を研究するにあたって類推的な論証(すべては心的状態推論だ!)を基盤とする認知科学者たちにとっては、これは必要な前提に見える。理論説vsシミュレーション説の論争はこれには関係ない。両者に必要な前提であると思われる。シミュレーション説の場合は言うまでもないが、理論説であっても、その概念の獲得起源の説明が必要だし(メジャーなのは自己体験)、自分の行動説明と他者の場合で異なる枠組みを使うなどと主張する研究など聞いたことがない。

しかしながら、それらを同じとする論理的根拠は、実はまだ無い。
自分が自分について感じているソレ、例えば、「今日は肉が食べたくて、近くに牛丼屋があると知っていたから、その牛丼屋へ行った。」という自己認識と、他者の振舞いを見て「あの人は牛丼が食べたくてあの店に入ったんだろう」と考えるときに想定される他者の内的状態と、どうして同じなんだろうか。
機能的に考えれば、明らかに違うことをしている。それら(自分について感じること、と、自分にわからない何かについて推測すること)が実は同じ機能だったなどという証拠はまだ出ていない。さらには、余談だが、自己認識だけについても、「~だから牛丼屋へ行った」と「~だから牛丼屋へ行こう」では機能的に同じだと言うことすらまだできない。これらを区別した機能として研究している認知心理学者がたくさんいるくらいだ。

つまり、自分がいつも正しく知っている(と思われている)自分の心と、推測で固めた(間違っているかもしれない)他者の心は、それらを同じものとして扱うことの正当化すら、素朴心理学的直観以外の方法ではできていないのである。生成過程が異なるなら、それらは(表面的には似ているかもしれない)別のものであってもよいはずである。

すると、研究上、人の心に関する言及は、それが上記のどちらについてのものなのかを区別されねばならないだろう。実際、これらを混同することによって誤解を生じさせたり困難さをかもし出したりしている議論がいくつかある。

私は独我論に至れと言っているのではない。私と私以外との間に斉一性はあってもよいが、それはそれらが何らかの意味で同じである場合のその意味上に限る、ということだ。私が音を聞く仕組みとあの人が音を聞く仕組みは同じ、とかは言えるかもしれない。しかし、自分の空腹具合を言うのと、殺人事件の真犯人を当てるのとは、同じプロセスが働いて同種の表象を作っているとは断言できないだろ。
それらの表象(もっと専門的に言うなら自分についてのメタ表象と他者についてのメタ表象)は質的に異なる可能性が残されているのだ。

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「井の中の蛙」仮説

ここで何度か人間の認識の限界について書いたが、それは私が「井の中の蛙」仮説と呼んでいることと同じかという問いが出たので答える。

私が修士論文で「井の中の蛙」仮説として打ち出したのは、その場その場における世界限定のことである。
すなわち、一般的に人は必ず世界を限定しようとし、その世界の枠の中で物事を考える。よって世界の外側に追い出されたことは考慮に入らない。ここで世界と呼んでいるのは、「そこにあるとされるもの」(当面の事態に関係するしないに関わらず)の集合のことである。
もちろんこの限定枠は動的に変化するので、人は場面場面で異なった物事を考えることができるのだが、それでもその各場面では何らかの範囲で対象が限定され、それ以外は無視されている。
すなわち、人はいかなるときも井の中の蛙である、という説である。たとえ世界が変化するとしても。
で、これを支持する証拠を示したのが修論で発表した実験なわけだ。
「世界を当面の事態に関係するものに限る(=無関係なことは考えない)」というと合理的に聞こえるが、私が主張し証拠を出したのは、何を枠の中に入れて何を外にやるかは自動的で24時間駆動(システムの作り出す傾向性)であり、関連性の決定は判断ではなく(これを意識的に判断するとまさにフレーム問題に陥る)全探索しないヒューリスティックな過程によるため、関係があっても枠の外に追いやられてしまう、ということである。

つまり、「井の中の蛙」仮説は状況依存的な情報制限を論じたものであるが、かたや認識の限界の話は、そもそもの人間の知の限界についての話である。
W を人が知ることができることのすべての集合として、「井の中の蛙」仮説では、人はいつもこのWの要素すべてに注意を向けて精査するわけではなく、W の部分集合 X (それは当面関連のあるものすべてを含んでいるとは限らない)に焦点を当てると考えられる。しかし、Wのどこを部分集合にとるかは場面によって変えられるため、複数の場面を通じてスポットライトたる X を W全体に回し当てることは可能である(Wが有限集合である限り)。
私の思想である認識の限界(based on 動的な不可知論)の云わんとするところは、この W が存在世界とイコールではなく後者のほうが常に大きい、という単純なことである。

