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2007年3月

sympathyとempathy

ゼミで発表を聞いて思い出した。
以前、同僚の某さんが共感に関する研究を発表されたときに、「empathyとsympathyの違いは何ですか?」と聞いたことがある。empathyの定訳は共感で、sympathyの定訳は同情だそうである。
そのときのTさんの答えは、sympathy ⇒ empathyということだった(この書き方は誤解を招きかねないが勘弁)。sympathy には相手の感情を自分も感じるということが付加される、とおっしゃった。empathyは単に認知的に他者がどんな感情状態であるかを推定するだけ。

たしかに、WordNetによると
empathy := understanding and entering into another's feelings
sympathy := sharing the feelings of others (especially feelings of sorrow or anguish)
だそうだ。

そうすろと、empathy への「共感」という訳語ははまずいのではないか?字面をみると明らかに「共感」はsympathy に合っている気がする。

さて、どこが誤っているのだろう?
1. われわれの日常の語用
 他者の感情を理解することについて共感という語を使うのがおかしい。
2. empathyの翻訳
 empathyを「共感」と訳すのがおかしい。
3. 区別の定義
 empathy と sympathy の違いを上のように定義することがおかしい。
4. その他
 

どれでしょう。(複数選択可)

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夢と驚き

昨夜おもしろい夢をみた。
というのは、べつに内容がおもしろいというわけではなく、そのような夢を見たという事態が心理学的に興味深いということである。

その場面で私は小学校高学年から中学生くらいの人たちを相手に授業か講演みたいなことをしていた。そこでの設定は、聴衆に質問なりコメントなりしてもらって、それに私が答えるというものだった。
一人の女の子(たぶんそうだった)から「私は人間は電池で動くようにすればいいと思います」という意見が出た。
これに私がどう答えたかはともかく、この意見が出た時点で私は「ほう、そうきたか」というfeelingを得て、その後すぐさまそれに対する応答の大まかな道筋が思いついた(この点は私が研究会などに出席したときと同じであるのでとりわけ特別なことはない)。

問題は、意見がでたときに私が驚きの感覚を持ったということである。
夢で驚くことがあるというのは言うまでもないのだが、この場合は何かが飛び出てきてびっくりしたとかそういうことではない。私はまったくそのような質問が来るということを思いつかなかったのである。いわゆる思考に関する問題である。
つまりは、もしこの夢を私の頭が作っているならば、私の中で私とは異なる「思考」をする私がいるということだ。
私がやっているのが世界の動きの予想とそれに対するアノマリーの提出などではなく、まさに「思考」を別個に独立に行うことができるということである。
もちろんこれに対する現状の回答はあろうが、私は、人間はデフォルトで多重人格ならぬ多重思考ではないかと疑い始めた。熟慮的思考は単一系列的であるということも疑うということだ(熟慮的v.s.直観的思考の二分法は直観に還元するという意味で疑っているというのは既述(「直観主義」参照))。

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他者についての推論と理解

今日のゼミで私が質問したこと。

他者理解の研究は、他者の心的状態についての推論の研究がもっぱら多い。理論だろうがシミュレーションだろうが、それは心的状態をいかに推定するかという点で争っているのである。

さて、しかしながら、「他者理解」を研究したいなら、そもそも推論には限らないのではないか?
たとえば「ウメさんは計画が失敗したと思っている」という文の意味自体を「理解」できることが、他者理解に必須の能力でかつ推論能力ではないものを示しているのではないか?

よく使われる誤信念課題(false belief task)などでは、参加者(たいてい3-5才)に自発的な推論をするよう求めているように見えるが、そういう推論(目の前にないことや述べられていない部分を埋めること)ができるかどうかと、「そもそも他者が思っているとか感じているとかいうのはどういうことか」というのを理解できることは、別ではないかと思われる。
「他者の心」という概念がちっとも理解できないなら、それについて現在状態を推測するなんてできるはずがない、とほとんどの人は考えると思うが、だからといって逆も正しいということはなかろう。

にもかかわらず、多くの研究ではこの「推論」を課しているし、冒頭の私がコメントした研究でも、ToM条件(と発表者が呼ぶもの)と統制条件との間に、それが他者信念に関するものか物理的事実に関するものかという違いだけでなく推論が要求されているかどうかも違っていて交絡している。「他者理解」には推論が必須なんだ、推論を除いてしまったら他者理解能力を測っていないんだ、というならこれでもよいだろう。
それなら、じゃあ、「昨日となりの源さんが足をくじいてすごく痛そうだったよ」という家族の発話、これは自分でその命題を推論によって導かなくても家族がそれを提示してくれているわけだが、これを理解することは何も社会的能力を要求しないのだろうか。いやそもそも言語能力が・・・。

はたして他者理解において推論は必須か?

