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2007年4月

演繹は知識が増えない?

先日、「もう使わないから」というので頂いた本を、ぱらぱらっとめくってみると、こんなことが書いてあった。
心理学の基礎 三訂版 培風館 p.189

演繹推理においては結論に含まれている情報は、全て前提の中に含まれている。したがって、演繹推理においては結論によって新しい情報が加わったり、新しい知識が増えたりすることはない。
演繹推理では新しい情報は増えないのに対し、一般的に帰納推理では新しい情報が増える。

ここで「知識」や「情報」の定義が問題なのだが、この本にはこれらの定義は書いていなかったので、これらの用語は素朴な意味だととってください、ということだろう。
で、演繹推理では知識は増えないらしい。

はてそういえば似たようなことを、と思って、調べてみたら、ネット上でもこう書いてあるところがごろごろ出てきた。ちなみにそういう記述には、Peirceによれば、と書いてあることがときどきある。でも正確な出典を明記していないので、どの論文のどのページだか定かではない。私自身もパースの本にそれを記してある箇所を見つけていない。

ちゃんと専門書にも・・と思って別の本も調べてみたら、
認知心理学 4 思考 東京大学出版会 p.39

「帰納とは、初期の観察や命題にたいして、意味情報を増加させる結論を導く思考である」(逆に、妥当な演繹は意味情報を増加させない)。ここで、「意味情報を増加させる」とは、起こりうるある事態を考慮対象から除外して、可能性を限定することである

ここでは Johnson-Laird (1993) を引いている。意味情報はsemantic informationの訳。問題はこれが何なのかだ。

それから、先の岩男さんの講演でも Holland et al.(1986) が引かれていたのだが、そこでは帰納とは、

不確実な状況において、知識を拡張する推論過程

とされている。ここで言われている帰納とは「非演繹のナンデモボックス」みたいな大雑把なくくりなので、逆に言えば、演繹とは「知識を拡張しない推論過程」であると言っているのだ。


さて、演繹によって知識は増えないのか?
これが正しいなら、数学で新しい定理が証明されても一切知識を増やしていないことになる。
そんなわけはない。そんなこと言ったら数学者に怒られるよ。

しかし、これらの記述が言いたいことがわからなくもない。
ではそこで増えないと主張されているのは正確に言うと何なのか?
それは、論理的に証明可能な真理集合を意味しているのである。この(仮に)真なるものの集まりのメンバーが増えないと言っている。それを囲うのは、論理的整合性の名のもと見えない地平の向こうまでのびる境界線である。これが全部見えるとするならいわば神の視点である。

だが、このような知識の記述は実は学問の世界ではよくなされるのだ。特に哲学や人工知能の研究において。
しかし、われわれの知識とはそのようなものではない。われわれは現在真だと信じ思い浮かべているいくつかの命題から論理によって証明可能なすべてのものを「知って」はいないのである。
そして、新たな命題を推論しそれを(論理なり何なりの根拠によって)真だと信じるとき、それは俗にいう知識を増やしたことになる。つまり、前に書いた利用可能性かアクセス可能性かそのあたりが境界線なのである。
これが、先にあげた数理的定式化に大きく頼る研究群がしばしば無視している点である。

少なくとも「心理学」の本ならば、知識が増えないなどと言ってはいかんのではないか。

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accessibility

「情報」とはどのようなものであるかに関してこれまでにいろいろと発言してきたのだが、今日はとくにaccessibilityとの関連で書いておく。前回の続きも兼ねて。

私は少なくとも次の区別を導入すべきであると言ってきた。

まずアクセス可能性accessibility。これはある情報にアクセスできるかどうかであり、記憶研究でよく使われる語である。これについては程度が考えられることが多いが、これは状況を越えた一般性や通時的差異などを想定して確率的に扱うからである。基本的には可能/不可能の二値である。何がアクセスされるのかが問題なのだが、先送りしてとりあえず「情報」と呼んでおこう。
アクセスできる状態というのは、currrentlyに(onlineで)つながりを持っているということを指す。たとえば、心に浮かんでいる状態(in mind)のことだ。その情報を「使って」判断なり意思決定なりすることもできる。ただし、厳密には、意識的である必要はない(定義に意識的という言葉は関わらない)。無意識的であってもアクセスは可能である。注意すべきは、「アクセスしている」と「アクセス可能」は区別される。
記憶研究の定説に作動記憶という概念があるが、これに保持されている状態がどの状態にあたるのかはよくわからない(不勉強ですみません)。「アクセスしている」にさらに区別を要するのかもしれない。話がそれるが、この辺りが私が現在の記憶研究に不満な理由の一つなのである。
最近は意識研究にてアクセスという言葉がよく使われるようになったが、そこにおいてもこの意味でOKだろう。記憶研究においてはアクセスされる対象は記憶システムに保持されているものであるが、アクセス可能性という用語は本来それに限らない意味と考えるのがよいと思われ、意識研究における用法も整合的に理解できる。

