« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月

空集合の集合

おもしろい記述をみつけた。

存在しないことは存在するか

集合論を理解するキーポイントはφではなく、{ } ←こいつ(このカッコ)のほうだと私は理解してきた。
というか、{ } ←こいつが集合論での根源的な概念だと思っている。こいつ自体は正当化されない。だから、こいつに納得するしかない。そうでなければその人は集合論を理解できないだろう。

先ほどからこいつこいつと言っているのは、まさしく「集合」のことである。
公理系が云々とか言う前に、{ } が使えるということが大前提である。
{ } この記号の意味を理解したなら、もうほとんど習うことはない。
一番のハードルはこれである。
つまり、何の理由も与えられないのにこれを受け入れなければならない。
受け入れれば集合論は何ということもない。
しかし、ある人がこれを受け入れられないからといって、周りの人がそれになんやかんやと理由をつけることもできないのである。
だから、どうしようもない。
この点は、論理の正当化と同様である。

しかるに、{ } (空集合ではなくカッコの記号を意図しています)が理解できるなら、φ と { φ } との違いもおのずと理解できる。理解できないなら、その方は { } が理解できていないのだろう。でも、理解できるという保証もないだろう。

ちなみに、φ と { φ } との違いは、(上のリンク先が言うような)「事実」の問題ではない。数学だから。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

高次の信念

今日の大森さんの講演で、高次信念の話が出た。
彼はレベル0、レベル1、レベル2、と呼んでいたが、われわれの分野で言うところの一次の信念、二次の信念、三次の信念と同じことだと考えて差し支えないだろう。

簡単におさらい。
志向的でない状態あるいは事象をUとすると、
一次の信念:Uについての信念。例、人が走っていると信じる。
二次の信念:Uについての信念についての信念。例、人が走っていると信じていると信じる。
三次の信念:Uについての信念についての信念についての信念。例、人が走っていると信じていると信じていると信じる。
四次の・・・(無限に続く)
この入れ子の話は、志向的な状態一般に(例えば欲求とかにも)通用すると思うけど、研究ではたいてい話を信念に限るわけだ。
二次の欲求の例1:人が走っていると信じることを欲する。(走っていると認識してほしいな)
二次の欲求の例2:人が走ることを欲することを欲する。(走ってほしいと思ってほしいな)
三次の欲求の例:人が走ることを欲することを欲することを欲する。(走ってほしいと思ってほしいと思ってほしいな)
高次の心的状態について語るときに、自分の状態でなければならない、という制約をつける人もいる。
自覚公理をつける人も。

大森さんの話で興味深かったのは、コンピュータシミュレーションの結果、同じレベル同士だと協調課題がうまくいかないということだ。これはどんなシミュレーションなのか詳細がわからないので(それをその場で聞くのも野暮だったので)疑念は晴れないが、もしこれが確かなら重要な手がかりだろう。たしかに、日常生活でもそのような例は思い当たる。
しかし結局、根本的な問題は、レベル切り替えがもし行われているのなら、それはどうやって(何を基準に)行われるのか、ということだ。あるいはもっと広く言えば、レベルの設定がどうやって行われるのか、ということだ。それがメカニズムのネックなのだ。ちなみに私の研究はこれについての研究である。
講演ではこの点についての言及はなかった。Sさんが質問で時間要求のことを指摘していたくらいだ。

もちろん「これは擬似問題である」という決着のつきかたをする可能性もある。
私がこれまで行ってきた試みは、次の2種類。ひとつは、井の中の蛙。もうひとつは一階の事実化と私が呼ぶもの。前者は、自覚公理に対抗するもの。後者は、その上で、階の規定因のひとつになりそうな手がかり、かつ、擬似問題化への入り口。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゲームと本と想像力

私はコンピュータゲーム(いわゆるテレビゲームを含む)が好きでしばしばプレイする。その大きな理由の一つは(すべての理由ではない)、私が「ストーリー」なるものを好むからだ。私の周囲の人はよく知っているだろうが、私は映画を観る頻度が比較的高い人間だ。これにも理由は共通する。

テレビゲームに対する昔からよくある批判は、「テレビゲームは想像力を使わないからダメだ。本は想像力を要する。だから本を読め。」である。
ありふれているので、ここで特定の何かを引用するまでもないだろう。「テレビゲーム」「想像力」「本」などでウェブ検索してもらえばじゃんじゃん出てくる。
この種の批判がもし正当だとするなら、映画にも当てはまると思うのだが、なぜか映画に対してはほとんど聞かない。

