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2006年5月

公理論的再構築

先日の私のプレゼンの中で出した(けど時間が無くて十分に説明しなかった)言葉。

私が意味したのは、現代の心理学で何気なく使われている概念をすべて根本から見直して、基盤にしても良いと確信的に見なされる概念だけを(厳密に定義した上で)残し、その上に理論を作ろう、ということ。
そういう意味で、公理論的だし、再構築なのである。

これを煽っている背景には、現在の理論があまりにも素朴心理学的だというところがある。
それによって、理論でうたわれていることとその中に登場する言葉の解釈の多義性や、予測の多方向性など(すなわち予測にならない)、もろもろの欠点が生じているのである。
これは科学的理論としては好ましくない。
よって再構築したいが、あくまで公理的に、と付け加える。というのも、懐疑論的にすべてを疑いだすと、デカルトみたいになっちゃうので、逆に生産的でなくなると思われるからである。我々がもっている概念のうちの基本的ないくつかは、それがないとそもそも世界などという認識がなりたたないような代物である。そしてまた、それらを前提せずに定理的に導き出すのは不可能なように見える。だからこそ、それらは(確認の上で)公理的に扱おう、という方針なのである。
もちろん、この公理的概念として何を選定するかが重要なのであるが。

私の自己制御系フレームワークや心理学的直観主義もここに根拠を置いているのである。

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証明責任

誰に自分の主張が正しいことを証明する(あるいはもっと緩く、根拠をもって正当化する)責任があるか。
いわゆる証明責任の問題。

ここで書くのは、科学的学問を含むこの世の事実に関する主張における証明責任の話。
法学にも「証明責任」あるいは「挙証責任」(burden of proof)という概念があるが、これは微妙に異なる。法に関する話をしているときでもこの言葉は誤った使われ方がされることがあるので、ややこしい。法学における証明責任とは、正しくは

裁判で事実の有無が確定できない場合(真偽不明, non liquet)に、その事実の有無を擬制して法律効果の発生・不発生を判断することにより被る、当事者一方の不利益のことをいう。(Wikipedia 日本語 版 2006/5/17 より)

まあ、とりあえずここのは、科学のフィールドに関する話だと思ってくれれればよい。

さて、俗に使われる表現では、「(何らかのエンティティが)『ある』ことを主張する側に常に証明責任がある。なぜなら、『ない』ことを証明することは一般的に困難があり、それを求めるのは不合理だから。」とされる。
私の"こんな感じ"想起では不十分だから、いくつか実際に引用してみよう。

Wikipedia:悪魔の証明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E (2006/5/17確認)

「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。しかし、全称命題を対象にする「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならない。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。

このため、議論においては、「ある」と主張する側が、「ある」を証明すべきであると言われることがあり、このようなルールにも、一定の合理性があると言える。もちろん、現実の論争の場で、これは絶対的なルールではない。何故なら状況証拠を収集して、推論を導き出す事は有効であると社会的に認められているからである。

科学における証明は「ある」と主張する肯定側が負うべきとされている。したがって、「ある」が証明されなければ「ない」と見なされる。証明抜きで無限に発せられる荒唐無稽な主張に対して、否定する側が全ての可能性を反証しなければならないというのは不合理だからである。ただし、「ある」と主張する側が適切な理由を提示できる場合は、「可能性が極めて低いが完全には否定できない」「存在の可能性を考慮しても良い」などとされる場合もある。

Wikipediaではこのようにある。途中の文章が不十分に感じるが、ここでの問題提起という引用目的に関しては、世間で何が信じられているかはこれでわかってもらえるだろう。「ある」「ない」のうち「ある」と主張する側に証明責任があるとしている。1つ注意点は、「「ある」と主張する肯定側」と表現されているところで、「「ある」という主張」と「肯定」が同一視されてしまっている。

ひよりん 信仰拒否の論理(1) http://web.sfc.keio.ac.jp/~t95014ha/Hiyorin/shinkou1.html (2006/5/17確認)

「証明の義務/責任(burden of proof)」は、 原則的に「存在する」と主張する側のほうにある ということだ。 先の「神の存在」言説もそうだが、 この「UFO信奉者」のような論法は「立証責任の転嫁」と呼ばれており、 議論において なしてはならない反則行為の一つに数えられている。

ここでは「ある」ではなく「存在する」と表現されているが、まあ意味合いは同じ。「反則行為」とまで言っている。

事象の地平線 - 環境ホルモン濫訴事件:ちょうど1周年 http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=1417 (2006/5/17確認)

自然科学では、新規なことがらを主張する側が証明責任を負うというのが当たり前で、このことは、擬似科学を退ける時にも役立っている。トンデモ理論を主張しておいて、間違っているなら証明してみろというのはダメで、そのトンデモ理論を主張する側がそれが正しいことを証明しなければならない。

