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2007年2月

価値判断と事実判断と帰納

岩男さんの講演にて、私が質問した点がまたもや時間不足と能力不足による説明不足になってしまったので、ここに明確化しておく。

まず簡単に岩男さんの講演内容をまとめると、前半でこれまでの帰納推論の研究から「正しい帰納」の基準を提示され、後半は批判的思考に関係する(と岩男さんや他の参加者に思われている)教育実践(具体的にはディベートに関して複数陣営の視点を取り入れた文章を書くこと)の話をされた。説得的な文章がかけるようになることがそのクラスでの教育目標であるが、批判的な思考のトレーニングにもなる、ということだそうだ。

その後の質疑応答の時間での私の質問の趣旨は、「前半と後半の話のつながりがわからないのですがどうなっているのですか?」である。
で、その場で二、三やり取りをして、私がわからない理由の根源は価値命題と記述命題のギャップにあると指摘した。

講演の前半は、明らかに記述命題(事実の判断)に関する話であった。仮説テスト実験(と呼ぶのかな?たいていコンピュータ上で法則を当てさせるやつ)や2-4-6などを例に出していて、しかもPopperの反証可能性の議論を振り返り、反証主義はすでに科学哲学としては過去の遺物であることを言及しながらしかし反証への着目は重要だとした上で(これは社会科学で主流なpost-positivistに同じ)、正しい帰納の基準として「バイアスを避けること」(を含む)と示された。(おわかりのとおり、岩男さんはこの講演では帰納の定義をかなり広くとっておられ(ゴミ箱とも揶揄しておられた)、これは私がアブダクションと呼ぶものを含む。)

しかし、講演の後半で扱ったターゲットには価値判断をも含んでおり(事実判断を排除したわけではないが)、例として出されたのも「首相は靖国神社に参拝するべきではない」などの価値判断であった。

事実と価値の区別は伝統的分類であり(二分法に関しては少なくともHume以来の)、これに対抗するには(Putnamらのように)それ相応の覚悟を持ってのぞまなければならない。その伝統的区分をふまえた上であえて混ぜて扱ってよいというお話なのか、区別を考慮されていなかったのか、当初はわからなかった。
が、そのさらに後の個人的談話では区別自体は理解されているようであった。岩男さんの立場としては、「価値判断であろうが事実判断であろうが心理学的に扱う上で本質的な違いはないと思われる。自分がどうするかの決定過程だからいつも価値がついている」ということだそうだ。holisticという言葉も使っておられた。その場で私は推理のモデル(記号的操作)と意思決定のモデル(評価が伴う)という対比も出したのだが、このpragmaticなお立場からすると、意思決定のモデルにすべてはまるはず、ということらしい。
そんなこんなで、そこで小一時間ほど私の論説をお聞かせする時間もなかったので、私の指摘したギャップはその日は次のような示唆に落ち着いた。前半で(客観的だと思われている)記述命題を対象にした帰納や演繹の話(つまり真なる命題へ至るための推理の話)をしておきながら、後半はそれぞれの論拠の評価(重み付け)を想定するような態度形成や意思決定モデルの話をしているが、価値判断と事実判断についてそういうお立場なら両方とも(前半の現象も)意思決定モデルで扱いなされよ。


さて、この3年間の考察も踏まえて、もうすこし進めて書いておこう。
価値と事実の区別は有益である。すくなくとも心理学に見通しを立てる上では。(これは「Aであるか、そうでなければBである」という二分法を推しているのではない点に注意。区別である。)
事実表明とも価値表明ともよくわからない命題とか、どちらでもなさそうな命題とかはあるだろうが、それはこの区別がまったくできないということを意味しない。明らかに価値の表明であったり、客観的事実の記述(を含んでいる)と見なされるものも存在する。3年前に書いたとおり、この区別(特に二分法)に疑問を投げかける哲学者はいたし、いる。価値命題がある種の事実命題に言い換えられたり、常に事実記述は価値に依存していると言われたり、価値がナンセンスのクラスへ放り込まれたり、する。しかし、そういう人たちにおいてすら、「事実」という概念、「価値」という概念自体は、それをわれわれが持っているということを広く認められているのだ。

