« 原理的なvs.方法論的な反証可能性 | トップページ | 一階述語論理の公理 »

礼儀正しさ

礼儀正しさとは何か。

礼とは本来、マナー(エチケット)のことであり、尊びではない。
そして、私も多少 Confucius を勉強したが(それ以前に私の育った文化自体が多大な影響を受けているが)、後に行動様式だけでなく道徳規範も指すようになったようだ。

ところで、このマナーというのは(道徳規範も含めてもよいが)、普遍のものではない。ある行為が、ある人にとっては礼儀正しい行いであり、別の人にとってはそうではない行いだと見なされることもある。よく引き合いに出される例はゲップとか。特に、同じ共同体で暮らす者の間ですら観念が多様化している現代では、そのような食い違いは日常茶飯事で見つけることができる。
そしてこういうマナーみたいなissueで問題になるのは(他のissueではそうではないこともあるのだが)、そこに多様性が生まれたときに、どちらがよりよいなどという決着が付けられないことがあることだ。まあ、大抵そうだ。
そうすると、どういう行動様式をとるかは個人の裁量で決める以外になくなる。
そして、冷静に考えれば、そういう風に他者が自己判断で採用しているマナーが自分のそれと異なっているとしても、文句は言えないはずである。だって根拠がないもんね。

しかしちょっとここで考え直したいのは、もともと礼儀というのは、相手を不快にさせないための、という目的付きの行動様式なのだ。つまりマインドリーディングだ。他者がどう思うかを予想しなければならない。単に自分で何をするか好きなように決めればよい行動の一種ではない。
ところがどっこい、前述のように多様化しているため、他者がどう思うかを推論するのも一筋縄ではいかなくなっている。だから、これについての確信を持てる推論などあまりできず、結局自分がよいと思う行動様式に近い所に決めるよう傾向づく。(こんな現状なもんで、むしろ「あーこの人は頭が古くて堅いなー」という場合のほうがこの件に関しては楽だ)。
もうひとつ浮かぶ問題は、行動の観察者にとって、意図的配慮をもって(すなわち他者がどう思うか予想して)その行動をしているのかそうでないのかの弁別がますます難しくなっていることである。
つまりは、「遠慮は無沙汰」みたいなことである。

さて、最初の問いに戻るが、礼儀正しさとはどう決めればよいのだろうか。

1) シンプルに考えて、自分が礼儀だと思う行動様式に則っているかどうか。個人的。
ここで「礼儀だと思う」は、「他者を不快にさせない等の目的のために自分が従うべきだと考える」の意である。
この「礼儀だと思う行動様式」が a)「誰に対しても同じ」ものであるか、b)「相手によって変わる」か、のバージョンがある。そしてもうひとつバージョン分けがあって、I)どんな場合でも「他者を不快にさせない等の目的」達成の妨げになっていない(と考えている)ことが基準だ、というものと、II)ある条件の下では行動がその目的達成に不利に働くと考えていても「礼儀正しくない」とはならない、というものである。
I)は融通がきかない。みんな人生の最優先の目的を「他者を不快にさせない等」にしなければ「礼儀正しく」なれない。「こういう場面ではそこまでしなくとも・・・」は存在しない。ということでおそらく大多数の人は礼儀正しくない。
しかし、穏健な案に思える II)では、ほぼすべての人は自分がそうするのが最善だと思っていることをするであろうから(合理性の仮定)、ほぼすべての人が礼儀正しいことになる。

2) 多くの人が礼儀だと思っていることの共通部分(積集合)が「真の」礼義であり、それに則っているかどうか。
ところが、ますます多様化する社会では、全員の共通部分がなくなるどころか、多数派の共通部分もなくなる(あるいは複数できる)こともあり得る。そうすると、その社会では誰も礼儀正しくなくなる。

3) 礼儀の目的が「相手を不快にさせないこと、円滑に進めること、etc.」であるとして、そうできていれば結果主義的に「礼儀正しい」。つまり事前の予想は関係ない。
しかしこれでは、一般に「マナー」が含意するような「予め定まった様式」は意味がなくなる。

4) 礼儀の目的など忘れ去って、単に歴史的なあるいは古くから有る様式に従っているかどうかだとする。その行動をとることで全員が(本人すら)ムカついていても、昔のやり方に従っていれば「礼儀正しい」。これだと、慣例などの語との区別は、「もともとはその行動様式の目的は相手を不快にさせないことだったのよ」という歴史的背景によってのみで可能となる。

他にも候補があるかもしれないが、まあ、よくわからない。

というか、私に騙されないようにしていただきたいのだが、こいつの定義を決めようとすることは、そもそも礼儀の目的(と仮定されているもの)のための必要な手段ではない。上のような定義の試みあるいは礼儀正しいかどうかを判定する基準づくりは、おそらくまずもって他者が行動者を評価するために要求されているものであろう。そしてそのこと(他者による礼儀正しさの判断)は当の行動者にとっては本来の目的とは関係のないことである(別の目的(たとえば短絡的な評価しかしない第三者から高い評価を受けたい)においては重要かもしれないが)。
もちろん、上記の「他者を不快にさせない等の目的」のさらに上位目的があって、そのために要されるという考えがありえる。が、それはこの記事では下記にちらっと匂わせるだけにしておく。

ここまでの私の個人的意見からまとめると、

A) 礼儀の目的は人が持つ数ある目的の一つなのだから、必ず最上位に置かなければならない義務などないし、それが行動評価において優先事項として崇められるのは冷静でないというか、感情的だ。それでは効を失する可能性がある。それよりも優先すべきことは世の中にたくさんある。

B) 礼儀と尊びに必然的な一対一の結びつきはない。しかしこの社会では尊敬している場合にもいわゆる礼儀正しく振舞うことをする。これはすなわち、原因のひとつであるということ。他にも原因はあり得る。よって発話などを伴わない行動からは尊敬しているのかどうかの判別がつきにくい。

これらからさらにいろいろなことが導かれるのだが、それは書かないでおく。任せます。

ちなみに、私の個人的行動の意図的部分は、これらのさらに先まで考えた末で意思決定されているものです。
故に、その真意を測るには、上のような話とか道徳論とか社会思想とか、素朴でない多くのことを考えなければなりません。申し訳ないことに。
それをいちいち考えない方々には、私というのは単に理解不能な人に見えます。おそらく。
お手数をおかけいたします。( _ _)

|

« 原理的なvs.方法論的な反証可能性 | トップページ | 一階述語論理の公理 »

Ε 社会学の諸問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/26863/7624721

この記事へのトラックバック一覧です: 礼儀正しさ:

« 原理的なvs.方法論的な反証可能性 | トップページ | 一階述語論理の公理 »