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証明責任

誰に自分の主張が正しいことを証明する(あるいはもっと緩く、根拠をもって正当化する)責任があるか。
いわゆる証明責任の問題。

ここで書くのは、科学的学問を含むこの世の事実に関する主張における証明責任の話。
法学にも「証明責任」あるいは「挙証責任」(burden of proof)という概念があるが、これは微妙に異なる。法に関する話をしているときでもこの言葉は誤った使われ方がされることがあるので、ややこしい。法学における証明責任とは、正しくは

裁判で事実の有無が確定できない場合(真偽不明, non liquet)に、その事実の有無を擬制して法律効果の発生・不発生を判断することにより被る、当事者一方の不利益のことをいう。(Wikipedia 日本語 版 2006/5/17 より)

まあ、とりあえずここのは、科学のフィールドに関する話だと思ってくれれればよい。

さて、俗に使われる表現では、「(何らかのエンティティが)『ある』ことを主張する側に常に証明責任がある。なぜなら、『ない』ことを証明することは一般的に困難があり、それを求めるのは不合理だから。」とされる。
私の"こんな感じ"想起では不十分だから、いくつか実際に引用してみよう。

Wikipedia:悪魔の証明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E (2006/5/17確認)

「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。しかし、全称命題を対象にする「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならない。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。

このため、議論においては、「ある」と主張する側が、「ある」を証明すべきであると言われることがあり、このようなルールにも、一定の合理性があると言える。もちろん、現実の論争の場で、これは絶対的なルールではない。何故なら状況証拠を収集して、推論を導き出す事は有効であると社会的に認められているからである。

科学における証明は「ある」と主張する肯定側が負うべきとされている。したがって、「ある」が証明されなければ「ない」と見なされる。証明抜きで無限に発せられる荒唐無稽な主張に対して、否定する側が全ての可能性を反証しなければならないというのは不合理だからである。ただし、「ある」と主張する側が適切な理由を提示できる場合は、「可能性が極めて低いが完全には否定できない」「存在の可能性を考慮しても良い」などとされる場合もある。

Wikipediaではこのようにある。途中の文章が不十分に感じるが、ここでの問題提起という引用目的に関しては、世間で何が信じられているかはこれでわかってもらえるだろう。「ある」「ない」のうち「ある」と主張する側に証明責任があるとしている。1つ注意点は、「「ある」と主張する肯定側」と表現されているところで、「「ある」という主張」と「肯定」が同一視されてしまっている。

ひよりん 信仰拒否の論理(1) http://web.sfc.keio.ac.jp/~t95014ha/Hiyorin/shinkou1.html (2006/5/17確認)

「証明の義務/責任(burden of proof)」は、 原則的に「存在する」と主張する側のほうにある ということだ。 先の「神の存在」言説もそうだが、 この「UFO信奉者」のような論法は「立証責任の転嫁」と呼ばれており、 議論において なしてはならない反則行為の一つに数えられている。

ここでは「ある」ではなく「存在する」と表現されているが、まあ意味合いは同じ。「反則行為」とまで言っている。

事象の地平線 - 環境ホルモン濫訴事件:ちょうど1周年 http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=1417 (2006/5/17確認)

自然科学では、新規なことがらを主張する側が証明責任を負うというのが当たり前で、このことは、擬似科学を退ける時にも役立っている。トンデモ理論を主張しておいて、間違っているなら証明してみろというのはダメで、そのトンデモ理論を主張する側がそれが正しいことを証明しなければならない。

ここでは、「新規なことがらを主張する側」というふうに主張されている。「トンデモ」ならば必ず「新規」であるという論理的関係はないと思うが、それはともかく、この「新規」という概念は着目する価値がある。

みさわの部屋 - 日々思うこと - 悪魔の証明 http://members2.jcom.home.ne.jp/yu-misawa/hibi/akuma.html (2006/5/17確認)

 あなたは「悪魔はいる」と主張するとします。その証明は簡単です。実際に悪魔を連れてくればよいのです。逆に自分の主張が立証されなければ、悪魔はいないということになり、いくら可能性を論じても誰も信じてくれません。  逆にあなたは「悪魔はいない」と主張するとします。しかし、これを立証するのは不可能です。なぜなら「いない」とは可能性論でしかなく、立証が難しいからです。そのため、通常証明責任は「いる」と主張する方が行うという考え方があります。  またもうひとつは、挑戦者側に証明責任があるという考え方です。つまり「格闘ゲームの最高峰はサードだ」と一方が主張した場合、それに対し「いや、違う」と反論したなら、反論者がその根拠を証明しなければならないのです。  これらの考え方はそれぞれ理に適っているので、よく使用されるのですが、これらがごっちゃになって使われていたり、これらを絶対のルールと勘違いして、「推論」などの思考法を愚かで低俗な行為だと、決め付ける輩もいるようです。

