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accessibility

「情報」とはどのようなものであるかに関してこれまでにいろいろと発言してきたのだが、今日はとくにaccessibilityとの関連で書いておく。前回の続きも兼ねて。

私は少なくとも次の区別を導入すべきであると言ってきた。

まずアクセス可能性accessibility。これはある情報にアクセスできるかどうかであり、記憶研究でよく使われる語である。これについては程度が考えられることが多いが、これは状況を越えた一般性や通時的差異などを想定して確率的に扱うからである。基本的には可能/不可能の二値である。何がアクセスされるのかが問題なのだが、先送りしてとりあえず「情報」と呼んでおこう。
アクセスできる状態というのは、currrentlyに(onlineで)つながりを持っているということを指す。たとえば、心に浮かんでいる状態(in mind)のことだ。その情報を「使って」判断なり意思決定なりすることもできる。ただし、厳密には、意識的である必要はない(定義に意識的という言葉は関わらない)。無意識的であってもアクセスは可能である。注意すべきは、「アクセスしている」と「アクセス可能」は区別される。
記憶研究の定説に作動記憶という概念があるが、これに保持されている状態がどの状態にあたるのかはよくわからない(不勉強ですみません)。「アクセスしている」にさらに区別を要するのかもしれない。話がそれるが、この辺りが私が現在の記憶研究に不満な理由の一つなのである。
最近は意識研究にてアクセスという言葉がよく使われるようになったが、そこにおいてもこの意味でOKだろう。記憶研究においてはアクセスされる対象は記憶システムに保持されているものであるが、アクセス可能性という用語は本来それに限らない意味と考えるのがよいと思われ、意識研究における用法も整合的に理解できる。

次に利用可能性availability。これはその情報を利用できる状態にあるかどうか。これも基本的に二値である。利用できない状態というのは、心理学では典型的に、それについて知らない状態である。たとえば、遠く離れた土地で私の親族が他界したことを私が誰からも知らされなければ、私はそれを利用できない状態にある。ただし、他界したことを知らされたにもかかわらず、しばらくしてそれを想起できない(自由再生できない)場合、これは利用可能な状態と見なされることがある。もう少ししたらふと思い出すかもしれないし、何か手掛かりがあると思いだすかもしれない。このような状態は、利用可能であるけれども一時的にアクセスできなかった、と考えられている。

さてこの利用不可能な状態だが、もう少し細かく区別される。それが可知性knowabilityである。
不可知なものとは、どのようにしても利用可能ではないものである。可知なものとは、現在利用可能なものか、あるいは、たとえ現在利用不可能であったとしても、何らかの手段を講ずれば利用可能になり得るものである。例えば、私の特定の親族Xが存命であるかどうか私は知らないが(利用可能ではないが)、それを確認する方法がいくらかあり、私はそれを実行することで存命かどうかを知ることができるであろう。よってこのことは可知である。片や、私が死んで100年後に何が起こるか、これは私にとって不可知であろう。
また、心理学的には、可知で利用不可能なものを利用可能なものに転ずるためにどれくらいのコストが必要か、の観点から程度を考えることも重要だと思われる(実際に動機づけ研究にはそのような観点からの考察がたくさんある)。
まあ、今回はアクセス可能性がお題なので可知性に関するこういう細かい分類は省略しよう。

私は上のような用語の当てはめがよいと思うが、それぞれを何と呼ぶかはともかくとしても、個体と情報との関係を考える上でこれらの状態を区別するのがよいことは明らかだと思われる。それぞれの間の関係性も踏まえて整理すると、情報は
・アクセスしている
・アクセス可能
・アクセス不可能だが利用可能
・利用不可能だが可知
・不可知
に分けられる。これらは全部「可能性」についての概念での区別であるが、先述したように、アクセス可能性や利用可能性などは刻一刻と変化するものと考えられるので、この可能性の階層的分類が静的なものでないことに注意しなければならない。

重要な問題は、アクセス可能性と利用可能性が区別されているのだが、これは個体が情報を「保持している」(あるいは「記憶している」)という概念的前提の上に成り立っているということである。つまり、少なくとも日常的理解においては、アクセス不可能なものについて利用可能な状態と利用不可能な状態は異なる意味をもつ。
そして、「無意識」という概念がそこに絡んでくると、一見厄介なことになる。先述のように、情報に「アクセスする」ことは無意識的であってよい。これはonlineの感覚情報だけでなく「保持している」情報についても同様である。そして、このことは実際に起こっているとこれまでの記憶研究が明らかにしている(どのような形態でその「情報」を使っているのかまだよくわからない部分が多いが)。だから、ある情報が利用可能なのか、アクセス可能なのか、アクセスしているのかを簡単に識別することはできない。込み入った実験的方法でしかもしばしば統計的に推定しなければならない。
だがこれは当たり前であり現状仕方のないことである。アクセスが意識的であればこの方法論的問題は消え去るかというと、そうではない。意識的であろうと、それは「推定される」ものである。原理的な差異はない。アクセスという面に関しては、意識的か無意識的かという違いは、アクセスすることそのものではなく、アクセスの内容とそのアクセス自体についての情報取得にいくらか現れる。
ここで、メタ認知という概念が首をもたげるかもしれないが、それはまだ必要ではない。アクセスした(している)ということの情報へのアクセスは(これぞメタアクセスであるが)意識的でなければならない必然性はない。また、そのような高次の情報が一次の情報と別に扱われなければならない理由もここまででは未だない。

さて、先送りした「情報」であるが、これはいったい何であろうか。それはアクセスされるものである。
いろいろ書くと長いのでここでは一側面だけに限定するが、情報には使われるものという含意がある。いくらかの哲学者もそうしているように、アクセスという概念は通常、行動の制御の原因となる役目を担わされる。使われてこその情報である。裏を返せば、使われないなら情報ではない。では使うかどうかは誰が決めるのか、それは主体である。だから、あるものが情報であるかどうかは主体に依存する。
ただし、ここで「可能性」の話を忘れてはいけない。そのためにアクセス可能性がお題にされたのだ。それはポテンシャルと言うほうがわかりよいかもしれない。情報の通常の意味では、この概念が導入されるのが自然に思える。それによって経験的方法論的には問題をまた少し難しくさせてしまうが、しかたない。情報と可能性との関係。これが情報を考察する際に重要である。

  アゲハ蝶にある波長の紫外線を照射した。見たところ、何の変化もない。
  その波長の光を感じ取っているように見えない。
  すなわち、その情報にアクセスしているようには見えない。
  しかし、照射しなかった個体とは何か異なる行動を数週間後にするかもしれない。
  もしそうなら、その刺激にアクセスしており、
  従ってその刺激はその個体にとって情報であると言うべきだろう。
  だが、その特異な行動を発現する前に死んでしまった場合はどうか。
  その個体にとって紫外線は情報ではなかったというべきだろうか?
  そのような個体にとっても情報であるというのなら、
  我々は一般に、特定の個体にとって情報であるかどうかをどう見分ければよいのだろう?

結局、因果関係の同定の問題とかぶることはお分かりいただけるだろうが、こと情報に関しては、即座の引き起こしではなく長期潜伏し、場合によっては結果が起こらないこともある、という特徴を備えている。結果の起こらない原因は原因だろうか?

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