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2006年10月

not like me but like you

御大の来日もあって、"like me" hypothesis は私の周りで話題になっている。
もちろんこの説は以前私が書いた説(「他者の心、自分の心」「四項類推」)の真逆(しかしマジョリティ)なので、核心については私としては「はい、そうですか」と安直に認める訳にはいかないのだが、それでもこの主張に関していくつか汲み取れる点をここに挙げておく意義はあるだろう。(注意すべきは、いくつか限定を加えればこの説と私が書いた説は両立可能である。)聴きに行く人は以下を頭に入れて行かれるがよろし。

まず1つ目、Dr. Meltzoff はこれを "hypothesis" と言っている点。つまり、これ以外の他の可能性もあると認めているということ。そして、その上で、他の研究者なら暗黙のままにしていることもある(その意味で前提的)主張をあえて明確化したのだということ。この点はすばらしい。世の中にはこれ(like me)しかないと思っている心理学者もいるようで、そういう人たちにはこれはそもそも検証する対象だとは認識されていないようだが、Dr. Meltzoff はその種の心理学者ではないということを匂わせている。安堵。

2つ目は、me である。これが将来この説を煎じ詰めていくと引っかかる壁になるだろうことが、すでに私には明らかに思われる。すなわち、この説でいう(likeだとして参照される)ところの私(me)と呼ばれるデータセット(おそらく記憶系を想定しているだろう)にはどのような量と種類の情報が対象として含まれているのか、ということである。もしこれがはっきりしないと"like me"とは言っても人間が何をしている(どのような情報を処理している)のかわからないし、事実この点は未だはっきりしていない(誰も明確な答えを出せない)。「私」というのは非常に膨大な側面を1つにまとめる詰め合わせパックな名前なので、専門的にこのmeの指す内容を日常語よりも狭める(あるいはこれ専用に拡張する)としても、いったいどの範囲にするが正解なのか。結局は太古からの難関であるこの「私」なるものに挑むことになってしまうのである。これがこの説の先が思いやられる点。もちろんスマートな前進方法はあるだろうが、そのときにも like "me"の名は残っているだろうか。

3つ目には、likeに付いてくるいわゆる類似性問題(似ているかどうかってどうやって決めたらええねん!)があるのだが、これは2つ目さえ明確にクリアできるならたいしたことではない。

以上、がんばられたし。

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合理性と行為

あいかわらず下書きのままの記事ネタが山のようにあります。文の形になっていないので(整形する時間がないので)出していないのです。そうしているうちに何をメモしようとしていたのか忘れていることもありますが・・・。ちょっとずつ時間を見つけて・・・の第一歩。

以前(今年の夏)、授業で私が言ったことには、「他者の心(理由)を考えるのに合理性は外せない」。
これはいわゆる合理性原理(rationality principle)、あるいはprinciple of charityと呼ばれているもの(principle of charityは本来はとくに言葉の理解に関するものであるようだが)。
他者が持つと仮定される命題的態度は、観察によって得た情報(その人の行動なり伝聞なり)をもとに推論するしかないのだが、それだけではいかようにでも推測できてしまう。つまり可能な行為理由のセットを列挙していくと作業が終わらなくなる(爆発する)。例えば、あの人がラーメン屋に入ったのは、すごく豚骨ラーメンが食べたくて、そのラーメン屋では豚骨ラーメンは売っていないと知っていたからだ、とか。(意図の導出を「誤った」のでラーメン屋に入った。)
よって、推論の制約が必要であり、その1つ(しかも最も強力かもしれない)が合理性である。信念、欲求、意図間の結びつきは整合的だととりあえず考えるのである。合理性を前提すると、候補の数が格段に減る。(もちろん上記の例は考慮に入らなくなる。)
合理性は、われわれが他者の思考、行為の理由というものを考えようとするときに必ず登場する制約条件である。そうでないと、他者をどう理解してよいものか途方に暮れてしまうのである。
で、授業で「議論の暗黙の前提を明らかにしよう」という話をしているときに、この点を指摘したのだ。

私は昔(院に入るか入らないかの頃)、以下の分類を考えたことがある。
・個人的合理性
・社会的合理性(共有的合理性)
・数理的合理性(普遍的合理性(宇宙存在合理性)、認識的合理性(論理的直観合理性))
これで、20世紀半ば以降に改訂された多様な合理性概念を体系化できると踏んでいた。
しかし、これはよくなかった。そもそも合理性の原義から遠く離れている。
よって、今はこれらの言葉で捉えようとした性質を別の名前で呼ぼうとしている。
そして「合理性」は以前書いたような意味を厳密に守るべきだ(多義にすべきでない)と考えている。

