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2006年9月

ハチクロ

「消えてしまったものは最初からなかったものと同じなのかな」

ロマンスの世界で物語る人(理屈の世界との並存可能性を受け入れられない人)にとってはおもしろくないかもしれませんが、私としては理屈の世界の展望台からまじめに回答しましょう。

まず、「消える」と「最初から無い」は明らかに意味が異なります。とりあえず「消える」を「存在」から「非存在」への転化として定義しましょう(とりあえずね)。「最初から無い」は「常に非存在」として定義しましょう。両方とも時間軸上の間隔の概念が必要ですが、ある期間を対象と定めると、両者が異なるのは明確です。・・・ここまでは、つまらんですね。
問題は、このフレーズの「同じなのかな」で問うている「同じ」の意味です。(「もの」の意味は今回は扱わないことにしましょう。)
解釈のひとつとして、「意義が同じ」というのがあるでしょう。しかしこれでも「意義」の意味を定める必要があります。策の一つとして、「今後への影響力が同じ」としてみましょう。
人間を(memoryを持たない)state-determined system(マルコフ過程)と考えるなら、ある時点で「非存在」という状態であるならば、その後のprocessはその状態で一意に決まりますから、「消えた」結果の「非存在」でも「最初から無い」ゆえの「非存在」でもその人間の今後の道のりは同じです。しかし、人間がhistory-determined systemであるならば、ある瞬間の状態だけで過程を決められませんから、「消える」と「最初からない」の結末(今後への影響)は異なる可能性があります。そして、通常は人間はmemoryを持ったstate-determined systemだと考えられています。memoryとは、history-determinedのような振る舞いを見せるsystemをstate-determinedの枠内で説明するための概念です。よってこのmemoryの状態も同一であれば、「消える」と「最初からない」で違いはなくなりますが、通常はmemory状態は過去の状態を反映している(痕跡がある)と考えられる概念ですので(その程度が問題になりますが)、「消える」と「最初からない」で現在のmemory状態が異なるならば、それは未来への影響力が異なることになり、結論として「同じではない」ことになります。

ただ、「意義」をこのように解釈することへの反論もあります。未来への影響だけで意義を決定できない、と。(ここでの「未来」とはあるeventの後の時間を指すので、過去の出来事でもそのeventより後であれば「未来」です。) しかしこれは自然科学者の見方としては劣勢意見でしょう。

よって、心理学で主流な考え方では、「消える」と「最初から無い」は、現在のmemory状態が同じならば(かつ他の事情がすべて同じならば)将来への過程(状態の遷移確率)に違いは無く、現在のmemory状態が異なるならば(他の事情がすべて同じであっても)、将来(例えばその人の人生)において過程が異なり得ます。
ですから、「消える」と「最初から無い」が同じかどうかは、その出来事を記憶しているかどうかにかかっている訳です。忘れてしまっては同じになってしまうのです。
なんか希望的な結論になりましたね。

「実らなかった恋に意味はあるのかな」

「実らなかった」はまだ比較的あいまい性が少ないでしょうが、「意味」の意味を定めなければこの問いには答えられません。冒頭のフレーズと同じように定義して考える手もありますが・・・。まあこっちは皆さんに任せましょう。


もちろん、これ心理学者のためのネタです。

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主観性と科学性

おなじみ学会レポ、「社会的認知研究における「主観性」と「科学性」」。
最近よくこの手のシンポやワークショップが開かれているが、こういう話を聞くと多くの心理学者の無頓着さというか閉じこもり具合が強調されて感じる。こういう指摘は決して強調しすぎではないと私は思う。そして彼らの関心はいきなり脳科学へ行くのである。まるで一般市民のようだ。
まともに考えている心理学者(今回は唐沢さん、池上さん、竹村さん、亀田さん)がもっと増えればよいだが、応用研究者はそういうことに関心がないのだろうか。

ともかくいつもどおりコメントを。

池上さんは「社会認知研究は主観を理解することを第一としてやっている。行動の予測は二の次。」なんてことを言われた。
そりゃたしかに現状そうなってると私も思うが(社会認知研究だけに限らず)、堂々と言ってしまうのはさすが池上さんと言うべきか。そしてさらに、実学的要請に(直接)応えることを放棄しているらしい。そこまで言うか。
まあ発表は Wegner & Gilbert (2000) の紹介なんだけど、そのまま断りはなかったので、池上さんも賛同ということで問題ないだろう。それが実情なら、社会認知研究者はいったいどうやって科研費取っているんだ(いや、申請書作成スキルの問題とかいう話をしたいのではなく)。
また、池上さんは、社会認知研究者が脳科学に行くのは賛成しないとおっしゃった。これは私も賛同できる(私と理由が一致しているかはわからなかったが)。

