« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月

actionとinaction

昨年秋に職場が変わってからというもの、私の心理学研究は完全に封印されている。
研究関連の作業は一切やっていないし、あれほどやっていた論文読みもしていない。まさに凍結だ。
それまで購読していた雑誌は未読がたまりほうだい。どれくらいの量になっているか先日確認してみたら、・・・数えられませんでした。750冊は超えています。恐ろしい。今後遡って消化できるのだろうか・・・。実際はabstractに目を通すだけの論文がほとんどで全文読む論文はだいたい10~20分の1くらいなんですが、それでもねえ、量が。今までやっていたことにびっくりさせられる。
あの生活に戻れるのだろうか・・・。

そんなこんなで、話題チェックもかなーり遅れているのですが。最近になってようやく時間をみつけて論文を読むことができるようになりました。それでも、二宮金次郎ばりに、休憩時間に食堂に食べ物を買いに行く間に論文を片手に歩きながら読むくらいです。他はむりです。えらい違いですわ。やっとこさ短い論文1本て。

というわけで、ちょっと古いのですが、ここではいつもネタが古いから、まあいい。(R藤本)

---

J of Consumer PsychologyでRoese et al.がZeelenberg & Pietersの理論にコメントを出している。subjectは後悔と自己制御。

後悔の研究では伝統的にaction vs inactionの区別がされている。やったこととやらなかったことでどっちが後悔するか、みたいな話でよく登場してきた。Roese et al.ではそれをHigginsのregulatory focusと結びつけて語っていた。
このaction vs inaction、私がKさんの研究に対してもコメントしたことだが、あいかわらず素朴すぎて意味がわからない。厳密な定義は見たことがない。なんとかならんもんだろうか。
もともとこれはGilovich & Madvec (1994)が出してから有名になった区別だったように記憶している(その前にも着目者はLandmanやT&Kなどがいるが)。じゃあ実際にこの論文でどうやってaction/inactionが定義されているかというと、研究1では電話インタビューで

what would you say you regret more, those things that you did but wish you hadn't, or those things that you didn't do but wish you had?

と尋ねている。つまり、action/inactionは一般市民がどう思うかで決めているのだ(ある行動をactionと捉えるかinactionと捉えるかはその人任せ)。素朴な観念にゆだねているし、判断に普遍性があるのかどうかも(研究はあるかもしれないけど)私は知らない(Gilovich & Madvecも研究2でちょっと触れている)。
研究2では参加者に人生で最も後悔していることをいくつか記述させて、その内容について第三者の素朴な評定者2+1人がactionかinactionかを決めている。評定者に与えられたタスクは、

determined whether each regret stemmed from an action taken, an action foregone, or some circumstance beyond the person's control

だ。正確には、後悔を8 actions, 8 inactions, and 1 outside of person's controlの17のカテゴリの1つに割り当てることをしている。2名の一致度は137 of the 213 regretsだ。これでも結局、action/inaction区分についての漠然とした印象に頼っている。客観的定義ではない。
研究3,4では、著者がaction及びinactionの典型例だと考える事例を用いてシナリオ実験を行っている。これも著者の印象による条件設定であり、また、1つの比較的clearに見える例しか使っていない。
研究5では、詳しい質問文は挙げられていないが、質問紙でasked subjects to recall (but not write down) their single most regrettable action and inactionして、asked to indicate which they regretted more, the action or the inactionという具合だ。ここでも参加者任せ。

ということで、結局action/inactionについての直観に頼っているのだ。しかし人の直観は往々にして誤ることがあるというのが、20世紀末の心理学からのメッセージの1つだから、あてにならない。というか、研究としては定義が必要だ。むしろaction/inactionというイベントの特性ではなくこの直観を作り出しているなにがしかが後悔云々におけるeffectを作り出している張本人かもしれないし。すなわちaction/inactionのほうが後に続くものかもしれない。

村田先生のところの最近の研究(Dohke & Murata, 2008)では、decisions involving a switch away from the status quo (action decision)およびdecisions involving staying with the status quo (inaction decision)と定義されているようだ。status quoを使うあたりがおもしろいが、結局私がKさんにコメントした運動の有無による定義の欠点と同じ問題をはらむように思う。この点についてRoese et al.で関係するとすればprevention focusとのからみだ。現状維持で必死にあがいている行為は市民の直観によれば行為であって、非行為ではない。

Gilovich & Madvec (1994)もaction/inactionを評定させるのは難しいかもと思ったと書いている。しかし彼らの悩みは、どんなactionでも裏を返してinactionにできる、というものだ。例えば、「草野球をした」は「それ以外の何かをしなかった」ということと捉えられる。これは、「草野球をしたこと」という後悔対象の記述回答に対して、真に何に対する後悔なのか評定しようというGilovich & Madvec (1994)に特有な悩みだ。
しかしKさんの研究などで私が懸念していたのはこれとは異なる問題である。ある行動が、(他の行為の欠如とするのではなく)それ自体でactionにもinactionにも描けてしまうという、いわばフレーミングの問題であり、行為とはなんぞやという行動記述の中核的問題でもある。例えば、「出席した」と「欠席した」はどちらも「した」こととして表現できるが、両者は逆の意味であり、午後1時に講堂へ行って席に着くことが「出席した」なのか「欠席しなかった」なのかはどうやって決めるのかという曖昧性がある。

曖昧性をなくすには単に定義すればよくて、何かを基準にaction/inactionを定義して曖昧性を取り去るのは簡単なのだが、そうするとどうも一般市民の直観と合わなくなってしまう。つまり直観と合うような未だ客観的定義を見つけられていない。これが現時点でaction/inactionをテクニカルタームとして用いることの問題なのだ。

理解してもらえると期待する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »