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2006年12月

だから何なの文化心理学

今日のシンポで兼ねてから私が言うてきたことと同じことをコメントで木下さんがおっしゃっていたので、それを思い出したついでにここに書いておく。

文化心理学と銘打つものでよくある研究は、「○○な文化と△△な文化を比較して、特定の従属変数に差が出ました(あるいは他の変数との交互作用ありました)」と発表するタイプのものだ。
この○○、△△は具体的に特定の(名前の付いた)文化が入るときもあるし、もっと抽象的なカテゴリ(collectivismとindividualismみたいな)が入るときもある。この項での話においてはどっちでもよい。
そういうふうに「差を見つけました!」研究(しかも「有意差がありました!」研究)をこれまでお腹いっぱいになるほど聞いてきたのだけど、「で、結局何なの?」と私は思ってしまい、それを実際質問してしまうと誰も答えられない。(これまで私のこの問いに歯ごたえある応答をしてくださったのはこの領域の御大Kさんだけだった。しかしそれでも満足いくものではなかったが。)もちろん、そういう研究はアンチテーゼとしてアピールしたいのはわかるが、それは怒るだけの教師と同じ。それではダメなんです、道を示してくれなければ。(embodimentも同じ轍を踏みつつある。)
つまり、複数の(カテゴリ分けされた)文化の間で変数の値に違いがあるからって、だから何が起こっているの?どうしてそんな違いが生まれるの?には全く近づかない。要するに別問題なのだが、むしろ知りたいのはこっち。しかもこの分野はとりわけそこに近づくことが難しい、まことに遺憾ながら。
この種の文化間比較の実験は、ほとんどすべての場合、実験ではなく実験もどき(quasi-)なのだ。だからそもそも 文化→関心のある変数 の因果関係すら存在するのか定かではない。
百歩譲って、前述の因果関係があるとしよう。しかし、その場合、一体何が原因なのか。この点をあまたの文化心理学的研究はまったく追求していないように見える。アメリカと中国で大体同じ手続きの実験やってデータ比較したって、条件間で違っているものが山ほどあるんですよ。もう交絡しまくり状態ですよ。そんな状態で何が原因かも示さないまま、ただ全体として「文化の違いだ」。その懐の広さを見逃してあげるとしても、錬金術のごとき「文化」概念においてさえ含めることができなさそうな変数すら共変してますからね。場所とか。地理って文化じゃないよね?ね?(まさかこれも含める気ですか?)ほとんどナンセンスに等しい風土概念をそっとしておいてあげるとしても、電磁場は物理学ですぜ。
文化の概念は素朴なレベルに控えておくのが無難だと思われるが、さて、救いどころを探すとして、違う国でデータとって比較して何がわかるのだろうか。違いがありますよといわれても、そのメカニズムを説明する理論がないなら、単なるはた迷惑。ちょっかいだすのはやめてください。それとも、そういう研究は「相関あったね、よかったね」を見つけることを研究の最終目標にしているのだろうか。
因果関係に関心があるとしたら、もっと方法論を詰めたほうがよいのは確かだ。出身地と日ごろの生活環境を区別して独立変数に入れている多少マシな研究発表を聞いたこともいくらかあるが、まだ甘い。なぜって、それも所詮、実験「もどき」だから。

というかね、はっきり言ってしまうと、何を説明したいのかぜんぜん理解できない。
あえて文化という雲の上の概念に着目する理論的virtueはどこにあるのですか?
もし各自がそれを自覚しているなら、それに基づいてもっと理論を立ててそれを検証するような研究ができるはずでしょう。
なんとかがんばってください。(進化心理学よりは期待してます)

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FisherとBayesianist

先日のは、もし聴いていたら非常にタメになった研究会だったろうに、私んとこの人は誰も参加してなかった。もったいなさすぎる。プロの統計学者と哲学者が同じ卓を囲むなんて、世界的にも珍しいだろう機会なのに、なんでそれが理解されないのか。
同じ心理学者でも東大のKさんはいらっしゃってた。この辺が質の違いかもしれない。
彼女は因果推論に興味があって参加されたのかもしれないが、むしろ心理学者が聞くべきは出口さんや柳本さんの話のように思う。とくに、近年の心理学の教育を受けた人は科学史の知識がどうしてか乏しいので、方法論的な工夫をするためのヒントをみすみす逃している。ネイマン-ピアソン流も鵜呑みである(これはそう強制するカリキュラムのせいもある)。

まあ、私にとっては、あんな(われわれ実験心理学者にしては常識だが哲学者はわかっていないらしい)私のコメントよりも、狩野さんとシンプソンのパラドクスについて談笑する時間のほうが有意義だったのだが。
哲学者は知らないだろうとは踏んでいたけども、専門的すぎる数理統計学者も Cook & Campbell は読んでいないのだろうか。「事件は現場で起きているんだ」と言いたくなる。

とりあえず、今回のこれに出席して、以前書いた私のフィッシャー理解が正しいであろうという確信を強めることになった。

bayesianな信頼区間(?)と fiducial limits とは確率解釈の違いの問題か。事前確率を一様にすれば数値的には一致するだろうし。というかfrequentistの信頼区間も同じくなのでは。
じゃあ、実質的にこれらの間で何が違うのか?これが私にはよくわからない。解釈が違うって、そりゃあ文面上(言語表現上)の違いはつけてあるけれども、それぞれの解釈を採用したときにわれわれの行動にいったいどんな違いが出てくるというのか?結局同じなのでは?もしそうなら無駄な争いだろう。
だれか解説してください。

心理学には確率判断の研究は山ほどあるのに、確率理解の研究が少ないのはどうしてだろう。教育心理関係では統計リテラシーの研究などもあるかもしれないが、私が知りたいのは統計学の専門家の定義を市民がどう学ぶかではなく、確率なるものの素朴な理解である。untutoredではどうなっているか、なのだ。

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