ここでは、「新規なことがらを主張する側」というふうに主張されている。「トンデモ」ならば必ず「新規」であるという論理的関係はないと思うが、それはともかく、この「新規」という概念は着目する価値がある。

みさわの部屋 - 日々思うこと - 悪魔の証明 http://members2.jcom.home.ne.jp/yu-misawa/hibi/akuma.html (2006/5/17確認)

 あなたは「悪魔はいる」と主張するとします。その証明は簡単です。実際に悪魔を連れてくればよいのです。逆に自分の主張が立証されなければ、悪魔はいないということになり、いくら可能性を論じても誰も信じてくれません。  逆にあなたは「悪魔はいない」と主張するとします。しかし、これを立証するのは不可能です。なぜなら「いない」とは可能性論でしかなく、立証が難しいからです。そのため、通常証明責任は「いる」と主張する方が行うという考え方があります。  またもうひとつは、挑戦者側に証明責任があるという考え方です。つまり「格闘ゲームの最高峰はサードだ」と一方が主張した場合、それに対し「いや、違う」と反論したなら、反論者がその根拠を証明しなければならないのです。  これらの考え方はそれぞれ理に適っているので、よく使用されるのですが、これらがごっちゃになって使われていたり、これらを絶対のルールと勘違いして、「推論」などの思考法を愚かで低俗な行為だと、決め付ける輩もいるようです。

ここでは、証明責任の帰属に用いられる二種類の根拠を区別しようとしている。1つは、「いる」「いない」(「ある」「ない」という表現ではないが、まあ同じ)で「「いる」と主張する方」。もう1つは、「挑戦者側」。また、「Wikpedia:悪魔の証明」と同じく、絶対的なルールではないと言っている。

LIFE IS NOT ENOUGH. Shit!!!! - 血液型と性格 (勿論関係限りなく無) http://blogblog.psycho-therapist.biz/?eid=33719 (2006/5/17確認)

血液型と性格について関連がないと思っている私に説明する義務はない。 これは正論なのだ。なぜなら、言いだした方に証明責任がついてくる。 では、私はないと思っているのだから、無いことの証明をせよ、と言いだす香具師もいるだろう。残念でした。無いことを証明することは出来ない。だから、そんなこと無駄の極み。

これは上の「みさわの部屋 - 日々思うこと - 悪魔の証明」が言うところの、ごっちゃになっている例だろう。「言いだした方」と「無いこと」の2点が組み合わせられている。

ABOFANへの手紙(前半) http://www.obihiro.ac.jp/~psychology/abofan/abofan1.html (2006/5/17確認)

ある仮説についての立証責任は,その仮説を主張する側にしかない,ということです.血液型に関していえば,血液型と性格に関係があると主張する人がそれを立証する責任を持ちます.それ以外の人はその立証方法やデータに納得できるならそれを信じるし,納得できないなら信じないだけです.「信じない」理由は「信じる理由がない」だけで充分で,仮説を反証したり,信じない根拠を提出する責任はありません.

日本のプロの心理学者の言い分なのだが、そういう立場の人でも(というか、そうだからこそ)こんな主張をしている。これも(部分的に引用しているので仕方がないという面もあるが)ごっちゃな表現である。「仮説を主張する側」と言っているのに加えて「関係があると主張する人」となっている。注目は、「主張する側にしかない」という点。「主張する側」とはどうして片側だということがありましょうか。

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全体論的

あちこちで行き詰まった学者さんによって、全体論的に見ることの重要性が主張されるけど、
全体って完全に全体だったらなんにもわかんないのよ。
はい全体ですね、ちゃんちゃん、ですよ。

要素に焦点を置かずに集まりそのもので見たほうがいい、ってのはわかるけど、
それでも全体ではなくて、連続性をもつあるレベルでのまとまりなのよ。有益なのは。

分析のレベルはいろいろ取れる。つながってるんだからレベルの間の関係性も調べられるだろう。(前にも書いたけど。)
まとまりで見たほうがよいというのは、メイナードスミスの言うとおり、そうしないと見つけられないものがあるからで(これは人間のせい)、だからその点には賛同するが、それでも分析なのよ、結局。
全体、全体って言ってすべてを俯瞰するような視点に立ってしまったら、人間の認識は否定するわ、世界と同一化するわで、学問的によいことは一つもないわね。

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科学的学問の庭には柵がある

本日、素朴生物学について調べている途中で、ネタとして興味深いサイトを見つけてしまった。
どこからどうひっかけてここにたどり着いたのか今となってはわかりませんが。

「科学的世界観-科学的知識に基づく 世界の統一的把握と その帰結及び限界-」

完読しておらず、節々と最後のあたりを飛ばし読みしただけだが、この桜井さんがおっしゃっていることは、私の立場とかなり近い。
疑問符をつけるところもいくらかはあるが、半分は賛成である。
皆さん、ぜひとも読んでみてはいかがだろうか。その上でどこがおかしいと思ったか私と照らし合わせしましょう。
このblogを読んでいる人は私の答えはすでにわかってしまっているでしょうが。