私の前の席で講演をお聴きだったYさんは質疑応答での私の指摘に対して、「価値命題は how to act で記述命題は how to describe だけども how to describe も結局は how to act だからね」とおっしゃった。
この言い分はいくつかの意味で不適切であると私には思われる。
1点目に、すべての価値命題がactを述べるものであるかどうかには論争がある。もちろん、価値はactと何の関わりもないと言う人はいないだろうが、非常に間接的なものも多くあって、いかなる価値も直接的にactを示しているというのは行き過ぎであろう。「ナポレオンの行いは残酷だ」は価値の側面を含む命題(パトナム流には濃い倫理的概念)であるが、これは、だからといってそれだけでは「するな」なのか「しろ」―仕方がない―なのかはわからない(非強制的)。「~するべきである」を含むような命題(薄い倫理的概念)であっても、「いかなる状況であろうとも」という修飾をつけても問題ないという場合(Amartya Senのいう基礎的価値判断)は存在するとしてもかなりレアであろう。上で挙げた靖国神社の例も基礎的ではないという人が少なくないはずだ。
2点目に、上の「結局は」が何を意味しているか、ということである。これは「事実」が「価値」と、あるいは「行為」と同一概念である、とか、前者が後者に含まれる、とかいう意味ではないことはYさんにも賛成していただけるだろう。それはおそらく、事実の記述が行為を決めるにあたって「利用される」、もっと言えば、「意思決定に影響を及ぼす」ということを意味したいのだと思われる。通常、AがBに影響を及ぼすというとき、AとBは異なるものであるということが当然含意されている。つまり―たとえ価値判断を特定の行為の教唆(あるいは命令法)と同一視するような立場であったとしてもなかったとしても―事実判断と価値判断の区別がこのように言うことの前提として置かれている。
講演での私の指摘の裏づけにはこの点だけで十分なのである。事実や原理の認識も、その人の持っている選好や道徳観も、態度形成・変容や意思決定に関係するであろうことは私でも(素朴な意味で)認める。しかしそれらは別の概念である。意思決定に関係するものはなんでもいっしょくたでよいわけがない。

注意しておくべきは、命題論理学では、命題の内容について記述命題だの価値命題だのの区別はしない。命題 p と q の内容がどのようなものであろうが、p ∧ q から p とか、p → q と ¬q から ¬p とか、命題間の推論について話をする。しかしどんな文を用意してもよいというものではない。真偽を言うことができる文というのが前提である。
問題なのは、価値判断についてこれがあてはまるかという点である。少なくとも個人の中では、価値判断にでも真偽を割り振ることができるだろう(ここでの「真偽」の意味するところに注意)。それはその個人がどのような価値を持っているかということである。ただし、そのような個人的価値体系は複数人の場においても通用するか(全員が同じ価値体系に同意するか)という点が問題なのである。なぜなら前述の講演内容のような場合にはコミュニケーション状況を想定しているからである。ここが事実記述と価値判断との(誰もが素朴に考えつく)大きな違いである。事実記述は、一般に―だがかなり漠然と―、「収束する」という性質がある(私はこれが客観性というものの本性だと考えている)。一部の価値判断も収束する可能性はあるが、しかし、例えば根源的価値(それ自体として受け入れられそれについて何の理由もないようなもの)があるとすれば、そこに相違があった場合にいったいどのように収束することができようか。
つまりは、大勢でよってたかって価値命題の「真偽」を検討できるのか、という点。これを頭のすみにおいていただきたい。

さて、帰納に話を戻してみよう。
仮説テスト実験などの場合、そこには真なる(正しい)一般法則が研究者によって設定されており、実験参加者にはそれを見つけ出すことが求められる。2-4-6課題では「増加する数列」とか、そういうの。つまり、事例を次々観察していって真の法則へ至れ(収束せよ)、という状況設定である。この真の法則が「正解」であり、そこへ至るのが目標とされる。
また、ある種のバイアス(例えば確証バイアスconfirmation biasとか)は、どの事例を確かめる(観察する)かの選択(search for information)について定義される。ここで、ある選択(あるいは方略)が他よりも真の法則へ至る確率が高いという厳密な数理に基づいてバイアスが定義されているのではないことに注意したい。すなわち、真の法則に至る可能性を最大値より低めていることがバイアスではない。単にバランスを問題にしているのである。(もちろん、演繹の研究の場合にはこの限りではない。)どうしてそんなことになっているかというと、こういう人工的状況ですら、(実験者でなく)帰納をする当人にとっては、帰納は「保証」されない、つまり真なる法則が見えないからである。もちろん自然科学での探求のような状況では誰にも見えない。
しかしながら、上で引いたように、このような課題状況にて研究者によってバイアスだと分類される反応を避けることは、「正しい帰納」の要件とされることすらあるほど、規範的な意味で重要視されている。(もちろんそれに対する反論も心理学の中にはある。古いところでは有名なKlayman & Haなど。) この重要視は、論理的でない直観的な理由でしか正当化されない。しかし、たとえ振り回しているのがそういう根拠だとしても、「バイアス回避(=バランスとり)」唱道者が目指しているのは真なる法則へできる限り近づくことである、ということは少なくとも確かであろう。

