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2006年4月

心は制御系

「心って何ですか?」
そんなことを私に臆面もなく聞くのかい。よかろう、私も臆面もなく答えてしんぜよう。

「心(mind) とはある種の制御系(regulatory system) のことである。」

これが心理学者としての私の答えである。私はそう信じて研究してきた。「おい、そりゃ違うだろ!」と感じる方がいらっしゃれば、どうぞお出でいただきたい。遠慮なく議論させていただこう。

この世に存在しうる制御系はもちろんいろいろ多種多様であるが、人間の行動を制御する系を心(mind)と呼ぶ(人間の行動「だけ」とは限らない)。
これで十分。これ以上何を言おうというのか。
行動の定義でも必要か?ならばどっかの専門用語辞典かwikipediaでも見なされ。私は以前 "everything that organisms do" を使ったよ。doが嫌ならWordNet先生曰く"responses or reactions or movements"。

行動を goal-oriented にするのが心である。

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人とヒト

先日メールで他者の言葉を引用するにあたって「人を理解すること」と不正確にも書いてしまい、「ヒト」ですよ、と注意をいただいた。個別の人ではなく、ヒトという種だ、ということらしい。
もちろん私はそういうつもりで「人」と書いたのではないのだが、しかしこれは、おもしろい話題を提供してくれる。

人とは何であろうか。もちろん特定の一個人ではない。それでは「人」の指す範囲としては狭すぎる。個人の集合であろうか。表へ出るとその辺にいる、どれかの個人。このあたりの定義でよいのか。これではどの範囲を指すのか明確でない。心理学的な一般原理の適用範囲から考えると、今地球上にいるどの個人を指しても人と言ってよいだろうから、単にpeopleである。

一方、種としての「ヒト」とは何であろうか。いや、そもそも種とは何であろうか。心理学がその対象の一つとするヒトとは、もっぱら現在のヒトであるが、種とは変化するものである(らしい、ダーウィンによれば)。そうすると、「ヒト」が指す種は、いま私と時を共にする個人たちをもっとも代表的な(厳密に言えばそれだけを)メンバーとするはずだ。少し前のヒトは(ヒト科ヒト属に分類されるとしても)もはや今現在われわれがヒトという言葉で指す対象には相応しくない。なぜなら機能的に異なる可能性が大いにあるし、文明的、文化的には当然異なっているからだ。そんなに異なっていたら、心理学的には同一の原理が成り立つ同じ母集団だとは(少なくとも単純には)言えないだろう。

そうすると、さて、ヒトと人はどう違うのだろうか。
カテゴリラベルだと考えるとその外延は重なってしまうように思える。
指す側面が異なる(例えば「人」は文化的側面を指す、とか)という道が残っているように見えるが、これを考えるのはよろしくない。なぜならば、心理学がロックオンするのは個体やその集合であって(場合によってはその周りのものも取り込むが)、それらがどういう側面をもっているかはすべて込みにして研究対象となるはずだからだ。

そうすると、人とヒトの違いは、側面の「強調」の程度くらいかなぁ。

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うちのOCW

だいぶまえにボヤいていたOCWについて、日本でも昨年こんなことになっていて、うちの大学もようやく重い腰を上げた。
しかし、いまだ我が研究科は資料を1つも提供していない!なんということだ。
先導だけ先に行って、追いついていないじゃないか。
ポリシーが学内全体に浸透していないのかな。

こんなことだからダメなんですよぉ。

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ceteris paribus

この言葉 ceteris paribus が私の研究において決定的に重要である。

まず、これは人間の frame problem とその対策について核心的に関係する。まさにこの「その他の事情」を明示的にリストアップしきれないことがframe problemの起源であるのだから。

そして、科学論においても ceteris paribus は重要である。現状のすべての現象的法則はこの修飾句が付いている。つまり、この条件の下で(すなわち私が研究会で表現したところの「部分世界」で)世界を記述しているのであって、これをはずしてしまう(普遍化する)ことは簡単にはできない。この困難さは、上記のframe problemに共通するものである。よって、ここで私の研究の主柱のうちの2つである frame problem と科学論がつながる。