ここでは、証明責任の帰属に用いられる二種類の根拠を区別しようとしている。1つは、「いる」「いない」(「ある」「ない」という表現ではないが、まあ同じ)で「「いる」と主張する方」。もう1つは、「挑戦者側」。また、「Wikpedia:悪魔の証明」と同じく、絶対的なルールではないと言っている。

LIFE IS NOT ENOUGH. Shit!!!! - 血液型と性格 (勿論関係限りなく無) http://blogblog.psycho-therapist.biz/?eid=33719 (2006/5/17確認)

血液型と性格について関連がないと思っている私に説明する義務はない。 これは正論なのだ。なぜなら、言いだした方に証明責任がついてくる。 では、私はないと思っているのだから、無いことの証明をせよ、と言いだす香具師もいるだろう。残念でした。無いことを証明することは出来ない。だから、そんなこと無駄の極み。

これは上の「みさわの部屋 - 日々思うこと - 悪魔の証明」が言うところの、ごっちゃになっている例だろう。「言いだした方」と「無いこと」の2点が組み合わせられている。

ABOFANへの手紙(前半) http://www.obihiro.ac.jp/~psychology/abofan/abofan1.html (2006/5/17確認)

ある仮説についての立証責任は,その仮説を主張する側にしかない,ということです.血液型に関していえば,血液型と性格に関係があると主張する人がそれを立証する責任を持ちます.それ以外の人はその立証方法やデータに納得できるならそれを信じるし,納得できないなら信じないだけです.「信じない」理由は「信じる理由がない」だけで充分で,仮説を反証したり,信じない根拠を提出する責任はありません.

日本のプロの心理学者の言い分なのだが、そういう立場の人でも(というか、そうだからこそ)こんな主張をしている。これも(部分的に引用しているので仕方がないという面もあるが)ごっちゃな表現である。「仮説を主張する側」と言っているのに加えて「関係があると主張する人」となっている。注目は、「主張する側にしかない」という点。「主張する側」とはどうして片側だということがありましょうか。

さて、一般民衆から専門家まで広い範囲の人々による言説を並べたが、これらを見渡したところで―節々に私の小言が入っているし―何か気づいただろうか。

まず、「ある」を主張する人と「ない」を主張する人、どっちが証明しなければならないか。これについて考えよう。
上の引用に代表されるような、世間で言われていることのマジョリティは、「ある」と主張する側が証明責任を負う、というものである。その根拠は、「ない」を証明するほうが著しく困難だから(すなわち非対称)。
ここで、なぜ証明が困難なのかをよく考えてみてほしい。ここで前提されている「主張の内容」というのは、「ない」という主張のそれは、全称命題(普遍的な主張)である。それに対して「ある」という主張のそれは、存在命題(1つ以上ほにゃららという主張)である。もう一度言うが、これは上の引用のような主張が行われている場での暗黙の前提である。で、「すべての」を経験的に示すのは「1つ以上の」を示すのに比べて遥かに難しい(あるいは不可能)というわけだ。
しかし、何らかのエンティティに関してそれが「ある」あるいは「存在する」という言葉(科学的仮説を構成するテクニカルターム)は、述語論理での存在量化子の意味するところと同じではない。経験的証明の困難さの違いは、単に証明しようとする命題に含まれる全称量化や存在量化に由来するのであって、エンティティが「ある」とか「ない」とかいう述語(とあえて考えよう)には関係ない。
もっと具体的な例を挙げてみる。ふつうの自然科学の文脈を考えよう。あるAがこの宇宙に常に普遍に存在するとする。物理法則みたいなものを思い浮かべてもらえばよい(厳密な話になると面倒だが、ここでは簡単のために)。そうすると、「どこでもAがある」と主張する全称命題が作れることはすぐわかる。逆に「Aがないところも存在する」という「ない」の主張は存在命題になる。このような例では、上記の世間的な言説とは逆で、「ある」を証明するほうが難しくなる。「ない」という主張を証明するには1つでも「Aがない」ところを見つければよいが、「ある」という主張を証明するにはすべてを調べて「Aがある」ことを確認しなければならないからだ。
ということで、あるエンティティの「ある」「ない」という主張内容と、全称命題の経験的証明の困難の話は、別物である。従って、「ある」を主張する側が証明責任を負う、という言い分の根拠は否定される。

