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2006年11月

進化心理学と遺伝子

昨日は大塚さんの言う「強烈な裏番組」があって、こころの未来ワークショップ「こころの探求:私たちの課題」にはちょっとだけ顔を出して退席しました。しかし私の聞きたいご発表は聞けたのでラッキー。

平石さんの話、「他人を信頼するための遺伝子」ですが、genotypeとphenotypeの区別を強調し、このgenotypeに一般信頼遺伝子(?と呼べるのか?)があって、その「能力」(?と呼んでいいのか?)が使われるかどうか(信頼してどうこうという具体的行動に出るか)は他の要素(外向性とか)との交互作用で決まるので、遺伝率0%の問題、個人差の問題、文化差の問題をクリアできる、という見通し。
この辺、戸田山さんの話とも関係するのだが、epigeneticsを考えると、話ががっつり覆る。neo-DarwinianなDNAの交互作用だけで話に決着付けられない。genotypeの意味がようわからんくなる。DNAではまずい。だから、平石さんの話は遺伝子をどうこういうより、もっと広い枠(オルガネラとか、発生環境とか)に持っていかなければならない(それか、私が研究会で言ったみたいに現代分子生物学的な遺伝子の定義を変えるか)。しかし、そうするとやっぱり難問が復活するのでは。つまり、DNA以外の仕方でも表現型が変化するならば(DSTの人は子育てなんかも含めちゃうらしいが)、自然選択にかかるのはいったい何か、ということになって、遺伝率の問題を再考しなければならない上に(これは比較的易しい)、そもそも遺伝って何やねん!進化って何やねん!という話になる。遺伝子コードより後からの作用を認めると、別の線引きが要るようになるわけだ。そうじゃないと(まさにDSTみたいに)発達と遺伝が不可分になるじゃん。
だから、進化心理学が「遺伝子が~~」というテーゼを守るためには、これが「生存闘争の主体だ」という線引き作業をがんばらにゃならん。もう一つ取れる道は、このテーゼを捨てること。

さて今日はこの問題をこれ以上書くのはやめておいて、別の発表に視点を移そう。
その裏「生物学の哲学と心の哲学の接点」での中尾さんのご発表では、コメントに対して、「進化心理学は遺伝子をどうこういうことを目指しておらず、行動を進化論的に説明するというレベルに関心がある」とおっしゃった。もうお分かりのとおり、これは張本人たる裏番組の平石さん(を含めた皆さん)が考えていることに真っ向から反する。
どっちがおかしいかといわれたら、そりゃあ中尾さんに分が悪いでしょう。進化心理学者は遺伝子考えてますから。その事実を汲み取って哲学的(?)考察を加えるのが彼ら「生物学&心理学の哲学者」のやろうとしている仕事でしょうからね。しかし、規範的に(?)まともな立場をとろうとすると、中尾さんのおっしゃるところにとどめて進化心理学者は謙虚でいるほうがよいのかもしれない。そもそも私は進化心理学に関心が薄いのでなんとも言えんが、心理学者が分子生物学レベルのことに手を出して生産的であるとは思えない。

ちらっとだけ私の考えも書いておこう。
遺伝ってなんやねん!と書いたが、親から子に伝わるものがあるのは確実だ(そのようにわれわれは認識せざるを得ない)。遺伝という現象の存在証明にはそれで十分だが、問われているのは「どこからどこまで」問題なのである。これは明晰に分析しようという希求から来るものだ。もちろんそれができない可能性もある。でもここで書きたいのは、あがくとすればどのような道があるか。1つは物理的囲い込み。もう一つは素朴生物学的分析、あわせて心理学的本質主義の分析である。

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言語と思考

いきなり結論から書くが、私は思考に言語が必要だとは思っていない。

思考と言語を結びつける直観的根拠の1つは内言である。
たしかに、私が思考と呼ばれる活動をしているとき、私の中では言葉らしき聴覚的印象(かつ、ある程度の構文規則は守られているような)があることが多いのだが、それはそれまでのこと。
そういえば私は頭の中で言葉が聞こえるように感じること(とくに読書しているとき)について、私だけがおかしいのかみんなそうなのかわからなかったので、学部の教授に「先生もそうですか?」と質問した(そして立ち話なのに長話になった)記憶がある。このときこれがphonological activationと呼ばれていることを知った。これが正しいのか未だによくわからない。現象か説明概念か。
さて本筋にもどるとして、内言が伴うからといって、それが思考に「必須」だということにはならない。どうにも私は自分が言語を通じて(不可避的に言語を使用して)思考をしているようには感じられないのである。「思考の言語」などと抽象概念を持ってきてかつそれが無意識的だと主張されるのかもしれないが(それは学術的には1つの説としての価値が他の説と同等にある)、ここで問題にしているのは、日常言語と思考の関係である。
そして、直観的には私にとって(その意味での)言語は思考の本性ではなく、キューなのである。
そもそも人間の言語はコミュニケーション機能の発展だと私は思っている(という話を最近Tさんとしたなぁ、そういえば)。イヌが遠吠えしたり虫がダンスしたりするのと同じ。だからそれは人間に対するキューである。この機能は今も失われてはいない。「手」という言葉は「手について考えている」という思考そのものではなく、手をイメージさせるキューである。しかも人間にとってこいつはかなり強力な連想価(比喩的に)がある。

人から自然言語を取り去ってしまうと思考ができないのか。そう主張する人もいるだろう。私としては、それは単にキューがなくなるだけではないのか、と思う。言葉を知らない子どもは思考していないのか。これは例の物心の話とも絡むかもしれないが、この私の立場に納得するためには思考と呼ばれるものがそもそも何なのか(どのように定義されるか)について多少とも考え直してもらうことが要求されるだろう。
現在の私は一人で歩いて思考していると内言が伴ってしまうけれども(よって証拠を集めにくいが)、内言が無しでも私は思考し得ると思うし、思考の本性とは言語を統語論的に操作することではないと思われる(キューだから)。そのように見えるものを「含む」かもしれないが。それどころか、私は思考を「何か内的なものを操作すること」によって定義できると思っていない。

だから私は、強い意味の言語相対性仮説なんて、耳に入った当初からちっとも信じていない。
いやそもそも、私が「言語」の研究ではなく「思考」の研究をしているのは、こういうふうに考えているからである。

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