これで「井の中の蛙」仮説との違いがわかっていただけるかと思う。

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理論とモデル

心理学者(のみならずいくらかの科学者)による「理論」という言葉と「モデル」という言葉の使い分けはイマイチだ。どう区別しているのかさっぱり見えてこない。というか、学者間で一致しないし、たぶんそんなこと真面目に考えてもいない方が大勢だろう。
明示的に区別していないなら、皆さんはどのようにこれらを使い分けていらっしゃるのだろうか?え、なんとなく?そりゃ結構なことで。

これについてインタビューしたことも幾度かあるのだが、
「数式を使っていたらモデル」という答えがけっこうある。
それはどうよ。そんな区別でよいのか。;(
あるいは「絵が描いてあったらモデル」。はぁ。

岩波「認知科学の基礎」に、理論とモデルについて記述がある。
ここではモデル論的意味論にもとづいて説明している。
この本は有名な認知科学者たちが集まって書いた本であるから、要するにお墨付きである。
それによると、認知科学での「モデル」や「理論」はモデル論的意味論で言うところの「理論」やそれに解釈を与える「モデル」を意味しているらしい。
だが、そういう風に受け取って実際の(現場の)論文を読むと、はて、意味が通らん。「モデル」や「理論」をそのように厳密に定義してまともに読める論文はそうないのである。
つまり、皆さんなんだかわけわからずに漠然とした印象でこれらの言葉を自分の執筆物の中に埋め込んでいらっしゃるようだ。
それでもって、実際に上記の「スキーマ的なもの」とか「数式的なもの」という意味だと「モデル」という用語を解釈すれば、意味が通るんだよね。だから、例のインタビュー結果はあながち非妥当でもないように思われる。

現状記述はこの辺にして、じゃあ、どうあるべきと私が考えているかというと、やはりテクニカルタームは厳密に定義されているべきである。それはもちろん一貫性のため。
で、「理論」や「モデル」はもちろんしっかり定義されて使い分けられるべき。ただ、モデル論的意味論と同じ意味だと定義する必要性はないと思う。そりゃ複数のドメインで定義が一致しているほうがよいのだが、現状がうまくおさまるところを見つけるほうが生産的であるし、その解決策がモデル論的意味論しかないかというとそんなことはないはずだ。

とにかく、いまいる認知科学者が「モデル」とか「理論」とかいう言葉を使おうとしているときに本当に示したいこと、言いたいことを的確に表現する言葉が必要だ。たぶん現に表れているモデルはモデル論的意味論での「モデル」ではない。
そして、他の分野で「理論」や「モデル」がどのように使われているかをちゃんと考えること。言葉の割当ての最適化をするときにこれが重要。


私はむかし"理論=仮説の集合"なんてゆるい定義を習った気がするんだけどなあ。

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クオリアの相互関係

先日書いたことがわかりにくかったようなので例を挙げる。

主観的体験(クオリアを含む)は、相互に関係性がある、すなわち、構造を持つ。
なので、クオリアの逆転みたいなことは(部分的、体系的な逆転に限ったとしても)言うほど簡単ではない。

想定しにくい方のために、例えば、共感覚という現象がある。
これを考えれば、あるqualeは他の特定のqualeと(それ以外よりも)強い関係があることがわかるだろう。関係にもいろいろあるが、この場合は共起関係である。
他にも、類似性を判断させればシステマティックなパターンが得られたり、ある程度の分類が可能だったりする。

クオリアの特性に intrinsic というのが挙げられるが、相互の関係が一切なく独立であるかどうかはそれとは別。
かなり強い制約が敷かれていると思われる。

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abduction

私は本業で「説明が人の認識の基礎である」という可能性を主張している。

よってアブダクションをかなり重要視しているわけだ。

で、いつもの習慣の一環で「科学哲学の冒険」を読み返していたら、納得いかない分類が載っていたので持論と合わせて書いておく。
p.51にて、帰納を、枚挙的、アブダクション、アナロジーと3分類しているが、私に言わせれば、アナロジーはアブダクションだ。
P を任意の述語として、"P(x)" と "似ている(x, y)" から "P(y)" だと導くのがアナロジーだとされているが、これは背後に説明が存在している。すなわち、「似ている(x, y) が真なのは何か共通のもの(性質、他との関係性)がxとyの間に横たわっているからだろう」という仮説で、そこから、「P が y にも当てはまるだろう」、とされるのである。
こう見れば、あきらかに、アブダクションである。
もちろん、不完全帰納(本の中で列挙的帰納と呼ばれているもの)もアブダクションである。「それらの個々の事例に共通する何かがあってそれがその性質をもたらしている」という仮説があり、それによって一般化や(これはそのもの)、他事例への拡張が導かれる。(これは私が卒論で展開した説明。)