戸田山さんは、「データの主観性」に関して2種類の主観性を区別されていた。私なりに言い換えるなら、これは「観察者が報告することの非客観性」と「データに反映される主観性」の区別である。
前者は、(外界の)観察が客観的と言えるどうかの話で、観察対象には関係ない。物理学で扱われるような研究対象であっても、この意味の主観性はあり得る。
後者は、データ(=観察結果)がその個体独自の(=主観的な)ものを反映していると見なせるかどうかという、観察内容の特徴の話。こちらの主観性は、特定の心理学の分野がそれを調べたいと考えるまさにそのものであり(例えば視知覚や対人印象形成)、これが反映されているように見える「データ」を(謙虚に)扱っても別段problematicではない。
この区別には私も同意する。というのも私はヴント派の研究が完全に間違っているとは思っていない。あれは、観察結果を一般化しようとした点が批判の対象になっただけであり、その実験参加者に関しては紛れもなくその人についての客観的記述をしたデータなのだ(少なくとも一部は)。要は自己報告というデータを扱うスタンスという話に行き着くのである。

また、戸田山さんは、こういう場に来てトークするときにいつも心理学と他の分野とのインターフェイスをもっと研究してとお願いされる。そういうときに戸田山さんが「インターフェイス」と言っている意味は、lower levelへの還元ではない(それは本人も強調している)。さらには、物理主義へコミットしろなんてことも意味していないだろう、おそらく。(戸田山さんはconnectionistのようだけど。)心身問題に関してどのような立場を取るかはともかくとして、とりあえず現在の心理学者が閉鎖的に見えるからインターフェイスを考えようよ、という程度の意味だと私は解釈している。
だけど、戸田山さんの説明が(たいていの心理学者に対しては)十分でないから(いつもトークの制限時間のせいもあるだろうけど)、多くの聴衆に誤解されていると思われる。

竹村さんが言うには、社会認知研究の中でも Malle (2001) や Greenwald & Banaji (1995) は自然科学的でない例らしい(影響力があるから選んだのだろうが)。これらの研究の読み方については、私と真逆である。私はこれらの研究こそ(社会)認知研究の中でも他分野(特に生物学)とのインターフェイスに近い研究だと思っている。そしてそれゆえ、私自身の心理学的立場とも近い。特に、Malleの言語学的手法は竹村さんの目には人文学的に写るようだ。これも先述の「自己(言語)報告データの扱い」に関係するけどね。
また、竹村さん曰く、意図や動機の概念は、自然科学とのつながりではなく、処方的な意義があって、社会認知研究に要請されるのは、社会問題への貢献である、らしい。この点で、亀田さんに「その処方は有効なのか」とツッコまれていたけれど、竹村さんの言う処方と亀田さんのイメージする処方は意味がずれていると思われる(どちらも言いたいことはわかるが)。

藤井さん欠席は残念だ。スライド1枚のコメントの中には社会科学に対する誤解がある気がするが、それだけで確かめようがなかったので今後に期待。

亀田さん曰く、行動を心的概念で説明するのはトートロジーになっててダメだが、心的概念が従属変数ならOKらしい。これは意味が曖昧で(しかもさらっと流したので)何ともいえないが、言いたいだろうことはわかる気がする。賛成するかは別だが。だってそれって厳密に言えば従属変数じゃないし。
加えて、社会的関係、マクロパタンの説明には説明概念としての「心」は必須、ということらしい。で、最後通牒ゲームを例に出す、と。出たよ、北大節。しかしながら、通俗的にmentalだと思われている概念の中でも、亀田さんが引き合いに出された「期待」のような概念と、批判の的になりがちな「命題的態度」のような概念は取り扱いを区別すべきかも。少なくとも新行動主義者はそう考えると思う。
いやそれ以前に、説明の中でどう使われるかよりも、それが何であるか(存在論的仮定)のほうが心理学者の構成概念に関しては核心的問題だと私は思うんだけど。こっちでズバッと切れるよね。