次に利用可能性availability。これはその情報を利用できる状態にあるかどうか。これも基本的に二値である。利用できない状態というのは、心理学では典型的に、それについて知らない状態である。たとえば、遠く離れた土地で私の親族が他界したことを私が誰からも知らされなければ、私はそれを利用できない状態にある。ただし、他界したことを知らされたにもかかわらず、しばらくしてそれを想起できない(自由再生できない)場合、これは利用可能な状態と見なされることがある。もう少ししたらふと思い出すかもしれないし、何か手掛かりがあると思いだすかもしれない。このような状態は、利用可能であるけれども一時的にアクセスできなかった、と考えられている。

さてこの利用不可能な状態だが、もう少し細かく区別される。それが可知性knowabilityである。
不可知なものとは、どのようにしても利用可能ではないものである。可知なものとは、現在利用可能なものか、あるいは、たとえ現在利用不可能であったとしても、何らかの手段を講ずれば利用可能になり得るものである。例えば、私の特定の親族Xが存命であるかどうか私は知らないが(利用可能ではないが)、それを確認する方法がいくらかあり、私はそれを実行することで存命かどうかを知ることができるであろう。よってこのことは可知である。片や、私が死んで100年後に何が起こるか、これは私にとって不可知であろう。
また、心理学的には、可知で利用不可能なものを利用可能なものに転ずるためにどれくらいのコストが必要か、の観点から程度を考えることも重要だと思われる(実際に動機づけ研究にはそのような観点からの考察がたくさんある)。
まあ、今回はアクセス可能性がお題なので可知性に関するこういう細かい分類は省略しよう。

私は上のような用語の当てはめがよいと思うが、それぞれを何と呼ぶかはともかくとしても、個体と情報との関係を考える上でこれらの状態を区別するのがよいことは明らかだと思われる。それぞれの間の関係性も踏まえて整理すると、情報は
・アクセスしている
・アクセス可能
・アクセス不可能だが利用可能
・利用不可能だが可知
・不可知
に分けられる。これらは全部「可能性」についての概念での区別であるが、先述したように、アクセス可能性や利用可能性などは刻一刻と変化するものと考えられるので、この可能性の階層的分類が静的なものでないことに注意しなければならない。

重要な問題は、アクセス可能性と利用可能性が区別されているのだが、これは個体が情報を「保持している」(あるいは「記憶している」)という概念的前提の上に成り立っているということである。つまり、少なくとも日常的理解においては、アクセス不可能なものについて利用可能な状態と利用不可能な状態は異なる意味をもつ。
そして、「無意識」という概念がそこに絡んでくると、一見厄介なことになる。先述のように、情報に「アクセスする」ことは無意識的であってよい。これはonlineの感覚情報だけでなく「保持している」情報についても同様である。そして、このことは実際に起こっているとこれまでの記憶研究が明らかにしている(どのような形態でその「情報」を使っているのかまだよくわからない部分が多いが)。だから、ある情報が利用可能なのか、アクセス可能なのか、アクセスしているのかを簡単に識別することはできない。込み入った実験的方法でしかもしばしば統計的に推定しなければならない。
だがこれは当たり前であり現状仕方のないことである。アクセスが意識的であればこの方法論的問題は消え去るかというと、そうではない。意識的であろうと、それは「推定される」ものである。原理的な差異はない。アクセスという面に関しては、意識的か無意識的かという違いは、アクセスすることそのものではなく、アクセスの内容とそのアクセス自体についての情報取得にいくらか現れる。
ここで、メタ認知という概念が首をもたげるかもしれないが、それはまだ必要ではない。アクセスした(している)ということの情報へのアクセスは(これぞメタアクセスであるが)意識的でなければならない必然性はない。また、そのような高次の情報が一次の情報と別に扱われなければならない理由もここまででは未だない。

さて、先送りした「情報」であるが、これはいったい何であろうか。それはアクセスされるものである。
いろいろ書くと長いのでここでは一側面だけに限定するが、情報には使われるものという含意がある。いくらかの哲学者もそうしているように、アクセスという概念は通常、行動の制御の原因となる役目を担わされる。使われてこその情報である。裏を返せば、使われないなら情報ではない。では使うかどうかは誰が決めるのか、それは主体である。だから、あるものが情報であるかどうかは主体に依存する。
ただし、ここで「可能性」の話を忘れてはいけない。そのためにアクセス可能性がお題にされたのだ。それはポテンシャルと言うほうがわかりよいかもしれない。情報の通常の意味では、この概念が導入されるのが自然に思える。それによって経験的方法論的には問題をまた少し難しくさせてしまうが、しかたない。情報と可能性との関係。これが情報を考察する際に重要である。