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複数性はvarious perspectivesだけではない

ある個人が物事を見るあるいは考えるときに、多さ(複数性)が大切であると教育、科学的研究、法学、思想その他の分野で唱えられてきた。

この複数という点に関して、以前から私は、少なくとも3種類の複数性を区別すべきであると言っている。

1) 視点の複数性
2) 側面の複数性
3) 対象の複数性

これらは意味が異なるなるのに、それぞれを意味するのに同じ用語が使われていることが多い。
例えば、「多面的」という語は、1)にも2)にも使われている。「多角的」は1)にも2)にも3)にも使われている。
英語の場合にはそれぞれがどう表現されるのか私には確信はないが、1)の「視点」はperspectiveやpoint of viewと呼ばれていることが多い。2)の「側面」を表すのはaspectかと思うが、側面の複数性はmany-sidedとかmultilateralとかmultifacetedとかいう言い方がされていて(ある文脈で)これらが同じなのかどうなのかわからない。3)の「対象」が微妙なのだが、もし対象と方向を区別するならばそれぞれobjectとdirectionが対応する語かと思われる。しかし、上で控えめに3つとしているように、これらを区別することが何を意味するのか今のところ私には明らかではない(ここでは物事を考えるという文脈で話をしているので)。

3つの違いが明確になるよう日本語の用語をあてるなら、1)が多視点的、2)が多側面的(これが多面的と呼ばれるのがよいだろう)、3)が多方面的(これが多角的に一番合うかな)、というやり方がとりあえずの候補として挙げられる。

先日の研究会(私は欠席)で配布された資料を見せてもらったところ、Mさんの研究では多面的という語を使いその重要性を考察されていたが、その英訳ではperspectiveを使っておられ、これは私による上の語用と違っていてconfusableだと思われる。
Hさんは、彼女のCT研究の発表を初めて聞いたころの昔から、多面的と多角的を区別されていた。他の方の研究ではこのような区別は見たことがないから(もしあったらごめんなさい)、彼女は私をしてセンスがあると思わせる。

ちなみに、1)視点の複数性が、他者理解、自閉症、共感の研究の主流で重要視されていることだ。2)や3)も同じく幼児には難しいと思われるが、これらの間の関係を扱うという道に近づいているのが、領域一般的な認知能力(たとえばEF)との関係を見るもので、最近増えている(うちにも何人かいらっしゃる)。しかし扱い方はそれだけしかないはずはなくて、3つそれぞれ異なる能力であるという可能性もあるはずだが、そういう可能性の検討はまだ見たことがない。

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脳の一部分の変化から何がわかるか

先日の研究会で、「脳の損傷後に行動的に特異な変化が見られたからといって、それにとってその部位が必要とも十分とも意味しない」という内容の発言をした。
ここで言う損傷とは、例えば Phineas Gage のような事例を思い浮かべてもらってよい。
すぐさまその場で参加者のSさんから「十分でないというのはわかりますが必要だということは意味するのではないですか?」という反論をいただいた。
が、そのときは会の議論の焦点がそこではなかったこともあり、十分に説明しないまま流してしまったので、ここに書いておく。

上の反論にもあるように、ある脳部位の変化(損傷)が原因となって現象的変化や行動傾向の変化などが生じたとして ―その変化を引き起こしたのはその損傷なのだという因果関係を特定できたというこれはこれで要注意な前提のもとで―、その脳部位がその特定の体験変化をもたらすこと(例えば常に不安でたまらなくなるとか)や特定の認知的機能(例えば顔の識別など)の十分条件であるということは結論できない、ということのほうは、比較的理解してもらいやすいのだろう。
念のため説明しておくと、その部位が正常intactであっても、他の部位(例えば隣の部位)が損傷することで同じ症状を引き起こすかもしれない。だから、(定義上の)正常な体験や身体機能(音が聞こえるとか手で目の前のものをつかめるとか、などなど)のためにはその部位が正常であるだけでよいという主張は、部分的損傷によってその機能が損なわれたことだけからでは導けないのである。

さて、十分性のほうはよいとして、必要性のほうも私は否定している。

十分性の場合と同様に(よって文を簡単にするが)、ある脳部位が損傷することで何か体験的あるいは機能的変化が生じたとする。しかし、だからそれらの体験なり機能なりにその部位が正常であることが必要だったのだ、とは言えない。なぜなら、他の条件が何か変わることで、たとえその部位が損傷したままであっても、当該の体験なり機能なりが復活するかもしれないからである。その可能性が残っているなら、その部位が必ず正常でなければならないとは言えないはずだ。実際に、機能回復する例はある。