このような目的依存性を強調する合理性概念は、心理学関連の学問で唱えられているほとんどの「合理性」概念を覆す。そして、Cohen(1981)のような仕方で人間の合理性を保護できるとは思わないが、「ほとんどの場合、他者の行為は合理的である」ことは別の筋で帰結されることになる。つまり、上記の合理性原理である。
Cohenの指摘の一部は、規範理論(例えば命題論理や確率論)の根拠が直観に根ざしているという論点については私と一致する。これはこれで今後も心理学研究として吟味すべき点である(前に書いたようなことから)。しかし、私の意味の合理性は、Cohenの論もまるごと飲み込み、心理学における当初(「直観的統計学者」の頃、つまりdecision theoryの興り)からこれまでに現れた「~~合理性」概念を全部洗い流すことになる。

よく考えてみれば、哲学での合理性概念と心理学での合理性概念はいったいいつ乖離してしまったのだろうか。これも理論的理性と実践的理性の区分に関する議論を引きずった結果なのだろうか。ならば、心理学者はこの議論をもう一度見直すのがよいだろう。もちろん私の立場は行為が第一である。

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NP

よくある間違いをここに書くことがけっこうあるなぁ。「よくある間違い」カテゴリでも作ろうかな。

クラスNPについて。
とりあえず前置きだが
P : (deterministic) Polynomial
NP : Nondeterministic Polynomial
である。
クラス P に属する問題とは、決定問題(decision problem: 答えがyes/noの問題)のうち、決定性計算(deterministic computation, 説明は後述)によって多項式時間(Polynomial time)で解が得られる問題のことである。
多項式時間とは、その問題の解を得るまでの計算時間が、問題サイズ(problem size)の多項式関数である、ということ。
ここでの(計算複雑性理論での)時間というのは、実際の物理的な時間をどうこう言うのではなく、問題サイズに相対的な計算ステップ数(PやNPに関しては最大時間計算量worst case time complexity)を考える(問題サイズが大きくなるにつれて解を得るのに必要な時間がどう変わるか、ということ)。
多項式とは、もちろん中学で習った 2x2+3x+5 とかいうアレである。多項式時間の定義においては最大次数はどうでもよい(多項式で表せれば何でもOK)。 1/(2x2 + 3) や 2x + 1 は多項式ではない。 初学者向けに念のため。
で、重要なのが問題サイズ(problem size)の定義なのだが、よく使われるのは入力のビット数である。理解するためのイメージとしてはこれでよいのではないかと思う。つまり、このPとかNPとかいう話は、決定問題に変項が含まれていて、それらを一般的に解くアルゴリズムが存在する場合、にしか通用しない。

さて、ここまではよいとして、NPのほうが間違えて説明されているのをよく見かける。
クラス NP に属する問題とは、決定問題のうち、非決定性計算(nondeterministic computation)において問題の答えがyesの場合に多項式時間でyesと出力して終了する分岐系列が1つ以上存在する、問題のことである。
非決定性計算というのは、非決定性チューリングマシンで行われる計算である(これじゃ説明になってないね)。決定性チューリングマシンは入力が与えられた時点で状態遷移が一意に決まっているのだけど(C言語のソースを見て、プログラムにある入力が与えられた時の制御の流れをずずーっとたどれるよね?それです)、非決定性チューリングマシンでは一意に決まらない。つまり、現在ある状態だとして、次にどの状態に遷移するかに複数の可能性があるということ。実際にどの状態に遷移するかはどうにかして選択される(まあサイコロと考えればよい)。だから非決定性。
プロセッサが1つでしらみつぶしに頑張るのか、任意の数のプロセッサを使えて分岐でそれらを同時に走らせるのか(ただしほかのプロセッサの計算結果を利用することはできない)の違いだとイメージするとわかりやすいかも(後者が非決定性)。で、たまたま1つ以上のプロセッサが多項式時間でyesに当たる、と。まあ、スーパーマシンを想像しているということですな。一方であなたのパソコンは決定性計算を黙々とこなしておる。
NPの定義はいろいろな言い換えがされているようだが、よく見かけるもので、「yesの具体的解が与えられたときにそれが正しいかどうかを確かめることが(決定性計算で)多項式時間でできる問題」というのがある。これはつまり、上述の非決定性計算での分岐のたまたま当たったやつをたどって行けよ、ということ。たしかに同じだわな。NPを理解しようと試みるときは部分和問題を例にとるとわかりやすいかもしれない。