ただ、「ある」「ない」は無根拠だとして解体されたとしても、存在命題と全称命題の経験的検証における非対称性はそのとおり。それがそもそもこれらの命題の性質である。全称命題のほうが存在命題(すんわち全称命題の否定)よりも十分な証拠を示すのに労力がかかりそうだという自然的推論も確かだろう(これは帰納の正当化の問題のところでも述べた)。しかし、よく考えるべきは、通常の主張対立の場面で、全称命題vs.存在命題という構造になるものがどれほどあるか、ということだ。特に、科学的な説として何かを言わんとすることは、たいがいどちらも普遍的なことを言わんとするのである。そうすると実際のほとんどは、全称命題vs.全称命題の対決になっているのである。ゆえに、そのような場合、どちらがどちらよりも証明の責任を負う、とは一概に言えなくなる。両方全称だから、両方とも証明は難しい。もちろん、Popper流のfalsifiabilityを比べると片方がもう一方に完全に含まれるという場合もあり得て、その場合は証明の難しさについて確実に一方が上だということができようが、実質的に双方とも証明不可能ならそんな比較を根拠にしても仕方ないだろう。結局、おあいこである。こういう場合、より多くの確からしい証拠を示して、よりsupportiveに論述したほうが優勢になるだけである。証拠を示すことを「責任」と呼んでなすりつけ合うのは非生産的というか、そんな方略に出たほうが不利になるだけである。
結局、全称vs.存在という図式が根拠として使えることはあまりないからそればかりを信頼しないほうがいい。

次に、もうひつとの基準、(「みさわの部屋 - 日々思うこと - 悪魔の証明」の表現での)「挑戦者側」について考えてみる。
「LIFE IS NOT ENOUGH. Shit!!!! - 血液型と性格 (勿論関係限りなく無)」での「言いだした方」という表現も同じことを言いたいと思われる。「ABOFANへの手紙(前半) 」が「仮説を主張する側」という表現で述べていることも、こちらの根拠に関係する話だろう。
この根拠は、「事象の地平線 - 環境ホルモン濫訴事件:ちょうど1周年」の「新規」性の概念と関係すると思われる。新しいことを言う人は、古い主張への挑戦者であることが多い。
こちらの根拠はそれなりに理があるように聞こえるが、さて、この基準を説明するのにもっとよい概念はないものか。

ここで、私の考えを述べよう。
誰が証明責任があるかの判断基準は、ある種の「直観」である。それは、「常識」とも言えるかもしれない。つまり、デフォルトが何であるか、ということだ。もちろん、直観とは個人的なものであるから、ある事柄についてのデフォルトが何であるかは人によって異なり得る。それゆえ、証明責任が誰にあるかは人によって見え方が違う。だからこそ言い争いのタネにもなるのだ。

このような観点から考えれば、これまでに述べたことがすんなり説明できるように思われる。
「挑戦者側」というのは、デフォルトへの挑戦者、ということである。その場合、デフォルトは多くの人に共有されていることが多いだろう(なにせデフォルトになるくらいだから)。デフォルトではない主張、説明をする人にはそれを証明する責任があるように(デフォルト説明を信じている人には)思われる。逆に、奇々怪々な主張に反対して科学的に権威ある(まともな)主張をする場合でも、その奇々怪々な主張がデフォルト(まとも)だと思っている人たちにとっては、(異端である)科学的に権威ある主張をする側に証明責任があると感じられるはずだ。
また、前述の「新規」性というのは、デフォルトではない、ということと関連する。デフォルトでない新しいことを主張する側に証明責任があるとヒトは感じる。また、これが正しいならば、仮説的に、ある主張が新規であってもデフォルトでないことがなければ(まわりくどい言い方だが)、とくに証明の責任を負わされることはないはず。たとえば、Aについて何も主張がない状態(Aを一切考えたことがない状態)では、確かにAについての主張は新しいと感じられるだろうが、デフォルトがあったわけではないので、それについてどうこう言われることがそもそもない。すなわち反論が存在しない。このようなことから、「新規」というより「デフォルト」がむしろ本質的である。
「言いだした方」あるいは「仮説を主張する側」というのは、そのような場面を考えればわかるように、「言い出し」たり「仮説を主張」したりする前に、たいていそれ以前の(既有の)主張や説明があるはずである。その場合において、「言い出した方」は非デフォルトの主張をすることになり、そして説明責任を帰属される。そうでない場合、すなわち、「言い出した」ことがデフォルトであったり(そんなことをわざわざ「言う」人がいるか知らないが)、先ほどの「新規」の話のようにそれ以前の主張が存在しなかったりすると、「言い出した側」には説明責任があるとは感じられないだろう。

