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試験は何のため

審議会からまた場当たりな提案がでているようですが・・。
そういうのは行政の行動パターンなんだから、学者はもっと長期的・展望的なモデル提案をしなされよ。

いつも言っていることを簡単にまとめ書きします。あいかわらず浸透していないです。

まずみんなに理解してもらわないといけないのは、テストは何のためにやるのかということです。
それは、場合によります。
ただ、現実に行われるテストの目的は、大きく2種類に分けて考えられます。1つは、テストによって対象の属性をできるかぎり正確に測ること。もう1つは、テストによって測られる対象を順位付けること。
他にも細かい目的はいろいろありますが、大抵はこの2つのどちらか(あるいは両方)です。
前者の典型例は、医学的な検査やTOEIC、漢字検定などです。後者の典型例は学校入試やコンクールです。

テストの対象が人であり、測られる属性が知的能力であるものが、俗に学校で「テスト」と呼ばれています。

能力を正確に測るためのテストにて、「試験対策」をしていけません。それは、能力の査定をゆがめます。あなたがどんな能力を持っているのかを正しく把握できなくなります。テスト得点がそのような受験者の対策くらいで変動しないように作れればいいのですが、現実的にそれは難しいです。ちょっとテストを工夫したとしても、世の中には教育ビジネスが存在するので、徹底的に得点を正の方向にゆがめる方法を解析されます。だから、現状では、テストを受ける人に自主的に「対策」はしないでね、とお願いするしかありません。(そんなことを先生から言われるなんて聞いたことないですが。)
つまるとこと、現実には、能力評価テストの得点は実際の能力よりも水増しされているということです。本来は能力評価テストは素の状態で受けるべきものです。なぜそんな歪曲を先生も親も行いたいのかは・・・ここでは言及しないことにします。

逆に、順位を付けるためのテストで少しでも高い結果を得ようと「対策」を行うのは、まともなことです。そのような競争で対象の質が上がることをねらっているテストの場合はとくにそうです。

多くの市民はこれらを混同していると思います。入試に「対策」をするのは結構ですが(その入試が順位付けの目的で行われるならば)、中間試験で「対策」をしてはいけません。本当はあなたが分かっていないことを、対策によって理解なしにたまたまマルになってしまったばかりに分かっているとされて(先生も自分も)そのまま進んでしまいます。これはあなたにとって単なる損です。大損です。その後悪循環します。
中間試験の順位など意味がありません(1位になったら学校から図書券をもらえるとかなら別ですが)。どの項目を正解し間違えたかという事実そのものとそれが表している能力査定にこそ意味があります。学校が順位を貼り出すのは、そんな風に順位が重要だと誤解している学生を利用しての動機づけのためです。つまり馬鹿にされているのです(あるいは先生も誤解しているのかもしれませんが)。非常におかしな方向です。本来は学校が動機づけをするとしても別の側面で行うべきなのですが。いや、はっきり言うと学校が動機づけすること自体が変ですが。

上で能力評価の例に挙げたTOEICなども、別の目的でそれが利用されるようになると事情が変わってきます。「TOEIC対策」が現実に存在するわけで、それは、そのテストの結果が別のどこかに送られ、入社可否、昇給などの単なる能力把握とは別の意味を持つからです。しかし、TOEICはそのような使い方がされることを最初から念頭に置いているので、テスト手法において小手先の対策程度ではできるかぎりスコアがゆがまないような努力がされています。(微妙にゆがんではいるとは思いますが)本当に英語ができる人でなければ高い得点はとれません。しかし教科担当の先生が作っている学校のテストではとてもそこまでできません。

基本的に、テストスコアが自己把握ではなく何かに「使われる」限り、TOEICと同じ問題が起きます。そこではテスト作成・運営側が方法論を検討し正確な測定のための方策を練る必要が出てきます。
しかし、学校の中間試験はいったい何に使われるのでしょうか。
親はテスト得点と子への報酬をつなげているのかもしれませんが、それは必要なことではありません(これは教科内容を理解することに報酬を与えるなという意味でははなく、テストの得点の数値だけに報酬を依存させるとおかしなことになるという意味です)。
あるいは校内や地域における社会的地位でしょうか。これも学校が本人以外に公表しないという対処をすればそのような不必要な結びつけは回避できます。そして公表する必要は実際にないのです。まあ、学校社会の問題はそう簡単ではないのですが。
学校の中間試験は、自己把握のために純粋に使えるものを、わざと他の(仮想)目的と結びつけているように思われます。
だから、能力評価テストとしての中間試験は、テスト作成担当の先生が難しいことを考えなくても、学生の目的が自己把握以外のところに向いていないならそれで万事OKのはずです。
なんで子供に夜食を運ぶかな。

