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人間が機械である素朴さ

どうして人間機械論は受け入れられないのか。はたまた、どうして受け入れられるのか。

これはとても不思議な(それゆえ心理学的にも興味深い研究対象となるだろう)問題である。
ご存知のとおり、Descartes的な生物の機械論をさらに徹底した人間機械論で有名なのは Julien Offroy de La Mettrie である。少なくともその時代から、この問題はずっと論争の的だった。

「人間は機械である。」という結論に行き着くには、通常いくつかの推論段階を経る。

「すべての人間は生物である。」これをまず認めるのが典型的な道である(そうである必要はないが)。しかし、この命題を否定する人は、学者でなくとも一般人にもまずいない。「宇宙船地球号だ、人間は他の動物と同じ(並列的な)乗組員の一人なんだ」などというコピーが大多数に受け入れられているようだし。「人間は生物ではない」などという主張をまじめな顔をして叫んでいるのは宗教斡旋者以外に私は知らない。
次に、「すべての生物は機械である。」ここでは先ほどよりも同意者が多少減る。袂を分かつのはいわゆる生気論者が典型的である。ほとんどすべての現代生物学者は生物の行動をすべてmechanisticに説明できると考えている。一般の人々においては、素朴生気論者であることが少なくない。生気論者であるかどうかは教育水準と相関するかもしれないが、何分勉強不足ゆえ私はこれについての実証的データを見たことはない。まあ、生物学者のスタンスを正しいと信じている人は多い。

これら2つの命題を前提とした演繹によって、「すべての人間は機械である。」が導かれる。
つまり、「人間は機械である」を信じるのは、「人間は生物である」と「生物は機械である」を両方信じている場合がほとんど(すべてかも)で、少なくともどちらか一方を信じていなければ「人間は機械である」を信じはしない。

「生物は機械である」については、素朴生物学に関する興味深い研究がなされてきているので、これが心理学者の心をくすぐるのは間違いないだろう。直観的に、バクテリアやアブラムシやミミズはそれ自体が備える物理学的メカニズムにもとづいて動いているだろうと、多くの大人は信じている。そこからまじめに(一貫性を重視して)考えると、同じことは大きな植物や動物にも言えるだろうから、すべての生物の行動は物理的メカニズムにのみのっとっているであろうと信じる。しかしこれは、昔から持っていた生物と機械の差異についての直観(古典力学的法則に従う動きと生物の動きとの差異)、生物的な動きを見たときの印象、と対立しがちなため、とまどう人がいくらか出る。でも学者は論理重視だから、主観的印象は二の次。

もっと興味深いのは、実は、「人間は生物である」のほうだったりする。こっちはおそらくほとんど研究されていない。この直観が不思議だというのをずっと前から私は訴えているのだが、どうしてなのかつかみどころがない。いつから私は人間を生物だと思うようになったのだろうか。これも教育の賜物なのか。あるいは、Carey流の「生物は人間である」からきているのかもしれない。もちろん、これを否定した哲学者さんたちもいた訳ですから、誰もが認めるというものでもないのだが、ここまで万人に受け入れられているのは不思議でならない。人間が生物でない可能性はどこへいったのだろう。

まあ、このようにして、結構簡単に、「人間は機械である」は受け入れられてしまう。受け入れない少数の人は、「生物は機械である」を受け入れない人たちである。もう一方の命題ではおそらくない。
それゆえに、機械論的に人間の行動を説明しようとする学者が多数派を占める現状になるのも当然の成り行きである。そう、「機械とは何ぞや?」がここで重要な問題になるはずなのだが、これをまじめに考えている科学者は滅多にいない。たいていは素朴に扱っている。
このようなご時勢から、「人間は機械ではない」などというと四方八方から馬鹿にされる・・・はずである。が、そうともいえない事情があるようだ。

事が複雑になるのは、さらに次の命題もついてくるからである。
「私は人間である。」
これを先の演繹推論に加えると、「私は機械である。」が結論される。これがどうも腑に落ちないらしい。よって、「人間は機械である」は保留にする人がいる。一連の命題を全部真だと認めてしまうと「私は機械である。」が真になってしまうので、この結論を回避するにはどれか1つ以上を拒否しなければならない。どれを消す人が多いのかわからないが(「生物は機械である」なのか?)、どれも認めるのが当然と(大多数には)思われているから、場内騒然となって哲学者がウキウキする事態となるわけだ。一徹、「そうだ、私は機械だ。」という人もいるし、どっかを否定してなにかうまい回避策をひねり出そうと必死になる人もいる。

よく考えると、ここでも不思議なのは、「私は人間である。」が先の「人間は生物である。」と同等かそれ以上に万人に受け入れられていることである。これも未だによくわからない、興味深い問題である。どうしてみんなそう信じるようになったのだろう。私が人間でない可能性はどこへ行ったのだろうか?

ということで、人間機械論さらには私機械論の素朴知識は、 私→人間→生物→機械 という連鎖からなっていて、各々の知識から最終的に私は機械だということになる。
それぞれ個別の命題を、皆がやるように素朴に正しいと信じるだけでよい。さすれば、論理が例外なくあなたをアンドロイドにしてくれる。

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