そんな批判を片目に、私事を反省してみよう。参考になれば幸いだ。
私は、仕事柄当然ながら、本が読めないわけではない。それでもテレビゲームや映画を好むのは、逆説的かもしれないが、想像力があるからである。つまり、想像力がないから小説じゃなくテレビゲームにいくのではない。本を読んでいると、次から次にいろんな可能性が頭に浮かんでしまう(これを想像力があると言わずして何というのか)。それによって私は(ジャンルを問わず)本を読むスピードがおそらく平均よりも遅い。かかる時間はどうでもよいとしても、そんな風に頭が働いてしまうのは、ストーリーを読むという楽しみにとっては、かなり邪魔である。
そこへいくと、テレビゲームや映画は、想像範囲を適切に制約してくれる。余計なことを考えなくてよい(それでも提示されたこと以外をまったく想像していないわけではない。ある程度の想像は常に働いている)。だからこそ私に好まれる。

もし私と同じような人が多くいるならば、ストーリーつきのコンピュータゲームを小説よりも好む人々は、想像力がないのではなく、むしろありすぎて困っている人たちではないだろうか。


無論、心理学的には、想像力の定義が問題である。世の人々はいったい何を「想像力」と言っているのか?
想像を可能にする能力のことか?あるいは出来事ひとつあたりに対する推論の量のことか?あるいは頻度のことか?自発性のことか?それとも?
「想像力が養われない」と言うときは、いったい何のことを対象にしているのか、それを養うとはどういうことか、を明確にしてほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

surveyの偏り

本を読んでいてふと思い出した。

以前、学会の休憩時間にTさんとサンプリングのバイアスについて話したことがある(どういう発表を聞いてそういう話題になったのかはよく覚えていない)。

ふつう質問紙調査などをすると、回答拒否者や未回答項目が現れるのが常である。心理学なんかだと、有効回答率が50%もあれば大喜びである(たいていは、リサーチパネルに頼んだりするのではないから)。しかも調査者はそういう予想をした上でどの程度の量配布するかを考えているものだ。

そのとき話題になったのは、何かを調べたいときにこのような偏りをどうすればよいのか、という点である。回答するかしないかが当該の調査内容に無関係であれば問題は深刻ではないだろう。しかし、化学反応の検証や動物実験ならともかく、質問紙調査などでは欠損するかどうかと測定内容(質問されていること)に連関がないと考えられる場合なんてほとんどない。
有名な例では、ルーズベルトとランドンの大統領選挙の予想が200万件以上の有効回答を得たのに外れた事例がある。

これはよく取り上げられる問題なのだが、そのときの談話は、結局このようなバイアス(にもとづく非妥当な結論の導出)を避ける方法があるのか?われわれが知らないだけで、社会調査などの専門家はそういうテクニックをもっているんじゃないのか?という話だった。「よくわかんないね」で終わったのだが。
それ以後、この問題への対応策は未だに知らない。

基本的に、これは人間を対象にしていることから来る方法論的困難だ。もし科学者に、人々に強制的に回答させる権限があるなら、このような問題は比較的軽くなる(それでも無くなりはしないけど)。しかし、そんなのは古代の専制政治ならともかく現代社会では無理だね。

実は、質問紙調査にかぎらず、比較的安定していると考えられている(それゆえ報告でのサンプルサイズが3だったりさえする)精神物理学的なテストや生理的活動の測定でも、同じ問題から逃げられない。実験参加者の選択もこれと同じだから。つまりそういう実験や調査に対して関心のある人だけ心理学者は調べているのだ。

人間科学が一向に進まないのはそのせいか?いや、こんなことを言うと研究者を盲目にしてしまうのでやめておこう。


市民の皆さん、心理学者や教育学者や社会学者はこんな可愛そうな人たちなんです。
市民のためにその身を投げ打って新たな知見を得ようと努力しているのに、他でもないその市民によって(ネガティブな言い方をすれば)研究が邪魔されているのです。ああなんて悲劇的。
こんな哀れな動物に「調査にご協力を」と潤んだ眼差しを向けられたあなた、ぜひ協力してあげてください。

続きを読む "surveyの偏り"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »