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言語と思考

いきなり結論から書くが、私は思考に言語が必要だとは思っていない。

思考と言語を結びつける直観的根拠の1つは内言である。
たしかに、私が思考と呼ばれる活動をしているとき、私の中では言葉らしき聴覚的印象(かつ、ある程度の構文規則は守られているような)があることが多いのだが、それはそれまでのこと。
そういえば私は頭の中で言葉が聞こえるように感じること(とくに読書しているとき)について、私だけがおかしいのかみんなそうなのかわからなかったので、学部の教授に「先生もそうですか?」と質問した(そして立ち話なのに長話になった)記憶がある。このときこれがphonological activationと呼ばれていることを知った。これが正しいのか未だによくわからない。現象か説明概念か。
さて本筋にもどるとして、内言が伴うからといって、それが思考に「必須」だということにはならない。どうにも私は自分が言語を通じて(不可避的に言語を使用して)思考をしているようには感じられないのである。「思考の言語」などと抽象概念を持ってきてかつそれが無意識的だと主張されるのかもしれないが(それは学術的には1つの説としての価値が他の説と同等にある)、ここで問題にしているのは、日常言語と思考の関係である。
そして、直観的には私にとって(その意味での)言語は思考の本性ではなく、キューなのである。
そもそも人間の言語はコミュニケーション機能の発展だと私は思っている(という話を最近Tさんとしたなぁ、そういえば)。イヌが遠吠えしたり虫がダンスしたりするのと同じ。だからそれは人間に対するキューである。この機能は今も失われてはいない。「手」という言葉は「手について考えている」という思考そのものではなく、手をイメージさせるキューである。しかも人間にとってこいつはかなり強力な連想価(比喩的に)がある。

人から自然言語を取り去ってしまうと思考ができないのか。そう主張する人もいるだろう。私としては、それは単にキューがなくなるだけではないのか、と思う。言葉を知らない子どもは思考していないのか。これは例の物心の話とも絡むかもしれないが、この私の立場に納得するためには思考と呼ばれるものがそもそも何なのか(どのように定義されるか)について多少とも考え直してもらうことが要求されるだろう。
現在の私は一人で歩いて思考していると内言が伴ってしまうけれども(よって証拠を集めにくいが)、内言が無しでも私は思考し得ると思うし、思考の本性とは言語を統語論的に操作することではないと思われる(キューだから)。そのように見えるものを「含む」かもしれないが。それどころか、私は思考を「何か内的なものを操作すること」によって定義できると思っていない。

だから私は、強い意味の言語相対性仮説なんて、耳に入った当初からちっとも信じていない。
いやそもそも、私が「言語」の研究ではなく「思考」の研究をしているのは、こういうふうに考えているからである。

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