さて、ここに至って思い出してほしいのは、ここで私が問題だと指摘していたのは価値命題についてであった。価値についての真なる法則(真なる価値)は、このような(事実についてと同じ)やり方で、それに近づくことができるのであろうか。これがまさに私が「わからないので説明してください」と言った対象である(私がわからないと言ったのはそれが不可能であると私は立証できるという意味ではない。単に理解できていないという意味)。
価値が真であるかどうかは、事例の観察とつき合わせてそれがあてはまっているかどうかを検証できるものだろうか。というよりも、「あてはまる」という概念が適用可能なのだろうか?比較的一般的な価値命題ともうすこし特殊な価値命題との包含関係があればよいとするなら、「あてはまる」と言うこともできよう。私はその意味での「帰納」は否定しない。しかしその場合その特殊specificな価値命題というやつは事例の観察でも収集された情報でもないのではないか。つまり真であるかどうかを「確かめる」という類のものではないのではないか。「人を殺すべきではない」という命題について何をどう確かめるというのか。価値命題は往々にして個人的である。個人の内で(私のいう狭義での)帰納推論を展開することはできるだろうが、その場合は前提は「自分が思っていること」であって、それは何を調べるまでもなく自分にとって明らかな命題であるし(不明なことを調べるのではない)、しかもこれまで挙げたような例では、個々の特殊命題よりも結論の一般命題が先に在ったりすらする(すでに真だと認められていたりする)のである。
念を押しておくが、私はあらゆる意味での「真理」概念においてあらゆる価値命題のあらゆる検証ができないと主張しているわけではない。少なくとも事実的仮説の検証の文脈とは違う意味での「真」でしかないのではないかと問うているわけだ。そうだとするなら、両者を同じ枠組みで語ろうというのは、かなりの断絶を乗り越えるべく説得的な論拠を伴った心理学理論が必要と思われ、「なんとなく」で両者をつなげられそうにはとても見えない。
もちろん、すべての事実判断が客観的ですべての価値判断が主観的だと言っているのではないよ。

かの場でも話したが、これを意思決定理論の枠組みで考えようというのは、実は講演の方向とは逆方向のアプローチではあるのだが、少なくともお先真っ暗ではなさそうな道だ。状況のさまざまな側面を検討して、ある価値命題(例えば「~~という行動をすべきである」)に従う、と決断する。この過程はまさに意思決定研究者が調べてきた対象であるし、岩男さんの講演内容で扱われていた対象そのものでもある。
しかし、現状として意思決定研究はこのような場面のみを対象としている。2-4-6課題のような仮説テスト場面はカヤの外である。理科の実験授業での子供たちの振舞いを説明するのに主観的期待効用理論やプロスペクト理論が使われたことがあるか?私が知らないだけならよいが。客観的事実についての帰納過程の研究は、それ専用のモデルをあてているのが現状だ(岩男さんの講演の前半もその範囲を出ていない)。

まとめると、上で私が挙げた(客観的事実判断の帰納過程のモデルを価値判断にも転用するという仮想的方針の)難点は大きく分けて2つ。
1) 価値判断の真偽は、それが含意する特殊命題を(価値でない)出来事の観察や情報の収集によって検証するということができるようなものなのか?
これはいわゆる自然化と呼ばれていることの一種類と関係する。そして、結局次の点が問題となる。
2) 価値判断の真偽は、複数の人間による討議のようなコミュニケーション場面で皆が認める正しい1つの答え(真か偽か)に至るということが必ずしもできるものなのか?

