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合理性と行為

あいかわらず下書きのままの記事ネタが山のようにあります。文の形になっていないので(整形する時間がないので)出していないのです。そうしているうちに何をメモしようとしていたのか忘れていることもありますが・・・。ちょっとずつ時間を見つけて・・・の第一歩。

以前(今年の夏)、授業で私が言ったことには、「他者の心(理由)を考えるのに合理性は外せない」。
これはいわゆる合理性原理(rationality principle)、あるいはprinciple of charityと呼ばれているもの(principle of charityは本来はとくに言葉の理解に関するものであるようだが)。
他者が持つと仮定される命題的態度は、観察によって得た情報(その人の行動なり伝聞なり)をもとに推論するしかないのだが、それだけではいかようにでも推測できてしまう。つまり可能な行為理由のセットを列挙していくと作業が終わらなくなる(爆発する)。例えば、あの人がラーメン屋に入ったのは、すごく豚骨ラーメンが食べたくて、そのラーメン屋では豚骨ラーメンは売っていないと知っていたからだ、とか。(意図の導出を「誤った」のでラーメン屋に入った。)
よって、推論の制約が必要であり、その1つ(しかも最も強力かもしれない)が合理性である。信念、欲求、意図間の結びつきは整合的だととりあえず考えるのである。合理性を前提すると、候補の数が格段に減る。(もちろん上記の例は考慮に入らなくなる。)
合理性は、われわれが他者の思考、行為の理由というものを考えようとするときに必ず登場する制約条件である。そうでないと、他者をどう理解してよいものか途方に暮れてしまうのである。
で、授業で「議論の暗黙の前提を明らかにしよう」という話をしているときに、この点を指摘したのだ。

私は昔(院に入るか入らないかの頃)、以下の分類を考えたことがある。
・個人的合理性
・社会的合理性(共有的合理性)
・数理的合理性(普遍的合理性(宇宙存在合理性)、認識的合理性(論理的直観合理性))
これで、20世紀半ば以降に改訂された多様な合理性概念を体系化できると踏んでいた。
しかし、これはよくなかった。そもそも合理性の原義から遠く離れている。
よって、今はこれらの言葉で捉えようとした性質を別の名前で呼ぼうとしている。
そして「合理性」は以前書いたような意味を厳密に守るべきだ(多義にすべきでない)と考えている。

このような目的依存性を強調する合理性概念は、心理学関連の学問で唱えられているほとんどの「合理性」概念を覆す。そして、Cohen(1981)のような仕方で人間の合理性を保護できるとは思わないが、「ほとんどの場合、他者の行為は合理的である」ことは別の筋で帰結されることになる。つまり、上記の合理性原理である。
Cohenの指摘の一部は、規範理論(例えば命題論理や確率論)の根拠が直観に根ざしているという論点については私と一致する。これはこれで今後も心理学研究として吟味すべき点である(前に書いたようなことから)。しかし、私の意味の合理性は、Cohenの論もまるごと飲み込み、心理学における当初(「直観的統計学者」の頃、つまりdecision theoryの興り)からこれまでに現れた「~~合理性」概念を全部洗い流すことになる。

よく考えてみれば、哲学での合理性概念と心理学での合理性概念はいったいいつ乖離してしまったのだろうか。これも理論的理性と実践的理性の区分に関する議論を引きずった結果なのだろうか。ならば、心理学者はこの議論をもう一度見直すのがよいだろう。もちろん私の立場は行為が第一である。

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