王道たる(=心理学者ほぼ全員、そして他の多くの科学者が適用している)線型モデルに関しても、 ceteris paribus は本質的である。すなわち、線型モデルに組み込まれるある1つの説明変数の効果というのは(例えば重回帰分析の偏回帰係数)、他の変数を固定したならば、の条件付で解釈されるものである。こうすることでその変数の意味を考えるのが容易になるのだが、まさにこれは線型モデルを使うことの効能の1つであり、説明の単純化であり、多少とも正確性を犠牲にすることによる困難さの回避である。ここで、私の研究のもう一つの主柱である説明の simplicity の話がつながる。

因果概念についても ceteris paribus がついてまわる。とくに counterfactual に関しては、ふつうの人の考えるalternativeというのは1つもしくは少数の事柄だけが違えられていて、 ceteris paribus である。ここで、私の研究のまた別の主柱である conterfactual と因果認識の話がつながる。

さらには、induction や heuristic もこれらとつながるのだが、書き始めるとキリがないし、自明なので、やめておく。

ceteris paribus が人間の認識の基本的性質を如実に映し出した言葉である。

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これまでに「国は何のためにあるのか」についていろいろな側面を個人的に検討してきたのだが、2年ほど前に一つの結論に行き着いた。

この世のすべての人が完全に合理的な人間ならば国はいらない。

そうでないから、そのようなものが入用になるのだ。

だから、もし人間並みの行為ができて完全に合理的なロボットなど作ることができたとしたら(私は不可能だと思うが、空想上で)、その場合はロボットの国などは現れない。

よって、SFでロボットに完全な合理性を仮定しつつ国を形成しているようなものがあれば、論理的に矛盾している。

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哲学との付き合い方

いつも言われて跳ね返すのだが、
そもそも哲学とはなんだろうか。そんなことは私は知らない。
むしろ、哲学とどう付き合うべきか。これには私は1つ答えを持っている。

私が「そんなことは知らない」という理由は、哲学と呼んでいるものの内包が私にはわからないので、なんとも言えない、ということである。
しかし、一方で、哲学とふつう呼ばれているものをわれわれ心理学者がどう扱うのがよいか、については、私なりの信念がある。

ずばり言うと、私の信念は、哲学を別学問とする必要性がない、というものである。
一般に哲学と呼ばれている論理的考察をわれわれの科学的学問の内容と切り分けて差別化する必要がどうしてあるのだろうか?
この切り分けに正当化を与えようとする(自称)哲学者の主張をいくつか見てきたが、どれも説得力に欠ける。いわば悪あがきだ。

考えてみればわかるはずだが、心理学者やその他の科学者が「考察」と呼んでいる論文の一部分は、哲学者(と呼ばれている人たち)がやっていることと違いがあるだろうか。いくつかの側面で量的なバラエティがあろうとも、私にはまったく同質に見える。
つまり、おそらくすべての科学的学問は哲学的(と呼ばれ得る)考察を含んでおり、それを全くしないなどということはない。それも科学者の仕事の一部である。論理的考察を当の科学者の仕事から切り離すのは無意味である。

だから、あえて哲学なるカテゴリを作る必要もない。もっと言うなら(私の希望的方針からすれば)、哲学者と呼ばれている人たちが素直に科学的学問なり何なりに回帰すればよい。そして、どこにも回帰できない哲学的主張はわれわれには要らない(趣味でやるのは構わないが)。

一方、このような考えから心理学の現状に対して何が言えるかというと、心理学者はもっと論理的考察に精を出すべきだ。考察が薄すぎる。だから、理論的発展において、哲学者と呼ばれ別学問に携わると思われている人たちの力を借りているように見える。私に言わせれば、「心の哲学」は心理学と別の学問ではない。それは心理学の作業の一部である。そして「心の哲学」的問題は、心理学理論の根っことして、みんなが考えるべきことである。
生物学でも、物理学でも、社会学でも、あるいは科学一般でも、同様のことが言える。

私は単に心理学者なのであって、蔓延している語用(誤用)に従って哲学者だと呼ぶのは勝手だが、正しくはない。
考察がいくらか哲学的と称される類のものであっても、もっぱら心理学の範囲であり、ただ単に手抜きをせずに煮詰めただけである。
心理学に携わる人よ、あなたがやっていることはまさに(いわゆる)哲学的であり、(いわゆる)哲学的論考を敬遠する必要も意義もないし、かつ、自分に哲学者というラベルを付ける必要もない。ただただ心理学者として論争に飛び込み、理論の発展に尽力せよ。

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