このように、「新規」や「挑戦者側」という根拠は「デフォルト」によって統合できるが、それだけでなく例の「ある」「なし」もこれに結びつけることができる。
というのも、人間の認識のデフォルトはどういうわけか「なし」なのである(これが私の研究課題の1つ)。これについて論理的に正当化することはできない。科学的命題のsimplicityの話を持ち出す人がいるかもしれないが、単純性原理それ自体論理的な正当化に成功しない。「なし」がデフォルトである論理的必然性はないのである。しかし、実際にこの世に生きるわれわれの認識システムは、あらゆるものをとりあえず「ない」と見なすことから出発する。そして、説明に必要だと思われるものにだけ「ある」を認めるのである。よって、われわれが「デフォルト」としているものは、「ない」というコミットメントであることが圧倒的に多い。それによって、「ある」を主張する側が非デフォルトである(よって説明責任が課される)頻度が多くなり、「ある」を主張する側が必ず証明責任を負う、というような誤解が生まれたと考えられる。

おわかりのとおり、ここまでで述べたことは、「人は一般に、誰に説明責任があると”感じる”か」という話である。公共的基準がどうあるべきか、という話ではない。ではさて、どうあるべきなのだろうか。
私としては、「公共的な証明責任の基準を立てることはできそうにない」と考える。というのも、証明責任は競合する主張があるから発生するわけで、主張というのはそれぞれの人が主観的に持っているものだ。それぞれが自分の主張をデフォルトだと思っていたら、互いに相手側に証明責任があると思うだろう。では、競合する複数の主張の中で、どれがtruerだなどと証拠無しにアプリオリに決めることができるだろうか。つまり、主観的な価値に優劣が付けれるだろうか、ということだ。それは無理な話なように私には思われる。
とある主張が社会的に権威だとされる場合があるだろう。コミュニティのマジョリティが支持していればそうなることがほとんどだ。そういう場合、それに反する主張をする側が証明責任を負え、と言われることになるだろうが、それは多数が支持しているから多数が「おまえに証明責任がある」と言い、その結果、多数決の被害に遭うだけであって、主張内容そのものが多数派のほうが優れているというわけでは必ずしもない。多数が支持しているが間違っていたり説明力がなかったりする説なんてたくさんある。内容の「事前優劣」なるものがつけられないときに、人数によってどちらが証明する必要があるかどうかが決まるのはおかしいだろう。
結局、どちらに証明責任があるかは、規範的に決められない。その場の成り行き(大勢に信じられているのは何かとか)で情勢的に追いやられるのである。言い換えれば、どちらにも「責任」はない。ただ証明すれば自分の主張の強力な援護にはなるから、証明したい人はすればよい。それだけなのだ。

CT用のネタです。

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コメント

5年前の記事にコメントするのもどうかと思いつつ、面白かったのでコメントさせていただきます。

「証明責任の所在はデフォルトによって規定される」という貴殿の見解は、卓見であると思います。そして、この記事は「科学的フィールドにおける証明責任」について論じているということですが、実は、「法学上の証明責任」もまったく同じように、デフォルト(反対命題が立証されなかった場合に「真」と看做されるのが妥当と思われる命題)が何かによって、個別具体的に判断されています。なので、時代によって(学説や判例の潮流によって)変遷したりもします。

さらに、私見では、「証明責任というものは、必ずしも設定しなければならないものではない」と考えます。

法学(訴訟法)上は、法律上の結論を出すために決定しなければならない「要件事実」については、原告か被告のどちらかに必ず、証明責任が設定されます。裁判所は必ず、どちらを勝たせるかを決めなければいけないからです。「真偽不明(ノンリケット)なので、結論は出せません」という判決をすることは、裁判所には許されていません。

一方、科学上の議論等では、「分からない」と結論付けることが許されています。対立する両説があり、どちらも自分が正しいことを証明できなければ、人々は、「どちらが正しいのかは(まだ)分からない。あるいはどちらも間違っているのかもしれない。」と思っておけば良いのです。

真偽不明の状態で、直ちに結論を出す必要がある場合にだけ、証明責任の出番があります。そうでない場合は、
「誰かが何かを証明するまで、結論は保留しておく」
というのが理性的な対応ではないかと思いますが、いかがでしょうか?

投稿: 通りすがり | 2011年6月12日 (日) 21時34分

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