« 理論とモデル | トップページ | アイツの心とワタシの心は如何にして同じ心と言えようか »

「井の中の蛙」仮説

ここで何度か人間の認識の限界について書いたが、それは私が「井の中の蛙」仮説と呼んでいることと同じかという問いが出たので答える。

私が修士論文で「井の中の蛙」仮説として打ち出したのは、その場その場における世界限定のことである。
すなわち、一般的に人は必ず世界を限定しようとし、その世界の枠の中で物事を考える。よって世界の外側に追い出されたことは考慮に入らない。ここで世界と呼んでいるのは、「そこにあるとされるもの」(当面の事態に関係するしないに関わらず)の集合のことである。
もちろんこの限定枠は動的に変化するので、人は場面場面で異なった物事を考えることができるのだが、それでもその各場面では何らかの範囲で対象が限定され、それ以外は無視されている。
すなわち、人はいかなるときも井の中の蛙である、という説である。たとえ世界が変化するとしても。
で、これを支持する証拠を示したのが修論で発表した実験なわけだ。
「世界を当面の事態に関係するものに限る(=無関係なことは考えない)」というと合理的に聞こえるが、私が主張し証拠を出したのは、何を枠の中に入れて何を外にやるかは自動的で24時間駆動(システムの作り出す傾向性)であり、関連性の決定は判断ではなく(これを意識的に判断するとまさにフレーム問題に陥る)全探索しないヒューリスティックな過程によるため、関係があっても枠の外に追いやられてしまう、ということである。

つまり、「井の中の蛙」仮説は状況依存的な情報制限を論じたものであるが、かたや認識の限界の話は、そもそもの人間の知の限界についての話である。
W を人が知ることができることのすべての集合として、「井の中の蛙」仮説では、人はいつもこのWの要素すべてに注意を向けて精査するわけではなく、W の部分集合 X (それは当面関連のあるものすべてを含んでいるとは限らない)に焦点を当てると考えられる。しかし、Wのどこを部分集合にとるかは場面によって変えられるため、複数の場面を通じてスポットライトたる X を W全体に回し当てることは可能である(Wが有限集合である限り)。
私の思想である認識の限界(based on 動的な不可知論)の云わんとするところは、この W が存在世界とイコールではなく後者のほうが常に大きい、という単純なことである。

これで「井の中の蛙」仮説との違いがわかっていただけるかと思う。

|

« 理論とモデル | トップページ | アイツの心とワタシの心は如何にして同じ心と言えようか »

Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/1027640

この記事へのトラックバック一覧です: 「井の中の蛙」仮説:

« 理論とモデル | トップページ | アイツの心とワタシの心は如何にして同じ心と言えようか »