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random sampling

母集団について統計学的に推論することにおいて欠かせないものである、ランダムサンプリング。
そして、多くの心理学研究、教育学研究はランダムサンプリングをしていない。
これはよく言われている話だ。

気になっていたのは、じゃあ、本気でランダムサンプリングしようとしたらどうなるか、という点。
いや、もちろん、いくらかの領域では実行可能なはず。
なんなら、母集団をかなり狭く限定してもよい。
とにかく、正面切ってランダムサンプリングをして心理学実験とかするとどうなるか。

個体の集合としての母集団からランダムサンプリングをすると、ある個体が重複して選ばれる可能性がある!だよね、定義からして。
そうすると、実験とかで、ランダムサンプリングで選ばれた参加者で2回同じ実験を受けたりとかする人がでるはず(たまには)。
これがランダムサンプリングの正体なのだ!そんなこと心理、教育、医学の人たちが許すか?
厳密に研究やろうとすると、同じ人に2回投薬したりとか、同じ人に2回同じアンケートに答えてもらったりとか、しなきゃいけないんです。
・・・やっぱり私は橘派かな。

とにかく論点は、重複禁止のサンプリングは一様ランダムサンプリングではないのでは?というところ。
だれか答えを教えてください。

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質的ってなに

先日の研究会で私としてはまったく予想もつかず「質的研究」の話が現れた。
現れた理由は、質的研究扇動者が妙な暴れっぷりを見せているせいなんだが・・・。

以前にも書いたとおり、私は「質的研究」運動に非賛同的な立場である。
この非賛同は、研究の内容そのものにという意味ではなく、その当たり散らし方というか、研究の意義の主張方針あるいは位置づけの見誤りに対するものである。私が適切だと思う位置づけについての示唆も以前書いた

簡単に言うと、その人たちが「量的」と呼んで批判している研究(科学的研究)のことをわかっていない、というだけ。
私からのメッセージは、「もう少し勉強されたし」。

そもそも、質的って何ですか?支持者たちの云わんとすることは、いわゆる qualitative のストレートな意味とかなりズレてると思うのですが。もっといいネーミングがなかったもんかいな。

今後また議論する機会があると思うが、ぜひとも綿密な準備をされた支持者とバトルしたいものだ。

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神様でもよい

先日の研究会はじつに議論が盛り上がっていたが、その中でTさんが、
「別に(心理学的現象の)説明に神様が入ってもよいです」
という話を出した。
ボンヤリ科学者がこぞって嘲笑しそうな発言だ。
しかし私は、この意見も一理あると思っている。もちろん一科学者として。

神様や天使や霊魂だってそれ自体で拒否されなければならない概念ではない。
ボンヤリ科学者だってそんな言い分の根拠は出せないはずだ(トンデモ煽り屋は根拠なしに非難してくるんだが)。
他の説明概念と同じ土俵に立てて、同じ基準で取捨選択されればよい。
だから、神様でもその選択基準の上で生き残れば何の問題もないのである。

そういう意味で、神様でもよい、とはそのとおり。
問題は、取捨選択の基準である。
ある基準を採用すれば、「神様によって・・・」という説明はバッサリ切り捨てられることになるだろう。
しかし、どんな物事についてどんな基準を採用しようとも、神様は必ず切り捨てられる、ということはないはず。
少なくともそんな証明は誰もできていない。

よって、神様説は何らかのケースで有力である可能性があるし、それが科学的な定説になる可能性も残っているのである。

まあ神様の定義にもどっぷり依存するがね。

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心理学、考えいろいろ、評します

世の中には多様な主義主張がある。すばらしいことだ。
科学的学問の世界にも多様な考えがある。
もちろん心理学にも多様な主義、学説がある。

その多様な主義、学説の数々を日々調べさせていただいているのだが、これまでどれひとつとして完全に正しいと思ったものはない。しかし、完全に間違っていると感じるものも多くはない。
こんな状況だから、いずれ多様な主張のそれぞれについてどの側面は同意できてどこは同意できないかというリビューを1つずつでも書くつもり。それをまとめれば私の考えの全体像が他の人にも見えてくる。一部はここにもちらっと書いてる。

でも、多すぎ。あまりに多すぎ。心理学と名前がついた頃からだけでも1世紀以上経ってるしね。その前も考えると・・・。
だから一生かかっても終わらないかもしれない。たぶん終わらない。
なので、口伝で残したものを誰かが字にしてくれるとうれしいな。

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