アナロジーとアブダクションは、特殊帰納と一般帰納を同じと見なすのと似た理屈で、同じだと言えるいうことがわかる。
特殊帰納は一般帰納が行われその後の演繹として実現される、と考えることが多いが(これには必然的な理由はない)、それを認めるならば、このアナロジーがアブダクションの一種である、というのも認められるだろう。上記のような説明生成が行われていればいろんなアナロジーが可能になる。
もちろんこれは合理性の直観を前提しているからで、それがなければ厳密には特殊機能と一般帰納は分離されるし、アブダクションも分離されるだろう。

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意識は何のためにあるか?

いかにも目的論的なタイトルだな・・・。
いや、これはよくあるキャッチフレーズ(客引き用語)で、実の内容は、意識の「機能」についてである。

意識が何に影響を受け、どういう効果を持つか、という問題(特に後者)には現在までにいろいろな説が出されている。
エピソード記憶と関係があるというのもそのうちの一つで、よく聞く話だ。
しかしこれが正しいかどうかはまだわからない。
たくさん説はあるが、機能を主張するタイプの説にも決定的なものはまだなく、それらは機能の不在を主張する説との論争の中にある。

で、先日、学会の大会でこの手の話がされるというアナウンスをもらって、近所だしせっかくなので参加してなにかおもしろいことが聞けないかと期待したのだが、ぜんぜんダメだった。
肝心のところ、すなわち具体的にどのような機能があるのか、についてはあいまいにしたままで、話の中にそのほかの新発見すらまったくなし。
なんとかひねり出された質問も的外れで、眠かっただけでした。他の参加者の方は、わかりきってて聞くことがなかったのか、まったく初耳で理解が追いついていないのか、どっちだったんだろう・・・。

発表の中で、機能的意識と現象的意識という区別をちゃんと哲学者に聞いておきながら、それぞれをきちんと理解されていないように思いました。なので、私などの議論からすればそもそも話がかみ合わない。working memoryの理解も同様で、発表後に司会者に指摘されているし。テーマの着眼点はよいとしても詰めが甘すぎるというか、まあ分野が違うから仕方ないのか。それでも出版とかするなら責任持つべきだと私は思うんですが。

さて、本題ですが、エピソード記憶と意識が関わっているとしても、どのように関わっているか言わなければ何の意味もない。そしてどうして意識体験が必須なのかとか、関係するのがエピソード記憶だけでなければならないのかとか、そのあたりのたくさん出てくる疑問に答えられる説明でないと、そこから先進まない。だから、この説は今のところまったく当て勘レベル。
エピソード記憶が意識と関わっていそうだという直観的連想はわかる。でもそれだと、顕在的記憶は全部意識が関わっているではないか。
過去を記憶すれば適応度が上がるだって?そりゃあ上がるでしょう、情報増えてんだから。なにもエピソード記憶でなくても。
進化的な話も、どうしてかボタンを掛け違っていると思われる。ネオ・ダーウィニアンな進化論がどういうものか、とかその辺の説明は間違っていないのに、それを自説に適用するときにどうしてそうなっちゃうのかなぁ。
そして、根本的なズレは、われわれの疑問は現象的意識に関してであって、それにどう答えるかが無いと話にならないのです。いろいろな答え方があるけども。今回の講演ではその部分はおじゃん。NNだからどうだと言うのだ。

ひとつ、よい杭打ちだと思ったのは、制御モデルの話をされているときに、「これだけならワーキングメモリは必要ない」とおっしゃったこと。後で司会者がそこを打ち消したが、この点はそうではなくて、発表者の考えを真剣に吟味すべきだ。こういう部分だけは、さすが専門家ゆえか、発表者の見解は聴衆の大多数より見通しが利いていると思われる。

ああまったく。エピソード記憶に意識が必須な理由を教えて給へ。

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