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not like me but like you

御大の来日もあって、"like me" hypothesis は私の周りで話題になっている。
もちろんこの説は以前私が書いた説(「他者の心、自分の心」「四項類推」)の真逆(しかしマジョリティ)なので、核心については私としては「はい、そうですか」と安直に認める訳にはいかないのだが、それでもこの主張に関していくつか汲み取れる点をここに挙げておく意義はあるだろう。(注意すべきは、いくつか限定を加えればこの説と私が書いた説は両立可能である。)聴きに行く人は以下を頭に入れて行かれるがよろし。

まず1つ目、Dr. Meltzoff はこれを "hypothesis" と言っている点。つまり、これ以外の他の可能性もあると認めているということ。そして、その上で、他の研究者なら暗黙のままにしていることもある(その意味で前提的)主張をあえて明確化したのだということ。この点はすばらしい。世の中にはこれ(like me)しかないと思っている心理学者もいるようで、そういう人たちにはこれはそもそも検証する対象だとは認識されていないようだが、Dr. Meltzoff はその種の心理学者ではないということを匂わせている。安堵。

2つ目は、me である。これが将来この説を煎じ詰めていくと引っかかる壁になるだろうことが、すでに私には明らかに思われる。すなわち、この説でいう(likeだとして参照される)ところの私(me)と呼ばれるデータセット(おそらく記憶系を想定しているだろう)にはどのような量と種類の情報が対象として含まれているのか、ということである。もしこれがはっきりしないと"like me"とは言っても人間が何をしている(どのような情報を処理している)のかわからないし、事実この点は未だはっきりしていない(誰も明確な答えを出せない)。「私」というのは非常に膨大な側面を1つにまとめる詰め合わせパックな名前なので、専門的にこのmeの指す内容を日常語よりも狭める(あるいはこれ専用に拡張する)としても、いったいどの範囲にするが正解なのか。結局は太古からの難関であるこの「私」なるものに挑むことになってしまうのである。これがこの説の先が思いやられる点。もちろんスマートな前進方法はあるだろうが、そのときにも like "me"の名は残っているだろうか。

3つ目には、likeに付いてくるいわゆる類似性問題(似ているかどうかってどうやって決めたらええねん!)があるのだが、これは2つ目さえ明確にクリアできるならたいしたことではない。

以上、がんばられたし。

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