だから、脳の損傷からは(単独では)必要条件も十分条件も含意されないのである。
このことはもちろん脳疾患にも当てはまるし、それどころか多くの脳の活性部位の研究(最近流行の脳イメージング研究を当然含む)にも当てはまる。
特定の部位の変化(活性化だったり病変だったり)と行動パターンが相関するのをひとつ見つけたからって、(それはそれだけでは必要とも十分とも含意しないんだから)大したことは言えないのである。それによって示唆されるのは、「何か関係があるかもね」というヒント程度なのである。
そうそう、多くの人が賛同するように、病変のほうが脳イメージング研究よりも理論を画期的に発展させる見込みが高いだろう。しかしこれは、特定の脳部位がどうこうという(原因の精緻化に関する)理由ではなく、行動パターンのほうについて意外な情報が得られるという理由がもっぱらメインだと私は思う。行動と脳部位との関連性を匂わせるという点においては、ここに上げたどの情報源でも同じだから(もちろん同質ではないが)。
それと、必要十分の話からはどんどん脇にそれるが、多くの人(特に患者に接するのではなく専門家のまとめ報告を読むだけの周辺知識人)が見逃していることには、脳のある部位に傷がついたからって特定の症状が100%出るなんてことはそうないのである。おもいきり個人差があるのだ。とくに突飛なことが起こる症例が目にとまりやすいからそれが興味深く報告されているだけであって、昨今増えているそういう脳科学の本を読む人は、それがすべての人に起こっていると思ってはいけない。半側空間無視だって分離脳だって盲視だって全員ではないのだ(もちろん、ものによってその現象が生じる割合が高いものもあるし、精度が上がれば将来はほぼ確実な物理的対応物を限定できるものもあるかもしれない。実際、例えば脊髄を切れば体は確実に随意運動しなくなる)。だから、神経疾患や損傷が必要条件を示していると考えている人の根拠そのものすら危うい。

話を戻すが、実はこの必要性、十分性の証明不可能性の話は、脳の外傷、病変、活性化などの知見に限らず、脳科学にも限らず、生物学にすら限らず、あらゆる経験的探求に共通するものなのである。
必要とか十分とかいう概念は論理の領野のものである。それは必然について語るのである。そして、自然世界についての探求がそれと対照的にいくらがんばっても必然へ格上げできないということは、大昔から学者が指摘してきたことである(ごく最近はそれに奇妙な対抗をする人もいるようだが)。だから、上の脳損傷に関する知見の扱いについての指摘は、取り立てて目新しいことを言っているわけではないのである。

もちろん、脳疾患や損傷や部分的神経活動の研究に何も意味がないと言っているわけではなく、それらはヒントはくれる。ので、何が原因なのか、どういう仕組みなのか、どんな条件があるのかなどは複数の知見を加味して全体的に判断するしかないということだ。そしてそれ(neural implementationの研究)は大部分心理学の仕事に依存している。

ああ、この項で散々ブイブイと言ってきたが、「部位」ということを考えるのがそもそも脳機能局在を前提している。そしてそこんところに賛成しない人が現在も結構いるはずだ。もちろんこれは「局在の主張はマップする機能が何であるかに依存する」というweakな立場の人も含むが。
局在論は可塑性と仲が悪いし、もっとfamiliarなことには、脳の空間的配置と延長に個人差があることも局在論の困難を増やす。しかも場合によってはほとんどtype identityを主張しかかっている。
私が言いたいのは、部位の話をするときは、それが「いまこの瞬間にその部位がこれこれを担っている」ということと「これこれは必ずその部位を要する」ということを区別しなければならない、ということ。しかし、心理学者も神経科学者も平均が好きだから、平均を使っているうちにそれをinvariantと読み違えることがある。注意してね。

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標準偏差の不偏推定

確率変数Xと任意の関数 f について一般に、
E[ f(X) ] = f( E[ X ] )
が成り立つとは限らない。

まあ、あたりまえである。

が、よく見かける誤解はこれの一種である。
対象とする確率変数を不偏分散 U 、母分散をσ2、s = √U (不偏分散の平方根) とすると、
E[ s ] = E[ √U ] = √E[ U ] = √(σ2) = σ
まさにこれを信じている学生がけっこういる。E[ s ] = σ を。
どうしてだろう。どこで習ったのだろう。

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