書き出しがあれだったのでもう少し話を広げておきます。

前述のように、中間試験や期末試験は何のためにやっているかというと、第一には、学生がどの程度の能力を身につけたかを測るためです。学校は、学生に能力を身につけさせることを目的としているのですから、それが実現できたかどうかについてこの査定を実施するのは当然です。修学期間の最後ではなく途中で試験を行う目的からして、本来は、その試験結果はその後の教育活動にフィードバックされなければならないのですが、現場でそれがどこまでなされているかは微妙です。少なくとも私は学生の頃そのフィードバックを感じたことはありません。つまり、試験の次の授業内容は、試験結果にかかわらず予め決まっていました。集団教育では難しいというのもあるでしょう。試験結果からの修正は学生自身にまかせられます。先生が作ったテストなのに。学生にテストが測っている概念がわかるはずがないのに。よって、試験はその結果を学校外の誰か(別の学校、会社、親権者等)に伝えること(外部による査定手段)が目的の主要部分になっているケースが多いです。

一方、入試は何のためにやっているのかというと、(建前はどっかにいろいろ書いてあるかもしれませんが)学校が抱えられる人数以外をふるい落とすためです。場合によってはそうでない学校もあるかもしれませんが、多くの学校では、入学の可否を(そのテストの性質に基づいて予め定まっている)得点の絶対値で切ることはしません。順位で切ります。よって、これこれという能力を持っている人だけを入学させる、という仕組みにはなっていません。これが、教員が期待する基礎能力を備えていない学生が大学に入学してくる原因の主要な1つです。
なぜふるい落として一定人数にするかというと、大学の経営が固定的だからです。学生数が増減すると、それにあわせて教職員の数も増減させなければなりません。仕事の量が変わるから当然です。でも、いろんな理由で、大学はそんなことはしたくないし、できないんです。だから、大学の学生数に定員があるのは、労働者である教職員の労働条件的都合なんです。(本当はそんなに単純じゃないんだけどあえて一原因単純化です。)

学生とその能力の分布が変動するなら、定員制と能力水準を両方維持するのははなから無理です。この両立がこれまでうまくいくように見えていたのは、この分布が比較的変動しないという前提からです。まさに安定供給です。毎年、一定以上の能力を持つ者が一定人数できあがると仮定していたのです。
さて、その仮定が崩れた場合、どうすればいいのか。

単純に考えれば方法は大きく2方向あります。
1つは、大学教員が教育内容を毎回柔軟に変動させるやり方。今年の1回生は二次関数がわからないなら二次関数を大学で教えなさい、ということです。教員は毎年レベルの異なる授業づくりに追われます。
もう1つは、一定以上の能力を持つ者だけ入学させて大学の教育内容は一定にするやり方。つまりこれだと、学生数は一定でなくなります。あるいは、入学させるも放置する、という手もあります。お金を払っていても対応してもらえない(卒業もできない)のだから、圧倒的に中途退学が増えます。結果、学生数はばらばらします。

伝統的に、大学教員は学生の多様性にある程度対応してきました。理由はそもそも大学での学問というものの特徴にあるわけですが、それによって幸運なことに学生のレベルの違いを吸収してきた面があります。しかし現代日本の問題はそれが吸収できる範囲を超えつつあるようです。大学教員はまさか学生に分数の計算から教えることになるなんて口をあけてしまうでしょう。

小中高大という学校のレベルの区切りが持つ意味を尊重してそれを維持しようとするなら、2つの方向のうち大学の教育内容を一定にするのがまともだと思われます。そうでなければ大学は「大学」ではなくなります。この結論は多くの人が賛同するのでしょう。よって、審議会は、大学に入る学生のレベルを保つための方策を提案しました。結局、入学までに科せられる試験を、能力評価的な目的にしよう、ということです。しかし、個々の大学は、定員制は廃止しません。すると前述のどの方向にも合いません。うまくいくはずがないと思いますが。。。

大学の入学時定数制を保つなら、これまでどおり試験は順位付けにし、どんなに能力が低くても○○人までは採る、という風にするしかありません。しかしその場合でも、前述のとおり、能力が低い上にやる気のない学生をなんとか押してあげるのと、放置するのと、2つの方向があります。後者の放置するのは欧米型です。前者でやってきた日本は(特に私立大学は)おかしな方向のサービスが充実しすぎています。押してあげるならレベルの低さに文句を言ってはいけません。それは最初からサービス内容に入っているのだから、教員は文句を言わずに分数を教えて働きなさい、ということです。

審議会は新しい能力評価型(と思っている)試験を導入すれば学生のレベル低下を避けられると思っているようですが、それはこれまでの入試と同じか、法的な力を持たせ定員制を無効にして大学を潰すかのどちらかです。

あるいは、運良く、一定レベル以上の学生が現在の全国の大学が必要としている人数より多くなればいいのですが。

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