« ハチクロ | トップページ | NP »

不完全世界の非共有性

ここに何度か、人は客観世界全体を知ることはできないであろうということにもとづく不完全世界論(あるいはもっとゆるい動的な不可知論)について書いた。今回は最初にこれを少々細かく分解してみよう。
この論のもとになっているのは、
1) ある任意の時点で人が知っているのが世界全体であるかどうかを判別することができない、
2) ある任意の時点Aよりも未来のどこかの時点Bで、Aにおける知識よりもBにおける知識のほうが増えているという時点Bが必ず存在し得る、
という2つの命題である。
2)は1)をベースにしているが、2)がこの動的な不可知論の「動的」なる側面をわかりやすくしてくれるミソである。2)を言い換えれば「まだ知らないことが、いつでも、いつになっても、あるだろう」ということ。人が世界の出来事すべてを知ることができないのは当たり前っぽくて興味をそそらないかもしれないので、個別具体ではなく抽象的レベルに視点を置いて、理論的なエンティティや法則、つまり自然科学研究の対象についてのみに話を限定してもよい(これは客観的世界に関する主張であるのでその外に出ることはない点に注意)。こうしてもこの主張は効力を失わない。これはつまり、自然科学的な探求の営みに永遠にピリオドを打てないことを意味している。

これまでの歴史的、経験的根拠から考えて、2)の最後の部分を「存在し得る」から「存在する」に変えたとしよう。これは帰納的な結論である。これもそれなりの信憑性がある。たとえ帰納の限界に直面するとしても、時間普遍的な物理法則と同程度の確からしさは得ることができる。そして、この「これまでの歴史的、経験的根拠」が「動性」の例証である。また、ここにおいて初めて、説は「不完全性」を標榜することとなる。
しかし、上の2)は可能性(認識論的様相)の話をしている。ただこれで学者の内発的欲求を満足させないのには十分である。

ここまではおさらい。ここからが本題。

この完全性について不可知な世界に関して、ある人がある時点で持っている世界についての知識の総体は、人類皆同じだろうか。「持っている」があいまいだが、ここでは記憶しているなんてガチガチな意味ではなく、アクセス可能である、という程度の意味とする。なぜならわれわれは皆、現時点であらゆる分野の科学者が発見しているすべての法則や確立された理論を覚えているわけではない。しかし、やろうと思えば、それらのうちの任意のものにアクセスすることは可能である(そのような社会になっている)。で、このアクセス可能性の範囲に知識のテリトリーを押し広げたとしても(そうするとおそらくその時点で人類が共有している科学的知識全般が範囲に入るだろうが)、個人によって知識は異なり得る。
前述の不完全世界論は人一般に関するもの(人類全体としての営みを考える)であるが、個人レベルでも世界を考えることができ、そうしたとしても個人の世界にも不完全性が帰結される。そしてそれらは個々に異なり得るのだが、それが集積したとしても結局不完全である。

さらに、未来にはすばらしい情報共有システムができあがって、あらゆる人の知覚したことがすべて逐一"世界中央データベース"に記録され、誰でも自由にそれを参照することができるようになったとしよう(そんなことになったらプライバシーも何もあったものじゃないが)。それでも、世界についての知識(アクセス可能な範囲)は個人によって異なり得る。というのも、人には寿命があるし、生きている期間も人によって異なるのだから。そして、その人が死んだ瞬間以後でないと判明しないことというのも必ず存在し得る。
ではもし生きている期間も全員同じになったとしたら(つまり、全員不死か全員同時に死ぬか)・・・、そんなのは考えないでおこう。同時に死ぬならその時点で人類の歴史は終わりだし(つまりその先の未来に誰もたどり着けない)、死なないならそれは人ではない。
結局、人は「過去から受け取った歴史を次の時代に引き渡す」(byニコ家)という形式をとるわけで、不完全世界論と合わせると、世界についての知識の総体を全員で共有できない。

|

« ハチクロ | トップページ | NP »

Α 科学の諸問題」カテゴリの記事

Δ 心理学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/3667647

この記事へのトラックバック一覧です: 不完全世界の非共有性:

« ハチクロ | トップページ | NP »