さて一通り各論客に対するコメントを書いたが、そもそも私ならWSのお題にどう答えるかというと、「この問いの立て方がおかしい」と言うだろう。私の立場をご存知の方ならもうおわかりだと思うが、「心理学は科学か」とか「~~なので心理学は科学ではない」とか「心理学を科学にするにはどうすればよいか」とか考えるのは方向が逆である。どうして「科学」なんて(とりあえずこの項では通俗的に「科学」とは「科学的学問」の意としておく。私の推奨とは異なるが。)わけわからん概念が心理学に先立って、心理学の外に、あると考えるのか。心理学がまずありきなのである。そこから科学とはどういうものかを考えるのがまともな方向だろう。典型的には物理学が科学の定義を担うと思われているようだが(とくに心理学者によって)、もしそうならば確かに心理学とは独立に科学が定義できるかもしれない。しかしね、そういう特定の実質的学問(例えば物理学)が科学の定義(あるいは十分条件)として採用されなければならない理由はないのである。つまり「科学とは何か」のほうが、特定の学問群(例えば、物理学、天文学、生物学、医学、心理学などを範囲に入れるかもしれない)を俯瞰して議論されるべき問いなのである。だから、心理学はドンと構えておけばよいのであり(戸田山さんも似たようなことを言うと思うが)、心理学者が「自分のやっていることは「科学」なのか?」なんてハラハラドキドキする必要はないのである。科学(的)であるかどうかは、そういう実質的な学問間の共通性を調べたい人が「科学」という概念を定義しその上で(あるいは、しながら)考えることである。
では、心理学者は自分たちのやり方について何も考えなくてよいかというと、そうではない。心理学者に必要なのは、「自分たちの学問としてはどういう条件が満たされていれば(あるいは目指していれば)OKなのか」を考えることである。例えば、ある人は「客観性」が大切だと考えるとしよう。その場合、「客観性とは何か」とか「どういう要件が満たされていれば客観的と言ってよいか」とか、そういうことを考える。これはぜひ行うべきことである。しかし決して「科学と言ってよいか」を考えるのではない。深く悩んで考えるべきは、心理学という学問の目的に照らして目指されるべき個々の条件(やもしあるとすれば条件相互の関係)なのである。で、どういう条件をあつめて「科学」を定義するかは、「心理学」ではなく「科学」を考える人の仕事なのである。兼業している人は両方考えればよかろうが、心理学に活動範囲を限定している専門家は心理学に必要なものを考えておけば十分仕事はこなせているのだ。
ということで、社会的認知研究が主観的かどうかはともかく(それは別に議論するとして)、社会的認知研究が科学的かどうかなんて問いは意義がない(物理学的かどうかならば幾分意義があるが)。そうではなくて、社会的認知研究に必須なものは、客観性なのか、再現可能性なのか、普遍性なのか、主観性は要件には関係ないのか、などなどを煎じ詰めるべきである。なぜなら、こういう問いについて現状で社会認知研究者間の合意があるとは言えないだろうから。そして、科学的かどうかは、科学の定義にもよるのだから、外野に任せておけばよいのである。どんなヤジが飛ぼうが(実際には飛んでこないのだが)、自分たちが欠かせないと思う部分さえ確保していれば自信を失うことはないだろ。それができていないから不安になるのである。

どうして心理学者はこう「(自然)科学恐怖症」なんでしょうかね。というか、外の分野を見るときに、どうして外の人たちがやっていることに従おうとするだけで、「お前ら俺を見習えよ」的な方向に行かないんでしょうかね。

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不可識別者同一の原理

今日はじめて知ったのだが、以前に書いた同一性と識別可能性の話の根幹に関わる形而上学は principle of the identity of indiscernibles と呼ばれているようだ。
しかも Leibniz's law という別名があるらしい。
私が考えていることについてすでに先人が同じことを考えていた、というパターンを山ほど経験しているが、これもそのうちの一つに埋もれてしまうようだ。まあ私は車輪の再発明を楽しんだり、知恵の輪の位相構造を考えてニンマリしたりするタチで、おもしろかったならそれでよい。

ちなみに、この原理(というかより正確には昔の記事に書いたこと)は信念系の理論に深く関わるものだ。
物理世界においては、いくつかの形而上学的仮定(といっても常識的、素朴物理学的な仮定で十分)の下では、ある時刻のある対象Aと同一なのはそのAしかない。次の瞬間のA'はAではない。厳密に言えば。すると、日常的に同一と呼んでいるものは、対象についていくらか捨象している。
しかし、信念系において同一に表現されるならば、それらは同一なのである。もし、同じ対象に対して異なる内容の信念を形成することがあれば、それらは非同一である(前にも書いたけど)。ただ、上述の仮定の下で、かつ、1つの対象について同時に2つ以上の相異なる信念を形成することがないという仮定をするならば、後者はありえない。(信念の定義に注意。ここでは整合的確信的信念(BDI論理の定義のような)を漠然と意味している。)
この仮定はともかくとしても、同一性は認識論の問題だということになるな。

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