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アイツの心とワタシの心は如何にして同じ心と言えようか

これについてすでに書いたつもりが見直してみると明確に書いているarticleは無いようなので、書いておく。

まず断っておくが、このarticleで「心」と言い表しているのは、心的状態の一種で命題的態度と呼ばれているものに限る。

他者について、その行動を心によって説明する私たちの日常的枠組みは、通俗心理学と呼ばれている。
一方、自分が何を考えていてどうしてそのように行動しているのかの自覚的認識は通常、意識と呼ばれる(哲学では接近的意識、モニタ意識、自己意識などという区別がされることもある)。後者は認知心理学ではメタ認知と呼ばれることもある(機能主義的に)。

心の概念は、一般的に、他者の心だろうが自分の心だろうがそれぞれの単語「心」が指すものは同じと前提され、ここで扱う命題的態度に関してもそれは変わりない。ここで「同じ」と言っているのは、表象されている内容のことではなく、そのような表象するなどの性質を持つ存在論的実体そのもののことである。例えば、テレビはそれが映し出している内容は異なっても、これらは同じテレビ、違うテレビと言うことができる。それと同じ。

素朴にだけでなく、他者の心についての認識を研究するにあたって類推的な論証(すべては心的状態推論だ!)を基盤とする認知科学者たちにとっては、これは必要な前提に見える。理論説vsシミュレーション説の論争はこれには関係ない。両者に必要な前提であると思われる。シミュレーション説の場合は言うまでもないが、理論説であっても、その概念の獲得起源の説明が必要だし(メジャーなのは自己体験)、自分の行動説明と他者の場合で異なる枠組みを使うなどと主張する研究など聞いたことがない。

しかしながら、それらを同じとする論理的根拠は、実はまだ無い。
自分が自分について感じているソレ、例えば、「今日は肉が食べたくて、近くに牛丼屋があると知っていたから、その牛丼屋へ行った。」という自己認識と、他者の振舞いを見て「あの人は牛丼が食べたくてあの店に入ったんだろう」と考えるときに想定される他者の内的状態と、どうして同じなんだろうか。
機能的に考えれば、明らかに違うことをしている。それら(自分について感じること、と、自分にわからない何かについて推測すること)が実は同じ機能だったなどという証拠はまだ出ていない。さらには、余談だが、自己認識だけについても、「~だから牛丼屋へ行った」と「~だから牛丼屋へ行こう」では機能的に同じだと言うことすらまだできない。これらを区別した機能として研究している認知心理学者がたくさんいるくらいだ。

つまり、自分がいつも正しく知っている(と思われている)自分の心と、推測で固めた(間違っているかもしれない)他者の心は、それらを同じものとして扱うことの正当化すら、素朴心理学的直観以外の方法ではできていないのである。生成過程が異なるなら、それらは(表面的には似ているかもしれない)別のものであってもよいはずである。

すると、研究上、人の心に関する言及は、それが上記のどちらについてのものなのかを区別されねばならないだろう。実際、これらを混同することによって誤解を生じさせたり困難さをかもし出したりしている議論がいくつかある。

私は独我論に至れと言っているのではない。私と私以外との間に斉一性はあってもよいが、それはそれらが何らかの意味で同じである場合のその意味上に限る、ということだ。私が音を聞く仕組みとあの人が音を聞く仕組みは同じ、とかは言えるかもしれない。しかし、自分の空腹具合を言うのと、殺人事件の真犯人を当てるのとは、同じプロセスが働いて同種の表象を作っているとは断言できないだろ。
それらの表象(もっと専門的に言うなら自分についてのメタ表象と他者についてのメタ表象)は質的に異なる可能性が残されているのだ。

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