よって、NPは(決定性計算において)「多項式時間で解けない」問題のクラスでもないし、「最悪時間計算量を多項式で表現できない」問題のクラスでもない。このような誤った説明がよく出てくる。
上記の説明からわかるように、非決定性チューリングマシンは決定性チューリングマシンを含むから、PはNPに含まれる(すなわち多項式時間で解ける決定問題はすべてNPにも属すのだ)。
でも、PがNPを含むかどうか(つまりP=NPかP≠NPか、もっと言えばNP完全な問題を1つでも多項式時間で解けるか)はまだ証明されていない。P≠NPだとみんな予想してるけど。今ならこれを証明すると100万ドルもらえます。(でも実際には論文投稿したり、事務手続きしたり、・・・ でいろいろコストがかかるからねぇ・・・)

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不完全世界の非共有性

ここに何度か、人は客観世界全体を知ることはできないであろうということにもとづく不完全世界論(あるいはもっとゆるい動的な不可知論)について書いた。今回は最初にこれを少々細かく分解してみよう。
この論のもとになっているのは、
1) ある任意の時点で人が知っているのが世界全体であるかどうかを判別することができない、
2) ある任意の時点Aよりも未来のどこかの時点Bで、Aにおける知識よりもBにおける知識のほうが増えているという時点Bが必ず存在し得る、
という2つの命題である。
2)は1)をベースにしているが、2)がこの動的な不可知論の「動的」なる側面をわかりやすくしてくれるミソである。2)を言い換えれば「まだ知らないことが、いつでも、いつになっても、あるだろう」ということ。人が世界の出来事すべてを知ることができないのは当たり前っぽくて興味をそそらないかもしれないので、個別具体ではなく抽象的レベルに視点を置いて、理論的なエンティティや法則、つまり自然科学研究の対象についてのみに話を限定してもよい(これは客観的世界に関する主張であるのでその外に出ることはない点に注意)。こうしてもこの主張は効力を失わない。これはつまり、自然科学的な探求の営みに永遠にピリオドを打てないことを意味している。

これまでの歴史的、経験的根拠から考えて、2)の最後の部分を「存在し得る」から「存在する」に変えたとしよう。これは帰納的な結論である。これもそれなりの信憑性がある。たとえ帰納の限界に直面するとしても、時間普遍的な物理法則と同程度の確からしさは得ることができる。そして、この「これまでの歴史的、経験的根拠」が「動性」の例証である。また、ここにおいて初めて、説は「不完全性」を標榜することとなる。
しかし、上の2)は可能性(認識論的様相)の話をしている。ただこれで学者の内発的欲求を満足させないのには十分である。

ここまではおさらい。ここからが本題。

この完全性について不可知な世界に関して、ある人がある時点で持っている世界についての知識の総体は、人類皆同じだろうか。「持っている」があいまいだが、ここでは記憶しているなんてガチガチな意味ではなく、アクセス可能である、という程度の意味とする。なぜならわれわれは皆、現時点であらゆる分野の科学者が発見しているすべての法則や確立された理論を覚えているわけではない。しかし、やろうと思えば、それらのうちの任意のものにアクセスすることは可能である(そのような社会になっている)。で、このアクセス可能性の範囲に知識のテリトリーを押し広げたとしても(そうするとおそらくその時点で人類が共有している科学的知識全般が範囲に入るだろうが)、個人によって知識は異なり得る。
前述の不完全世界論は人一般に関するもの(人類全体としての営みを考える)であるが、個人レベルでも世界を考えることができ、そうしたとしても個人の世界にも不完全性が帰結される。そしてそれらは個々に異なり得るのだが、それが集積したとしても結局不完全である。

さらに、未来にはすばらしい情報共有システムができあがって、あらゆる人の知覚したことがすべて逐一"世界中央データベース"に記録され、誰でも自由にそれを参照することができるようになったとしよう(そんなことになったらプライバシーも何もあったものじゃないが)。それでも、世界についての知識(アクセス可能な範囲)は個人によって異なり得る。というのも、人には寿命があるし、生きている期間も人によって異なるのだから。そして、その人が死んだ瞬間以後でないと判明しないことというのも必ず存在し得る。
ではもし生きている期間も全員同じになったとしたら(つまり、全員不死か全員同時に死ぬか)・・・、そんなのは考えないでおこう。同時に死ぬならその時点で人類の歴史は終わりだし(つまりその先の未来に誰もたどり着けない)、死なないならそれは人ではない。
結局、人は「過去から受け取った歴史を次の時代に引き渡す」(byニコ家)という形式をとるわけで、不完全世界論と合わせると、世界についての知識の総体を全員で共有できない。

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