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2007年6月

原理的なvs.方法論的な反証可能性

「反証」と「反証可能性」の区別は一般的に認められている。
おさらいをしておくなら、反証可能性の有無は、実際に反証されたかどうかではない。言うまでもないけど、反証されていなくても、反証可能性は有し得る。
科学的理論の有意味性の基準としてのこの反証可能性の重要視は、テスト自体についての疑問の声が上がりながらも、捨ててはならないポイントとして今でもひき続き広く普及している。

しかし、以下に書くところの、反証可能性の中を区別する持論は、同じものを他から聞いたことがない。

反証可能性、いや、ここでの話がより理解しやすいようにひっくりかえして反証不可能性としよう。
これには少なくとも2種類あると私は考える。
ひとつは原理的反証不可能性と私が呼ぶもの。どうあがいても原理的に反証することができないこと。
もうひとつは、この呼び方が適切かどうか自信はないが、方法論的反証不可能性と私が呼ぶもの。これは、原理的に反証不可能というわけではないが、目下のところそれを反証する方法がない、ということ。
また、ちょっと横道にそれるが、「方法論的に反証不可能」と「方法論的に反証困難(あるいは反証的検証困難)」も区別される。

原理的反証不可能性と方法論的反証不可能性はどう違うか。
原理的のほうは、まさに原理なのだから、どう転んでもそのような特徴をもつ仮説なり理論なりが反証されることはない。遥か昔から、未来永劫。
方法論的のほうは、原理的と同様に、反証する方法を現在のところ持たないのだが、原理的に不可能なわけではない。いつか反証されるかもしれないという余地を残している。しかし今すぐテストをしろと言われてもそれは無理、というようなもの。検証困難との差を明確にするために、この「無理」が「今何かするのは絶対不可能」であって「難しい」ではないことに注意されよ。

具体例をあげてみる。
よく槍玉にあげられるダーウィン的進化論は、高く見積もっても「検証困難」の範疇だ。テストできるし、されてるし。私のいう方法論的反証不可能はそういうものが相手ではない。
原理的反証不可能の例は、「この世界の他に、この世界と互いに何の関係もなく絶対に影響も及ぼしあわないような(つまりは我々がそれを知ることも不可能な)別の世界が存在する」とか、そういうの。どうしようもないし、どうでもよい。
そして方法論的反証不可能の例は、いわゆる培養槽の中の脳じゃないんだよ、とか。これは、反証できる余地がある。理解できないならマトリックスを思い出せ。

確かに、原理的反証不可能な説をナンセンスの範疇に放り込むのはまともだ。しかし上の例からわかるように、いくつかの典型的な懐疑論的仮説をすべて原理的に反証不可能だと扱うのは間違っていると思う。それらは方法論的に反証不可能なのである。マトリックスに住む普通の人間は、モーフィアスも助けてくれないし、ネオみたいに自分で差異に気づくこともできない。それだけなのだ。原理的に反証不可能なのではない。
だから、もし私が、科学者たちがメンテしている培養槽の中の脳だったら、科学者たちが飽きてメンテをやめてしまって何かそれまでとは違うことが生じたら培養槽の中の脳じゃないというのが反証されるわけだ(わかってもどうしようもないと思うけど)。マトリックスの例ならば、作り出している機械が壊れることを想像せよ。
けれども、これは私自身が今何か努力することによって成し遂げられるような反証ではない。だってその科学者たち次第なんだから。でも「何がどうなろうと永久に反証不可能」ではないんだよ。

よって、Fogelinが言うように懐疑論的シナリオが「理解」できるのは、その理由は実は、それが原理的に反証不可能ではないからだと私は考える。
同様に、宇宙の物理的法則が時間的に斉一であるという仮説は、これまでの法則が明日崩れれば反証され得る。しかし、これも今日の我々ではどうしようもない。ただ明日を待つばかりだ。だから、これは有意味な仮説なのである。仮説だけど。


これ、非常に重要な区別だと思うんですが、これくらいなら誰かすでに同じこと言ってておかしくないと思うんですよね。誰か知ってたら教えてください。

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行動分析学

前に行動主義(いわゆる概念的行動主義)に対して典型的な批判を書いたから、アンチだと思われているかもしれないが、いやいや、私は基本的に行動分析学という学問(分野)を賞賛している。
なぜって、私が知るなかで最も有益な心理学理論体系だから。現在の認知心理学よりもなによりも。
だからべつに驚くほどのことでもない。

ここでの有益というのは、現在のところ応用的に、ということ。
行動分析学の成果はものすごい。誰も逆らえない。
研究者世界では隆盛の極みである認知心理学の理論なんて欠片ほどしか役立っていない。まあ、多くの大家は役立てようとも思っていないのかもしれないが。
教育も、認知のほうに行かずにもっと行動分析に近寄ればよいのに(そうする人は日本にもいくらかいらっしゃるのだが、いかんせん少数派のようだ)。
それがどうして、嫌われるのは、いわゆるピープルが大好きな「こころ」なるものを行動分析学が無視するように見えるから。その点で社会、認知心理学が好意を集めている。
しかしこれは間違いだ。これら心理学はそのような人たちが期待するような形のものではないのだ。ここに大きな誤解がある。認知心理学者自身もときどきこの誤解を共有している。社会心理学者はもっとすごいことになってる。
認知心理学のほとんどすべては未だに、主観と客観を橋渡しする論を明確に示していない。よって、荒唐無稽な主張をきれいにふるい落とせば、この「こころ」は研究していない、と結論されるのが認知心理学だ。方法論的行動主義は何のための「方法」を指しているのかを見間違えてはいかん。
「こころ」を大切に、というのは臨床心理学の守備範囲でもある。しかし、その言葉が真にそれを指示するのは残念ならが経験的学問において広く認められている方法論を採用していないタイプの研究であり、採用するタイプのものは認知心理学と同じ壁に顔をこすりつけている。どちらもその期待通りのものを市民に与えることができていない。市民がひとりでに与えられてくれるパターンがあるくらい。
脳科学者もどうしてか同じ穴に足をつっこみたいみたいだが(もっと安全な世界で暮らせるのに)、まだ彼らのほうがこの断絶を真摯に受け止めているようだ。

余談が増えすぎたので元に戻ろう。行動分析学の応用的成果が目の前にあるのだから、ほかの人達もそれを見習うべきだ。後付けの説明理論はどうでもよい。民は本当にそんなものに税金を使いたいのか?
例のグラントなどもよく取れるものだと私は感心するばかりだ。ほとんど騙しているとしか思えない。


これくらい書けばなにするべきかわかるだろうに。

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