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良い問いと悪い問い

とってもとっても基本的で重要なこと。ぜひ心していただければと思います。
難しいことを考える人だけでなく、誰にとっても。

 一、 我々の考える能力は、(最高にとは言わないが)非常に強力である。すなわち、外の世界では成り立たない事柄についてまで考えることができる。

その例として、私たちは、嘘をついたり、間違った文章について批判したり、現実世界にそのモデルがない(だろう)公理から数学を展開したり、後悔したり、できます。

このことを図にすると

この A が私たちの考えられる範囲で B が外の世界 ではなくて

こうです。図の重なっていない黄色い部分が空でない(何かがそこに含まれる)ということです。実のところ、空でないなんてもんじゃなく、めちゃめちゃ詰まってるんです。


私たちは、わからないことについて疑問・問い(question)を立てて、それに答えようとします。日常生活だけでなく科学者の仕事現場でもそれは同じです。
さて、私たちの考える能力がパワフルということは、いろんないろんな問いが自在に作れるということです。しかも現実の世界の在り様なんかまったく無視してです。
日常で遭遇するようなふつうな問い(例えば「リンゴ3個ウチにおいてあって今日リンゴ2個買って帰ったら全部で何個になる?」)だけでなく、はちゃめちゃな問い(例えば「すべては存在しないのではないか?」)も作ることができます。余談ですが、哲学の歴史の一部は、そうしたはちゃめちゃな問いに答えようとしてきた節があります。
私たちに作ることが可能な問いがいかに多様かについては、あなた自身が疑問文を作れる能力について振り返ればすぐわかってもらえるでしょう。疑問文、自由自在に作れますね。もう1つ作って、もう1つ別の・・・とお願いされても全然困らないですね。

さらに、疑問文を作る上で千両役者なのが、「なぜ」"why" という語です。これを付ければ、なんでも重要っぽい疑問になります。しかも、はい/いいえで答えられる疑問ではなく、かなり深めな感じの。
なので、科学者、哲学者、宗教家、思想家、一般人を問わず、「なぜ」が多くの人を魅了してきました。


では、私たちはそのように多様で大量な(実のところ無限個の)問いを立てることができるのですが、それらの問い全部の答えを得られるのでしょうか?

この疑問への答えは簡単です。ノーです。無理です。

理由は大きく分けて2つあります。

a) 問いが多すぎる。

単純に量的な問題です。問いが無限にあるならば、いくら1つずつ解を与えていっても全部の答えを出すことは誰の一生のうちにもできません。(※量の話には少し注意が必要)

b) 基準(例えば論理的な)を満たす答えのない問いがある。

うそつきのパラドクスを思い出してください。あれも、私たちの考える能力がパワフルすぎるゆえに起こることです。

( 注.
もう一つ、答えを出すことの困難さに関して次のように「多義性」を挙げる人もいます。

c) ある疑問にて問われていることが十分特定されておらず、何を答えればいいかが1つに定まらない。

ただしこれは、多義が無限多義でないかぎり、全部の解釈に対して答えを出せば質問者はどれかでOKしてくれるでしょうし、実践的には、質問者との対話によってどれが本当に尋ねたいことなのかを特定することができます(もしそうでないなら、そもそも何が訊きたいのかを自分でわかっていなかったということ)。なのでこれは、根本的な答えられなさとは別の問題でしょう。)


いよいよ整いました。

このように、私たちが思いつける疑問はぜんぶは答えられないのです。すると、私たちは、何でもかんでも問うという子供のような態度では困ったことが起きるということが察知できるでしょう。
(できれば何らかの基準でもって)問うべき事柄を部分的に限定しないと、問いを立てても満足する結果が得られる見込みはゼロです。
大人としては regulation と know one's place が大切なのです。

ここで、どういう基準で問いを絞るか、ということがポイントになってきますが、とくに上で着目した「なぜ」は、くせ者です。
「なぜ」を付けることで作られる問いをすべて許して追求の対象にすると、それこそ問いが無限に連鎖します。これが「なぜ」のパワーです

「なぜ部屋が明るいの?」「天井の照明が点灯しているからだよ」
「なぜ天井の照明は点灯しているの?」「パパがスイッチを押したからだよ」
「なぜパパはスイッチを押したの?」「あたりが暗くなってきたからだよ」
「なぜあたりは暗くなってきたの?」「太陽が沈んだからだよ」
「なぜ太陽は沈んだの?」・・・

延々と続きます。

「なぜ」疑問は、答え方が複数あるという点で(心理学的にも重要な)特徴があるんですが、
例えば説明を物理科学的な方向へ持って行くとしましょう。すると、そのうち物理法則への言及へ行き着くでしょう。そしてそこで「なぜその法則があるの?」と聞かれると、まともに物理学で答えられる範囲ではなくなります。
人によっては検証不可能な神に言及するかもしれませんが、神にも「なぜ」は付けられますからね。問わないことに納得して自制して「なぜ」をストップしないかぎり神でも止められません。
そんなわけで科学者は「なぜ」の適用範囲に制限を設けます。これがまっとうな科学者の特徴です。


しかし、このまっとうさが、科学以外の分野の学者や、一般市民や、一部の科学者にすら、行き届いていないようなのです。こりゃ大変!


ある問いを問うべきか(「これは答えを得るよう努めるべき問いだ」とするかどうか)の基準をどのように線引きするかは、簡単な話にはなりませんのでここでは書けません。(また別のところで)
また、文の意味の同一性とか答えの要件(循環の禁止など)とかwhyのメタな適用とか、ほんとはもちょっと厳密な議論ができるんですが、それも書きません。
では、ここでただひとつ心に留めてもらいたいのは何かというと、決して「すべての問い」が「問うべき問い」ではないということ、これです。
そして、世間には良い問い(good question) と 悪い問い(bad question) がまぜこぜに漂っているということです。
しからば、みなさんの生活にて、問いを受けたり思いついたりしたときは、真剣に答えを考える前にまずそれが良い問いなのかどうかを判断しなければ、底なし沼へはまる危険があります。あなたの素晴らしいがパワフルすぎる考えるチカラのせいです。


このことを心得ている人とそうでない人の間では、そもそも話が噛み合わないことがあります。

三浦さんの本「論理サバイバル」で知った例です(伝統的らしいですが私は最古の出典を知りません)。
 「なぜ世界の半島はほとんど南向きなのか?」
これも「なぜ」疑問ですね。そして上記の「答え方が複数ある」格好の例です。
どんな答え方ができるかは三浦さんの本で紹介されているかと思いますが(忘れました)、思いつく答えの1つは次のようなものです:
 「なぜって、あなたが問うからです。もしたまたまこの世界の半島はほとんど北向きだったとしても、それでもあなたは『なぜ』と疑問にするでしょうからね」
この答えは、「なぜ」を無節操に適用することの批判とも読めます。

これと似た受け答えの例に、一人称性 (first-person) つまり "私" が絡む「なぜ」があります。
 「なぜ私は他ならぬ山田太郎なのか?」
など。これに対して、
 「もしあなたが山田花子だったとしてもあなたは同じく『なぜ私は山田花子なのか?』と問うでしょ。そこは問うても仕方がない」
と答えるかもしれません。しかし
 「それは答えになっていない。答えがあるはず」
と厳として譲らない。でも結局、何十年経っても満足のいく説明は得られない。
こういうケースが少なからずあります。


お願いですから、みなさんの素晴らしい力と熱意はまっとうな方向に使ってください。

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