最後は"アンしあ"らしく皮肉って締めようか。
2)がもしできるとするならば、イスラム原理主義者の一部の方々によるアメリカ合衆国への敵対心や破壊的行動は、単なるコミュニケーション不足ということですね。「もうちょっとヒザを合わせて話し合えよ」で解決する問題ということになりますわね。

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あるある

このブログは心理学の専門家以外にも読まれているようなので、このところの大事典の問題について、すこし実情をもらしておこうと思う。

心理学者はあんなものははなから信じちゃいない。
思考や社会的認知の研究をしている人は特にだ。
研究会などでダメな例として引き合いに出されていたくらいなんだから(ねえ、Hさん)。私も某所でしゃべったときに挙げてしまったし。
それどころか、Gilovichの教えが普及しすぎているのか、そういう話を聞いたそばから鼻で笑う人もいる。占いや血液型なんかの主題は特に。こちらはこちらでおかしなことになっている。逆の連合ができているのだ。つまり即否定。(似たようなことはいわゆる自然科学者による擬似科学や宗教への批判でも起こっている。)
まあ、こんなに極端ではないとしても、少なくともうちの研究室には、かの番組を見てスーパーへ行って実践しようなんて考える人は一人もいないだろう。
だから、そういう心理学者にとっては、事件は衝撃でもなんでもない。そういうの(番組の内容が事実ではないこと)はよくあることだと思って観ているはずだ。放送メディアとはそういうものだと。(まあ、実験計画がまずいのがスーパーに行かない一番の理由かもしれないが。) この不信心には、どういう種類の番組かはあんまり効いてこない。数少なくマシなのはニュースとNHK教育か。しかしそれらすら疑っている人もいる。これが専門家の俗世界観。

さて、ここまでで終わればいいのだが、そうではないのは毎度のこと。

専門家のこのような態度は表向きなのである。言い換えれば、裏がある。
こんな風に、あの番組はまるきりダメだね、って研究の場なんかでは言っちゃあいるけど、そういう人たちの日常生活をのぞいてみると、番組の占いコーナーを日々観てたり、カフェでの会話で「AB型だから~」とか言ったり、「○○成分配合」とかいう新商品をコンビニで優先的に選んだりしている。
つまり、仕事上と日常生活での信念が乖離しているように見える。
しかしこういう例は「それが真実だと信じている」ということではないだろう。
じゃあなんでかというと、もうある種の文化的なものになっているんじゃないかと私は思う。「おはようございます」みたいなものだ。午前中に同僚と出会って「おはようございます」と言われてほんとに早いかどうかを考える変人は滅多にいまい。「DHAたっぷり」もそれに近いところまできている。(たぶんこんな程度の論考をしている社会学者はすでにいっぱいいることだろう。)
番組の話に戻せば、そういう事実にもとづかない作りこみを容認している向きさえある。それをすることがそんなに悪い社会だと思っていないのだ。だって文化だもの。飲料のCMで「やせます」とか言ってても、「そんなの証拠不十分だろ!」って会社に電話して目くじら立てたりしないのである。
それが大人の専門家である。

そう考えると、あれを非難するのは大人げないことになる。

どうです、大人。

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非復元単純無作為

書いて放置していたのだが、以前書いた無作為抽出の話の続き、日のもとへ。

前回の記事中に「本気で」と書いたが、これは個々の要素(前回の記事では個体)の選択確率を厳密に同じにし、独立に選択する、という意味だ。特に、選択の過程を通して独立である、ということを意味していた。そのためには、復元無作為抽出法を適用しなければならない(それ以外の方法を私は知らない)。

単純無作為標本(抽出)というのがある。
これは、可能なすべての標本が等確率で抽出される、というのを定義に含んでいる。可能なすべての標本というのは要素の組み合わせのすべてであるから、必然的に、ある要素が標本に含まれる確率も全要素において等しくなる。
そういう意味で要素については平等なわけだが、これは(同時ではなく系列的な)抽出の過程を通じて要素の選択確率が一定であることを必然的に要求はしないし、選択の系列における独立性も要求しない。
単にすべての標本の抽出される確率が等しければよいのだ。だから、非復元抽出でもよいわけだ。

しかし、標本理論に依拠する多くの統計解析法が話の出発点として置いているのは、復元抽出である。たぶん理由は、話が簡単だから。
それを見て取れる例の一つが非復元抽出の場合の有限母集団修正だ(もちろんこの修正がある場合のほうが誤差が小さくて良いのだが、良いか悪いかはここでは別問題)。非復元抽出では各回の間で相関するから、こんなことせにゃならん。

こういうのは専門家には周知のことだから統計理論としては問題なく発展しているのだが、さて、一般ユーザはどうだろう。
サンプリングまわりのことをわかりずらくしているのは、サンプリングに関して言及されているのが標本のことなのか構成要素のことなのかを学習者がきっちり区別できていないことだ。ここをもっと強調して教えてくれるとよいと思うのだが、そうもいっていないみたい。日本でここを徹底してくれる教官に出会った人がもしいたら、その人はラッキーだと思います。
いわゆる文系の初学者にとって似たような困難は、標本要素の分布と推定量の分布との間にもある。

