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2006年6月

社会的規範

昨日の授業で社会的規範social normsの話が出たので、ちらっと書いてみる。

社会的規範とは何か。
ある程度数の人間の行動(とくに社会的行動)に見出された一致性あるいは類似性(につけた呼び名)、といってよいだろうか。
もしこれでOKならば、その主体がどのようにその行動をするに至ったか(どういう理由で選択したか、など)はどうでもよいことになる。ただ複数の個体間に行動の共通性があればよい。この点の話は授業中にも出した。
しかし、そうしてしまうことへの違和感は多くの人が感じるものだろう。無意識にある特定の行動をしているのも、「そうするべきだ」という強い道徳観のもとである行動をしているのも、同じとして扱ってよいのか。つまり、規範と呼ぶべきものは、意識的な自覚が含意されているのではないか、ということだ。どのような行動原因でもよいわけではなく、それを規範として自覚していなければ、「規範がある」とも「規範に従った」とも言えないのではないか。そんな疑念が浮かび上がってくる。
では、(他の行動よりも)ある特定の行動をしたほうがよい、という「価値」で、かつ、それにもとづいた意図的行為をデフォルトでもたらすものを、社会的規範と呼んでみよう。(もしかすると「かつ」のうしろ側はいらないという人がいるかもしれないが、その点の話はまた後にする。)
もしこの後者の社会的規範が正しい定義ならば、授業中に紹介された進化ゲーム理論的アプローチに見られるような行動ベースの分析は、用をなさないことになる。行動でなくその背後の原因(と仮定される内的表象)によって社会的規範があるかないかを選り分けなければならないのだから、行動しか見ない方法論では社会的規範にタッチできない。
そして、この自覚的社会的規範を採用してしまうと、人間以外ではそれについて研究することが困難になるだろう。行動だけ見ていてはいけないのだから。この事情から、研究者が対象と円滑な(と思われる)コミュニケーションをとれるというただその利点のみに依拠して、「社会的規範を持つ」という点の人間の優位性や独自性が語られることになってしまってはいないか。もしかしたら他の生物も社会的規範を持っているかもしれないが、そいつらの(推定上の)自覚を確認する方法を人間が持っていないから、社会的規範を持たないと早とちりで烙印を押されてしまっているのかもしれない。

このジレンマをどう解決すればよいか。いや、実は、社会的規範という言葉をどっちの意味で使うのがよいかを決めて、もう一方に別のテクニカルタームを当てればよいだけなのだが。私としては、やはり後者を社会的規範とするのが無用な混乱を生じなくてよいように思われる。制度論的なアプローチをするにも、こっちのほうが都合がよいと思うし。
でもそうすると、やっぱり、社会性の分析にも意識的自覚が問題になってくるよね。そして、意識なしの社会(と一般に思われているもの)をどう扱うのかという問題とバトルすることになるよね・・・。
意識、自覚、行動選択、これらをどう切り分けてどう扱うか。結局この問題になってしまうのだよ。
で、私の言う「意識の社会的起源」説がでてきてループする、と。

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素朴心理学の縮減

ちょっと前のプレゼンで本腰入れて私の理論の1割ほどを紹介したのだが、それでも説明時間が足りなかったためにこうしてちょこちょこ補足説明するハメになる。

素朴心理学の縮減を唱えて久しい。事典を構成したのは、そのためでもある。純真無垢な学部生だったころから、「態度って何ですか?どうして前提されているんですか?」「動機って何ですか?」「記憶って何ですか?」「性格って何ですか?」こんな質問をして、先生や上級生を困らせたものだ。
わからない概念は使わないのが当然だと思われるのに、どうしてか「なんとかそれを説明しよう」という方向に進もうとする人たちが多い。

そもそもこんな問題が登場するのは、解釈と予測を区別していないからではないだろうか。というか、何のために理論を作ろうと試みているのか自覚していないからだと言ったほうがよいかもしれない。

「物理主義が正しいから、消去主義的に素朴心理学はなくしていこう」というのが私の主張なのではない。私にとって素朴心理学的概念を専門家の現場から減らす理由は、そこではない。単に、明確化と混乱の除去という理由である。たとえ物理主義が誤っていても、私の言うところの縮減は正当化され得る。

また、これは縮減であって消去ではない。完全に消去するわけにはいかない理由は以前にも述べたとおりである。私は説明一般に関してかなり道具主義的であるし、江戸川コナンのいう「真実はいつもひとつ」には賛成しない人なので、たとえ神経科学的理論で神経系の振舞いが完全に予測できる日が来たとしても、それ以外の説明概念が消去されなければならないということはないと考える。

さて、心の概念は行動の専門的説明概念として競争を生き残れるだろうか。

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意識と意志と意義

先の講演のあとで下條さんと私が何をしゃべっていたのか気になる人がいるみたいなので、公にしましょう。

講演内容は既知の話題ばかりで肝心のところが触れられなかった。ので、質問したわけだ。
ポストディクションと呼ぶ類の過程がたしかに存在するようだが、それはどうしてなのか?と。それについて何か持論があるのか?と。
つまり、そのように「後付け」で知覚や自由意志の感覚や主観的時間がつくられているとしても、だからそれにどんな意義、すなわち何らかの機能があるのか?あるいは無意味なのか?
あるいは、この話は科学的探求の範囲外であって、科学者として答えなくてよいものなのか。
下條さんによると、これには予測的な機能があるだろう、ということらしい。これは私も賛成した。マクロなレベルではうまくいくことをこのくらいのタイムスケールにするとなにかおかしな現象に見える、ということも言っていた。
しかし、それでは根本的な問題は解決しない。すなわち、そのような予測的な機能があるとしても、どうしてそれを意識的に自覚している必要があるのか、ということだ。脳が(意識を伴わず)パルスを縦横無尽に走らせるだけのことでこの機能が実現できているなら、そのように働いているだけで十分だろう。それに意識的な自覚が伴う必要はない。結局、意識がなぜそこに付いてくる必要があるのか、については答えられていないわけだ。

こうして、問題は棚上げされた。わからずじまい。しかし、この点が問題だということは認めても、下條さんは望みは捨てていないようだ。科学的方法でアプローチ可能だと考えているらしい。つまり「範囲外」ではない、と。

やはり、問題の捉え方を変えねばなるまい(私にとっては何も変わらないのだが他の人の考え方を変えるという意味で)。

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