  アゲハ蝶にある波長の紫外線を照射した。見たところ、何の変化もない。
  その波長の光を感じ取っているように見えない。
  すなわち、その情報にアクセスしているようには見えない。
  しかし、照射しなかった個体とは何か異なる行動を数週間後にするかもしれない。
  もしそうなら、その刺激にアクセスしており、
  従ってその刺激はその個体にとって情報であると言うべきだろう。
  だが、その特異な行動を発現する前に死んでしまった場合はどうか。
  その個体にとって紫外線は情報ではなかったというべきだろうか?
  そのような個体にとっても情報であるというのなら、
  我々は一般に、特定の個体にとって情報であるかどうかをどう見分ければよいのだろう?

結局、因果関係の同定の問題とかぶることはお分かりいただけるだろうが、こと情報に関しては、即座の引き起こしではなく長期潜伏し、場合によっては結果が起こらないこともある、という特徴を備えている。結果の起こらない原因は原因だろうか?

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correlationism

Ned Blockが今度BBSで出す論文にて、ある種の意識研究のアプローチをcorrelationismと呼んでいる。これは簡単に言うと、現象的意識を研究する最善の方法は、科学的に突き止められる証拠(神経活動)と自己報告(Block流に厳密に言うと認知的アクセス)との相関である、というものだ。(そして私はそれ以外の方法を知らないので「それのみである」とも言えるかもしれない。)
Blockはさらに、metaphysical correlationism と epistemic correlationism を区別する。metaphysical correlationism とは、認知的にアクセスできないならそれ(現象的意識)は存在しない、と考える立場である。epistemic correlationism とは、認知的にアクセスできなくても現象的意識が存在している可能性はあるが、それは科学的に扱える問題ではない(つまりそんなことはわかりようがない)、という立場である。で、metaphysical correlationism はあっさりと間違っていると切り捨てられて、epistemic correlationism がこの論文での反駁対象として吟味されている。

この論文にてBlockは自らのこれまでの主張である現象的意識とアクセス意識の区別の根拠の一部になっている「アクセス意識なしの現象的意識の可能性」にふれるが、しかし私にとっての核心を通り過ぎて、machineryがconstitutiveな関係であるかどうかに焦点を持っていく。
おーい。
そもそもこの区別に同意しない人にはこの議論はまったくフィクションにしか見えないだろう。
そして、ここにこれまで書いた「意識」関連の記事から推察していただけると思うが、私もフィクションらしきものを読む一人である。この区別を未だ信じられない。いろんな人の例を読んでみたのだが、現象的意識とアクセス意識が区別されなければならないと確信させる説得的証拠を未だ見つけていない。もちろんBlockの論文で挙がっている例も全部私に対して効力がなかった。
そういえばDennettも現象的意識に(正確にはqualiaがターゲットのように思うが)懐疑的なようだが、その根拠が私とぴったり同一かどうかはわからない。彼の文章は私にとって読みにくいし、話したこともないし。
Chalmersもnatural supervenienceを認めているようだから(彼はlogical supervenienceだけを否定する)、その主張が刀を振るうのは科学者の関心からはるか遠くであり、私の立場とcompatibleなのかもしれない。が、よくわからない。
彼らはともかく、私にとってかの区別が信じられない理由は、現在のところ、その概念的区別が単に無意味に見える、ということである。「雌のニワトリ」と「めんどり」を区別することのように。だからまずPhenomenalとAccessの区別を認めて、片方は現実には存在しないなどと主張する、そういう立場すら私にとっては賛成できない。把握されつつも因果的効力を何も持たないものがあって、認知的アクセス可能なものとは独立している、と考えなければならないと思わせるようなcompellingな証拠がまだ私の手には無い。Blockが挙げているような証拠は私にとっては(彼の言葉を借りれば)phenomenal consciousness内の区別を示唆するものであるように見えるのである。私の鈍感さが原因ならば不勉強を反省するのみで済むのだが…。
さらには、それを把握し行動に反映することができながら因果的つながりを何も持たない(認知機能としてはどうなっていてもよい)ものが存在するという主張は、矛盾するか物理世界の因果的閉包性を破るかであるように聞こえる。後者ならばまだいいけどそれなら一元論でも随伴現象説でもないだろう。前者と同じ論点については青山さんも書いている

基本的にこのPhenomenalとAccess(あるいはPsychological)の区別は「そんなもの概念的に違うにきまっているだろ!」という直観に負うている(あるいはそのような概念形成を一連の哲学論者によって強制されている)。じゃあもしこれがmisconceptionだったら? 話はおしまいですね。

accessに関する区別についてもう少し書こうと思ったが別項にしよう。

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