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意識と意志と意義

先の講演のあとで下條さんと私が何をしゃべっていたのか気になる人がいるみたいなので、公にしましょう。

講演内容は既知の話題ばかりで肝心のところが触れられなかった。ので、質問したわけだ。
ポストディクションと呼ぶ類の過程がたしかに存在するようだが、それはどうしてなのか?と。それについて何か持論があるのか?と。
つまり、そのように「後付け」で知覚や自由意志の感覚や主観的時間がつくられているとしても、だからそれにどんな意義、すなわち何らかの機能があるのか?あるいは無意味なのか?
あるいは、この話は科学的探求の範囲外であって、科学者として答えなくてよいものなのか。
下條さんによると、これには予測的な機能があるだろう、ということらしい。これは私も賛成した。マクロなレベルではうまくいくことをこのくらいのタイムスケールにするとなにかおかしな現象に見える、ということも言っていた。
しかし、それでは根本的な問題は解決しない。すなわち、そのような予測的な機能があるとしても、どうしてそれを意識的に自覚している必要があるのか、ということだ。脳が(意識を伴わず)パルスを縦横無尽に走らせるだけのことでこの機能が実現できているなら、そのように働いているだけで十分だろう。それに意識的な自覚が伴う必要はない。結局、意識がなぜそこに付いてくる必要があるのか、については答えられていないわけだ。

こうして、問題は棚上げされた。わからずじまい。しかし、この点が問題だということは認めても、下條さんは望みは捨てていないようだ。科学的方法でアプローチ可能だと考えているらしい。つまり「範囲外」ではない、と。

やはり、問題の捉え方を変えねばなるまい(私にとっては何も変わらないのだが他の人の考え方を変えるという意味で)。

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