さて、有限母集団修正に話を戻すと、分散に(N-n)/(N-1)をかけるわけだけど、普通の教科書だと、抽出率(母集団サイズと標本サイズの比率)が小さい場合には1に漸近するから気にしなくてよくなるよ、って教えられる。
そこで学生は「なんだよ、じゃあ最初から教えるなよ!」ってずっこけるんだけど、教官はなんでこれを説明するかって、頭から消してしまうと問題が出る状況があるからいちいち言うわけであって、つまりこんな細かいことでも覚えておきなさいよ、ってことなわけで。というよりも言わないとまずいから責任回避、的なことかもしれないけど。しかし学生側としては、右から左へ抜けているので、超幾何分布なんて覚えてる心理の院生は激レアだと思われる。

じゃあそのまずい状況を考えてみる。
うちの学部とかってまあ学生が3、400人くらい(?)いて、そこで6、70人誘ってきて実験とか調査とかする、というよくあるパターン。
ここで、誘ってくるのが無作為抽出か?って根本的な問題がもちろんあるけど、そこは今回は目をつむって非復元単純無作為だとしましょう。心理学では母集団をどこに設定するかっていう問題もよく議論にあがるものだが、ここでは自分の学部の被験者しかとってないんだし、全人類に統計学的に一般化なんて無茶は主張せず、統計学的一般化はその学部くらいを焦点にしておきましょう(それでも300人について言えるんだから)。それ以上の一般化は別の根拠で。
さて、この場合に先の修正項はどうなるかというと、(300-60)/(300-1)≒0.80です。8割ですよ。標準偏差については、ルートとるからおよそ9割です。これってぜんぜん無視していい数字じゃない。
みんなが好きな検定にもがっつり影響しますよ。

そういえば、私は市販の統計ソフト(Sで始まる)で母集団サイズを入力するウィンドウが現れるという場面を未だ見たことがない。どうなってんだろう。

まあ現場的観点からの結論としては、よかったね、ってことです。いや、よいケースは限られるか。困ったね、ってことです。

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関連主義

再び私の個人史の中では古い部類の考え(しかし比較主義よりも後、【es】~Theme of es~を聴いて甘いなと思っていた頃のもの)を書き留める。私はこれを関連主義と呼んでいる。

この世界のもの(objects)は、遍く関連の集まりである。

そしてそれらすべての関連の集合が世界であるとも言える。

なにかモノ(例えば鶏や桜や石やたんぱく質や空気やπ中間子)がそこにあって、それがいくらか特徴的な性質や他のモノとの関連性(例えば既知の物理法則に従うような)を持っている、というのは正しい把握ではない。逆である。関連性がそのモノ自体なのである。
この世に根本的にあるのは物質ではない。物質自体、関連の集合である。
この方向がまともなのに、逆方向に考えようとするのはessentialismの匂いを感じる。それはそれで人間の持つ認識上の特徴であり適応的な方略なのかもしれないが、それは人間の認識範囲の限界とイコールではない。
もう一度モノとは何かを考えればわかる。

何かと何かが関連する。これが我々の世界の基本単位であり、関連を欠くものは存在を認められない(世界の外である)。だから関連性をすべて取り去って残るものはこの世界にはない。
ではその関連する何かとは?それは関連があって初めて定義されるのである。論点先取に見えるかもしれないが、そうではない。この点がこの説を理解できるかどうかのターニングポイントだ。述語には(特定の)主語は要らないのである。
もちろんこの原理は、substanceに限らず、認識対象すべてに当てはまる。無意味でない(この二重否定もコツ)objectを認めようとすれば、それには関連が必要である。

「何を言っているんだ、おかしいんじゃないのか、石は他のものと関連しようがしまいが(例えば無重力の真空中にあって何にもぶつからない状態でも)そこにあるだけで石だろ。」と思った人は、石がそこにあると知るために何が必要かを忘れている。

ああ、この考え方と、述語論理との関係を考えるのもよいかもしれない。例えば自由変項と束縛変項の概念の話とか。いったい何がprimitiveなのか。高階述語論理も考えるとおもしろい。
今思えば、この立場は、機能主義と仲がよいように見える。だが当時は私は機能主義を知らなかったし、それ以後これらの関係を考えてみたこともなかったので、私にとってはこの点の深い分析は手つかずのままである。

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