« 社会性 | トップページ | モデルと認知科学 »

行為する有限の人間

先日のゼミでの発表で、私の持論である「有限の人間」観と「行為する人間」観を説明した。
それに対して、その場で賢明なMさんからコメントをいただいた。
「それはFiskeのいうthinking is for doingと同じではないのか?」
これに対するそのときの私の返答は、
「ええ、まったく反対方向ではないですね。」
なんて不親切なんだ!!われながら感心する。
連関が-1じゃないですねって、ほとんど情報与えてないよ。
こういう受け答えは見習わないでくださいね、みなさん。使いどころが難しいですから。

しかも、そのときに「cognitive miserと有限の人間、motivated tacticianと行為する人間が対応するように見えますね」とわざわざ付け加えたのは私自身だ。
ようやく不十分だろう説明を補う。
たしかに安直な人にはそのように見えるかもしれないが、私の言っていることはFiskeのそれと同じではない。

まず、cognitive miserと「有限の人間」観はどう違うか。miserとは、WordNetによれば、a stingy hoarder of money and possessions (often living miserably) である。日本語の教科書ではケチや倹約家と訳されている。これは、故意にあるいは方略的に倹約的であることを選択している、リソースの温存を目指している、というニュアンスである。実際に、Fiske & Taylor (1991, p.13)には、

The idea is that people are limited in their capacity to process information, so they take shortcuts whenever they can... People adopt strategies that simplify complex problems; the strategies may not be normatively correct or produce normatively correct answers, but they emphasize efficiency.

と述べてある。
しかし、私が「有限の人間」観で強調しているのはそういうことではない。倹約を意図しようがしまいが、どの方略を選ぼうが(たとえ無意識的にでも)、そんなことに関係なく、そもそも原理的に人間は有限でしかない、と言っているのである。選択の余地はない。上の引用のはじめの people are limited in their capacity to process information には同意するが、そこから so でつながる下りは「有限の人間」観には含まれない。どんなにがんばろうとも、有限なのである。倹約しなくても有限なのである。「有限の人間」観はそのことを言っている。人間がいかにうまいことやっているように見えようとも、この制約の下でのことであるから、そういう前提でモデルを考えなきゃね、というインプリケーションである。

次に、motivated tacticianと「行為する人間」観はどう違うか。Fiske & Taylor (1991, p.13) は motivated tacticianについて、

a fully engaged thinker who has multiple cognitive strategies available and chooses among them based on goals, motives, and needs: sometimes the motivated tactician chooses wisely, in the interests of adaptability and accuracy, and sometimes the motivated tactician chooses defensively, in the interests of speed or self-esteem

と記述している。
その後、Fiske (1992, p.877) ではthinking is for doingについて

After a hiatus, during which social cognition research neglected its proper atonement to social behavior, researchers again are emphasizing that thinking is for doing, that social understanding operates in the service of social interaction.

と書いている。ここで言われている neglected には同意する。しかし、「行為する人間」観は、motivated tactician とも thinking is for doing とも強調点が異なる。
「行為する人間」観は、「人間は行為する。ゆえに、goal-oriented behaviorを産出できるメカニズムを備えているはずだ。」と考えるところから始まる。ここで行為は goal-oriented behavior の一種と定義している。そこから、「ゆえに、そのレベルでも自己制御系であるはずだ。」と推論する。これらの一連の推論は、論理的には保証されないけれども自然的にはもっともらしい。それ以外の可能性では、パペットになってしまうからだ。
行為が人間の行動のすべててではないが、多くの心理学者が興味を持っているのは行動の中でも行為であり、それを客観的に説明したいならさまざまな機能(認知機能を含む)も自己制御系の観点から考えろ、というのが「行為する人間」観とそれにもとづく自己制御フレームワークである。これにおいては「人間は常に行為する」という類の人間の定義には踏み込んでいない。
このことから、motivated tactician の motivated(に見える)には半分同意する。それは、すべてではないが、自己制御系の重要な側面の1つだからだ。tacticianの部分は、それが「故意」を含意しないなら、という条件つき(そうすると日常的な意味ではなくなってしまうが)ならば同意される。ここでも、意識的な選択というニュアンスは余分である。なにせ私はこれを他ならぬ行動学的心理学のフレームワークとして提唱しているのだから。
thinking is for doingと「行為する人間」観との間には、thinkingの見方に共通するものがあるが、「行為する人間」観は対象を社会的な思考に限定していない。一般的な思考を含むあらゆる認知機能についてのインプリケーションを含むだけでなく、認知機能に限定すらしない。そういう意味で、上の引用と比べると、視野が異なるように感じる。

以上でズレ具合がだいたいわかっていただけると思う。私のは人間観と銘打っているくらいで、かなり広い下敷きなのだ。

|

« 社会性 | トップページ | モデルと認知科学 »

Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/2812411

この記事へのトラックバック一覧です: 行為する有限の人間:

« 社会性 | トップページ | モデルと認知科学 »